日記 #26

23.7.18.

 人生において耐えがたいことは、存在することではなく、自分の自我であることだ。[…]生きること、そこに幸せはない。生きること、ほれは苦しんでいる自我をこの世界のいたるところで背負っていることだ。
 しかし、存在することは、存在することは幸福である。存在すること、それは噴水になること、そこに宇宙が暖かい雨のように降り注ぐ、石の水盤になること。

ミラン・クンデラ『不滅』

 「日常性」を考察する授業のレポートを書くために資料を流して読み返していたのだが、クンデラのこの一節はシンプルでいてなんて美しいのだろうか。クンデラ、読もう。僕も早く石の水盤になりたい。
 存在即幸福というわけでもないけれど。存在は混沌としていて、ある意味でおぞましい。存在は幸福であると同時に不幸でもあるのだ。宇宙をありのままに受け止めながら社会生活を送ることはできない。
 ここから日常が始まる。日常性とは、世界の有害な複雑さをデフォルメする、安定して生活するための保護膜のようなものだ。それは反復であり、期待であり、あるいは自我でもある。クンデラの言葉を借りれば、その仮初の日常性こそが「生きる」ことそのものに他ならない。
 もちろんこれは言い方の問題であって、クンデラとは反対に生きることに安定と快を、存在することに不安と不快を見出すこともできよう。
 それで言うなら僕はクンデラとは逆の方向を見据えている。生きることを煮詰めた先に、存在とはまた別の快楽がある。日常性を分泌し続けた結果、その湧き出る中心に煮凝った自我の塊。そこにもきっと幸福はある。

 …という考え方自体は好きだけど、ではどれほど実践しているかと言うと…。

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