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46歳のオヤジが「粘土遊び」にハマった理由。


今もし誰かに「あなたの目標は何ですか?」と尋ねられたらこう答えるだろう。
「2026年までに 粘土プロデューサーとして 国内外に活動を広げていたい。」
これまでこれといった夢や目標もなく、場当たり的、勢い任せで生きてきたわけだが、46歳になってこんな素敵な目標と出会えた。その目標に向けてのスタートラインにようやく立てたタイミングでもあるので、頭と心の整理のために、これまでの軌跡を書き記しておこうと思う。

そもそものキッカケは、息子の付き合い。
私には、4歳の息子がいる。ちょうど2歳を過ぎた頃だったと思うが、こむぎねんどを100円ショップで購入し手渡したが、その時点では興味なし。それから数日後、息子はこむぎねんどを手に取りこね始めた。おっ!何を作るのかと注意深く眺めていると、突然私の方を見て、「パパ、作って!」と一言。何を作ったかは覚えていないが、ひとつ作り終えると、「次、これ!」「次は、これ!」といった具合に、周りにあるもの、目に飛び込んできたものを次々と注文してくる。昆虫や動物からはじまり、キャラクターや食べ物など・・。
それに対して、私はというと、満面の作り笑顔で、「へい!」と威勢よく注文を受けては、親であるという義務感や役割意識のもと、仕方なく作っていた。そんな状態が長らく続いたが、不思議なもので少しずつ楽しめるようになった。100本ノックではないが、実践を重ねることで、コツらしきものが掴めてきたのだろう。
すると、ときに無性に粘土をこねたくなったりする自分がいたのを思い出す。

家族が褒めてくれたことで自己肯定感が高まった。
46歳にもなると、褒められる機会が極めて少なくなる。私に限ったことではないのではないか。人生においても、また仕事においても、経験の長さだけでベテランなどと判断されてしまい、何事も出来て当然という見られ方をしてしまう。
家族との関わりにおいても、怒られたり呆れられることはあっても、褒められることはまずない。この点に関しては、私自身に大いに問題がある。。説明が長くなるため、また別の機会に書くことにしたい。
ところが、今からちょうど1年前。妻の実家に帰省した時のこと。使い古しの乾燥しかけた粘土を見つけ、夢中になって木製レールで遊んでいる息子を横目に握り寿司を作ってみた。なぜ握り寿司なのか?それは、近くにあった木製レールを裏返した時に、そのサマが小さな寿司ゲタそのものだったから。粘土を手に取りこねこねし始めた。手の指第一関節サイズの握り寿司を5貫ほど握り終え、最後はサビとガリを添えて完成させた。我ながらまずまずの出来だな・・と見惚れていると、「お寿司だ!!パパ、じょうずだね!」と息子が大声で叫んだ。すると、近くで会話していた義母と妻までが集まってきて、「何これ、かわいい!!」「パパ、すごい!ほんと手先が器用だね〜」「うわっ、おいしそう〜」と次々と称賛の声が飛び交う。「おいおい、勘弁してくれよ。」などと心の中で呟きながら自己肯定感に包まれている自分がいた。
この日を境に粘土をこねる頻度が徐々に増していったことをはっきり覚えている。

真夜中の製作活動で得た不思議な体験。
息子の付き合いで始めた粘土遊びではあるが、気付いた時には、息子が粘土遊びに付き合ってくれるようになった。「パパ、粘土やりたいんでしょ?やっていいんだよ。」と可愛く粋な配慮までしてくれたりする。
そんなある日、完成目前の作品を息子が壊してしまうという事件が発生した。もちろん、息子に悪意などない。私の作品に関心を持ち、触っただけの話である。
ところが、いい具合に製作が進んでいたこともあったのだろう、自分をコントロールできず、息子に対し怒りを露わにしてしまった。当然、息子は大泣きし、妻のもとに走っていき、誇張して状況説明し始めた。その直後、私は妻から激しく叱りつけられた。「何を本気で怒ってるの。たかが粘土くらいで。大人気ない。」その通りである。猛省しながらも、「たかが粘土」という言葉がどこか引っかかった。たかが粘土とはなんだ、失礼じゃないかと。
この事件以来、同じ過ちを繰り返さぬよう、製作時間を夜へと変更した。妻と息子が寝静まる22時30分ごろ。静まりかえったリビングを薄暗くし製作に着手する。息子が活動している日中とは大きく異なり、スムーズに製作に没入できるおかげで、気づくと深夜2時をまわっていることもよくある。貴重な睡眠時間を削っているわけだが、試行錯誤を重ねながらイメージ通りに形づけることができると、何とも言えない達成感を得ることができる。そして、何より翌朝の目覚めが違う。活力に満ち溢れている・・というと、やや大袈裟ではあるが、朝の準備をテンポよく推し進めることができ、仕事にもスムーズに突入できる。
この感覚がまた製作意欲をかき立て、活動にドライブがかかっていった。

