怪談手帖「天井下がりの部屋」考察

※この記事は2022年8月17日配信の禍話有料ライブ「かぁなっきの独りごつ」にて発表された『怪談手帖「天井下がりの部屋」』についての考察記事です。

内容・結末について触れておりますので、ネタバレを避けたい方はアーカイブ(2022年8月31日まで視聴可)
もしくは以下のリライトを先にご参照ください。

(このリライトは書き起こしではなく、書き起こした上で自分なりに表現等を変更したものであることにご注意ください)



はじめに

「天井下がりの部屋」における恐怖の中心は、語り手であるAさんの次の言葉にあると考えて問題ないだろう。

「暗い部屋の、あの天井……なんの変哲もないあの天井をずっと見てたら、思ったんだ。ああ、これ、逆さの子どもでもぶら下がってるほうがずっとましだ、って……!」

(書き起こしからの抜粋)

子ども(のミイラのようなもの)がぶら下がる、と言われていた空間に何もなかった、という記憶を振り返るAさんの言葉である。
なぜ彼は「何もなかった」ことを恐怖したのか。また、なぜAさんの伯父夫婦は死に至り、家は破滅したのか。そもそも「天井下がり」とは何だったのか。私なりに考えたことを纏めておきたい。
断るまでもないことだが、この考察は私の取りとめもない想像をある程度筋道をつけて文章にしただけのものであって、これが正解だなどと言うつもりは毛頭ない。「天井下がりの部屋」という怪談を楽しむ一助としていただければ幸いである。


1. 楔の消失──〈家〉を形作る語り

Aさんの語る伯父をはじめとしたその家の人々の態度は次のようなものである。

「前にも言ったが、伯父さんたちは別に古臭い頭してたわけじゃないし、迷信だ、って切り捨てるとか、部屋を潰しちまうとか、そのほうが自然なんだ。まあ逆に信じてたら、もっとビビるとか、開かずの間にして触れないようにするとか、そういうのが普通だと思う……でも、どっちでもなかったんだ」
あの部屋はそういうものだ、確かに出るし見えるのだから仕方がない、変に怖がるものではない……家の人々は大体がそのようなスタンスだった。

(書き起こしからの抜粋)

彼らは「天井からぶら下がる子ども」という明らかな怪異(以下:天井下がり)を「そういうものだ」として受け入れている。Aさんの言葉にあるように、迷信だと切り捨てもしなければ怖がりもしない。
慣れ切っているのである。慣れ切っているからといって親しみにならないのは、それが「天井から下がる」「背中が顔に見える」以外の何かをなすこともできず、ただ衰えゆく無力なものと認識されているからだろう。
慣れが行きつくものは鈍麻である。その段階に至っているからこそ、

「背中がヒトの顔やら目玉やらに見える虫があるだろ? 虫けらが喰われないために、威嚇のために、ああいう小細工をやる。偽物の顔もどき。要はああいうもんだ。あれじゃあもう子どもとは言えないな!」

(書き起こしからの抜粋)

という、伯父の発言も出てくる。ここには疑いようもなく矮小なものに対する侮蔑のニュアンスがある。
こうして影響力を持たない異常は日常の一風景となり、〈家〉の構成員によってその異常に対する態度ごと共有される。その共有が行われるのが酒の席であり、天井下がりを目にしてその体験を酒の席で語る、という一種の通過儀礼じみたサイクルは次代へと受け継がれる形になっていたのだろう。

……とはいえ、この仕組み自体は何ら珍しいものではない。例えばこれが「天井から下がる子どもの話」ではなく、〈家〉に連なる誰かの失敗談や武勇伝だったらどうだろうか。容易くそれらが語られる場面を想像できるだろうと思う。それらは酒の席で笑い含みに語られ、自分のルーツに対する愛着の下地となるだけでなく、人間関係を確認したり、他の構成員に対して取るべき態度を暗に示しつつ、新たな構成員を取り込む儀式として機能する。そしてこういったやり取りは共同体の繋がりを強化する上で小さくない役割を果たしているはずなのだ(その中である種の歪みを孕んでしまうこともないではないのだろうが)。

しかし、Aさんが怖かったのはその部屋と子どもの噂自体もだが、何より、それがこの一家の間で妙な受け入れられ方をしていたことだった。

(書き起こしからの抜粋)

とあるのは、そういった意味を持つ会話の焦点が「天井から下がる子ども」の怪異にすり替わっているという異常さが、Aさんをはじめとするその〈家〉の一員ではない人物に違和感を感じさせていたからだろう。
そして逆説的に、天井下がりの怪異もまた〈家〉という共同体を形作るための役割を担っていたことになる。もしかすると、「そこにあることが当然」の怪異のほうが共通認識としてより適当であった、ということなのかもしれない。
だからこそ、天井下がりという楔の役目を果たしていたものの消失は、〈家〉の瓦解に少なからず影響していると考えられる。


2. 〈顔〉の消失──のっぺらぼうはなぜ怖いのか

もう一点、天井下がりの背中が顔に見えていたことの意味について考えてみたい。

「でもなんかそれがなんか、顔みたいに見えたんだよねえ」
顔。逆さになったミイラの背中なのに、それが暗がりの中でこっちを向いた大きな顔のように見えるのだと、叔母はおもしろそうに言っていた。顔みたいであって、顔ではない。うまく言えないけれど、と。

(書き起こしより抜粋)

この証言は前掲の伯父の言葉へと繋がり、虫の擬態へと連想がされているわけなのだが、ここに別の意味を見出すことはできないだろうか。
Aさんの叔母は、天井下がりの背中が「暗がりの中でこっちを向いた大きな顔」のように見えた、と発言している。天井下がりが「半ばミイラのようになっていて、布を巻いたスルメか黒ずんだ大きな魚の干物みたい」(書き起こしより抜粋)という状態であることを考えると、これは単に背中に顔がある、というよりは、「天井下がりの存在する空間とあわせて大きな顔を構成しているように見える」と捉えるのが自然だ。映画「犬鳴村」のメインビジュアル(参考:公式サイト)などがこの状態に近いのかもしれない。
とすると、この〈顔〉の消失は、すなわち大きな空虚の出現と言い換えることもできる。

〈顔〉がないものとして第一に思い至るのはいわゆる「のっぺらぼう」である。のっぺらぼうの、

…and the man saw that she had no eyes or nose or mouth, ...

Lafcadio Hearn “KWAIDAN”より“MUJINA”

という容貌は、そこにあることを信じて疑わない〈顔〉がないから恐怖されるのである。 あまりに人口に膾炙した怪談であり、思い出そうとするとどうしても絵本のポップなイラストじみた映像が脳裏に再生されてしまうのだが、〈顔〉がない、という状態は事象として恐ろしいものであるはずなのだ。
シミュラクラ現象(または一種のパレイドリア)が示すように、人間の脳には「強いて人間の顔という記号を読み取ろうとする」働きがある。それほど認識の中で重要な位置を占めるのが〈顔〉であるならば、それが想定された場所にないこと、また想定された場所から消失してしまうことがどんな恐慌を引き起こすかは想像に難くない。
天井下がりの消失による大きな空虚の発生──それは、〈顔〉の消失であったことでより一層の意味を持ったはずだ。

「本当に、何もない。なくなってるんだ。でもやばかった。何もないのに……だからだよな。駄目だって、わかったんだ」

(書き起こしより抜粋)

この言葉の「だから」は「何もない」に掛かっている。「何もない」「だから」「駄目だって、わかったんだ」。Aさんは天井下がりを語る行為に違和感を持っていた。なのにここまで恐怖するのは、語る行為によって共有される、天井下がりは「そこにあって当然」のものであるという態度を、違和感こそあれ彼も共有していたからだろう。
そして、この家の中心たる伯父夫婦にとっては、Aさん以上に「そこにあって当然」であるという意識が強かったはずだ。繰り返し語られ、語ることで〈家〉という自分の帰属を確認するための怪異、しかもこちらを見つめ返す〈顔〉として認識されていたものがそこにないという恐怖は、「逆さの子どもでもぶら下がってるほうがずっとましだ」というレベルに留まらなかっただろう。

──一刻も早く何かをぶら下げなければならない。
──少しでもこの空虚を埋めなければならない。

もしかすると明確な形ではなかったのないかもしれないが、そんな強迫観念が彼らを自死へと導き、「足が畳につくぐらい体が伸び切った」状態へと身体を変化させたのではないか、考える。


3. 天井下がりとは何だったのか

では天井下がりとは何だったのか。
モチーフとして考えられるのが、クモである。これについては何人かの方が背中が顔に見える点、天井からさかさまにぶら下がるものである点などから関連性を指摘しており、それに触発されて私も調べてみた。
興味深いのが、『重修本草綱目啓蒙』という書物に「サガリグモ」の名前で紹介されているクモである。

サガリグモハ、地板下、或ハ僻隅棚下ニ於テ巢ヲ爲ス、卑キモノハ、上ハ板下ニ粘シ、下ハ土沙ニ粘シテ絲ヲ營コト密ナリ、(略)ソノ蛛ハ腹大ニシテ形圓ク、脚ハ蜘蛛ヨリ長ク、長踦ヨリ短シ、黑褐色ニシテ小白斑アリ、冬ハ隅隙ニ蟄ス、春暖ニナレバ出テ長ク絲ヲ引テ下垂ス、故ニサガリグモト呼ブ