粘土はじぶん開発ツール。
今年2月から再びフリーの人事コンサルタントとして活動をスタートした。厳密には、スタートを切ることはできなかった。なぜか?コロナが足音を立てて、私にも近づいてきたからだ。推進予定だった案件、提案途中だった案件がペンディングやリスケという名のもと、キャンセルになっていった。堅調な同業者もいる中、状況だけを言い訳にはできないが、ある意味自助努力だけではどうしようもない状況に置かれ、悩みや不安が絶えない日々が続いた。
そんな中、私の心と体を前へと向けてくれたのは、粘土遊びと言っても過言ではない。先述の通り、一日を締めくくるべく、夜中に製作活動に取り組む。製作活動というのは、粘土と向き合っているようで、実は自分自身とも向き合うことになる。
イメージを追いかけながら、製作に没入するということは無心になることでもある。その日一日かけて蓄積した不安やら悩み・・それらがリセットされ、真っさらな気持ちで翌朝を迎えることができる。でも、不安や悩みは尽きることなく、気づかぬうちに少しずつ蓄積される・・それをまた製作活動を通してリセットする。
もうひとつ。イメージを追いかけながら、妥協なく試行錯誤を重ねると、そのイメージに近づけることができる。時に自分でも驚くような作品が出来上がる。イメージは目標という言葉にも置き換えられる。目標に向かい、粘り強く試行錯誤を重ねながら取り組めば、なんとかなるものだ!ということを体験していることになる。その体験からの学びを日々の仕事にも取り込むことで、今やるべきことが整理され、シンプルに思考できるようになる。
粘道の活動を本格化した今も、自分が決めた方向性に対して、時に不安になることはある。そんな時は、薄暗闇の中、粘土と向き合うことで、雑念を取り除き、やりたいこと・やるべきことだけをシンプルに整理し行動している。
粘土遊びとは、このような不思議な力を持っていると同時に、私にとっては、欠くことのできないパートナーでもある。

心が動いたらこじ付けてみてドライブをかける。
数ヶ月前、こんなことを心に決めた。「粘土遊びを生業にしよう!」
純粋に好きであることに加え、粘土遊びの奥深さや無限の可能性を自ら身をもって体感した結果、人生を賭けて取り組む価値があると心底思えたからだろう。そこには、妙な力みは一切なく、自然と心が動いたことをはっきりと覚えている。
先日ミーニング・ノートの山田智恵さんがセミナーの中で、「チャンスとは、自分の心が動いたもの。」と定義づけておられた。年齢や立場、役割や義務などはさておき、純粋に心が動いたかどうか。まさにそれだと気付いた。
あと、冒頭文の中で、「2026年までに」と書いたのには理由がある。先述の通り、息子の付き合いで始めた粘土遊びである。オーバーな表現かもしれないが、息子がこの世に生まれてきてくれなければ、粘土遊びと出会えなかったとも言える。今思うのは、息子が私にくれたチャンスなのではないかということ。6年後には息子は10歳を迎えることになる。10歳になれば、物事の分別がつくだろう。「粘土が趣味のパパ」から「趣味の粘土を仕事にしたパパ」と少々かっこよくありたい。
もうひとつ。故郷奈良で暮らす両親。偶然にも、父親は元 中学美術教師、母親はというと、自宅で細々と茶道と華道教室を開いていた。6年が経つと、両親ともに80歳を超えている。これまで自分の仕事を紹介する場面など一切なかったが、頭がはっきりしているうちに、サワリだけでも話して、驚かせてやりたいものだ。
息子のことにしろ、両親のことにしろ、ある意味こじ付けとも言えるが、より覚悟が決まった要因のひとつであることは確かである。


スタートラインに立ったばかりである。これから先、どんな試練が待っているのだろう。そして、この記事を何度読み返すことになるのだろう。道なき道を粘り強く切り拓いていく道のりをここに書き綴っていこうと思う。

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