『重修本草綱目啓蒙』二十七/卵生蟲

とあって、アシダカグモの一種として紹介されているが、実際はオオヒメグモというクモだろうと考えられている(※)。Wikipediaの表現を借りれば、「人家で極めて普通に見られる」「日本全国で極めて普通に見られる」クモである。
このように天井から下がってくるクモは、

無故蟢子舞降、以爲喜瑞也

『和漢三才図絵』五十二/卵生虫

蜘蛛、天井より下がるは来客の兆し

故事俗信ことわざ大辞典(小学館、2012年2月25日)

というように吉兆として捉えられていた。
「天井下がりの部屋」における天井下がりは、その消失(と伯父夫婦の死)によって家が衰退したことを考えると、富をもたらす装置としてあったものだろうことは想像に難くない。
伯父が背中の顔のことを即ち虫の擬態に結びつけていた点を踏まえても、やはりクモのイメージは近いように思う。が、これは「そう考えることもできる」という指摘に留めたい(この考察全体に言えることではあるが)。

それでは、この「天井下がりの部屋」という物語をどのように解釈することができるだろうか。
「そこにあって当然」だったものが不在になったとき、その存在を楔としていた〈家〉が耐えきれず崩壊した物語である、という大枠を私は考えている。では、この崩壊は意図あってのものだったのだろうか。

まず、天井下がりという怪異(もしくはそのベースとなった存在)が、己を縛る〈家〉への復讐のために、意図を持って引き起こした崩壊であったと考えてみたい。自身の不在をトリガーとして設定し、〈家〉の人々が自身の存在に疑いもなく寄りかかっているのを見つめつつ、自身の身体が風化するのを(それこそ獲物を待つクモのように)ひたすら待っていた、とするならば、それは邪悪な企みである一方でどこか哀しさを帯びてくる。

では、天井下がりの消失には怪異自身の意図はなく、ただ風化して消えてしまっただけ、とするならばどうだろう。何の疑問もなく「そこにあって当然」と考えていた存在の消失が、想定外の意味を持って跳ね返ってくる──という構図は、現実社会の中にいくらでも見出すことができる。むしろ、ただ口を開けて安寧を享受する人間の姿こそが恐怖の対象として浮かび上がってくるのである。 

いずれにせよ、今まで既存の怪異を再解釈し、様々な恐怖の形を描き出してきた「怪談手帖」シリーズが、新たに見出した恐怖の形がここにはある。


最後にひとつ示しておきたい。
『今昔画図続百鬼』における「天井下り」は、作者・鳥山石燕の創作であるという見方が多い。それはさておき、

むかし茨木童子は綱が伯母と化して破風をやぶりて出、
今この妖怪は美人にあらずして天井より落。
世俗の諺に天井見せるといふは、かゝるおそろしきめを見する事にや。

鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より「天井下り」

という詞書の「かゝるおそろしきめを見する事にや」という部分と、「天井下がりの部屋」末尾の、

「……どんなに恐ろしいもんでも、形があって、目に見える方がましなんだぜ」

(書き起こしより抜粋)

という言葉とは響き合っているように思う。

いまいち判然としない「かゝるおそろしき目」を、不在の恐怖へと接続してみせた余寒氏の手腕に感嘆するばかりである。


おわりに

本当はもう少し早く書き上げて読んでくださった方に何度でもアーカイブを聞いていただきたかったのですが、うだうだしているうちにぎりぎりになってしまいました。
こういう文章を書くのはあまりに久しぶりで、論の飛躍や表現の不徹底、もしくは冗長な部分なども相当にあったと思います。不出来な大学生であった頃の恥ずべき記憶との戦いでもありました。それでもここまで書いてしまったあたり、「刺さる人には刺さると思う」というかぁなっきさんの言葉に頷くしかありません…(たぶんそういう意味で仰っていたのではないのでしょうが)
そして、重ねてにはなりますが、余寒さんの知識の豊富さ、作品世界の奥深さ、作品をまとめ上げ、文章として織りなす手腕の見事さをこれでもかと感じることになりました。
書き起こし、リライト、考察(ふせったーで軽く上げたものも含め)と、存分に楽しませていただきました。
この場を借りて御礼申し上げます。


※浜田善利・吉倉真「クモ類の民俗薬物学的研究-2-日本の薬用クモ類の種類」(『薬史学雑誌』27巻1号、1993年)による