音楽を開く

 空が青く見えたら歩いてもいい。とりあえず日差しを浴びてみたい、風を感じるところで。
 ベランダでいい。肌や鼻で拾う感覚を忘れないためにも。気持ちがいいとか悪いとか、あんな風とかこんな匂いとか、認識しているものがぼやけたまま記憶される。それが同じような天気や風や気分によって掘り起こされるとき、なんとなく最高になれる。


 風邪で休んだ平日。琴の音が聞こえた、曲はさくら。気分を逆算して言葉にすると、

 日がさす部屋は森下で、気分はちい散歩。

 感覚を思考する。
 江東区森下、特に大通りは太陽の心地よさとともに記憶されていて、ちい散歩は平日に休むと見れるという優越感に近い何かと、カーテンから陽がもれる土曜に見るひつじのショーンの晴れた牧場みたいな雰囲気が混ざった、なんとなくを感じられる番組として頭に残っていた。授業を休んで日差しの心地良さを感じる優越感とまとめても大きく外れてはいない。しかし、感覚としては森下でちい散歩だった。そして、そんな中聞いていた さくら は体感として春ではなく平日に近い。
 
 感覚は感覚と結びつき、自分の中でしか共有できない独自のバックグラウンドを元に記憶される。共有するための共通認識は同じ人間に入っても手に入らないだろう。それでも伝えたくなる経験だからたまらない。

 世界には自分の知らないことがたくさんあり、自分の中には知ってほしいことがたくさんある。しかし、多くの人にとって知らないことで終わる。それどころか、世界にある知らないことの中にもカウントされない。増えていく手段によって分散された関心を大きく浴びるハードルは、高くなり続けてるにも関わらず。


 私を知らないことに気づいた人に出会っていきたい。伝え方に迷いつつ。




 国語も算数も楽しくないのは先生のせいだけど、音楽が嬉しいのは教科のおかげ。クラスの席と違って窓際の席。音楽の教科書を目一杯広げる。

 聞く曲より歌う歌より開くページが大事だった。知らない景色の中、お手本みたいな子供が笑っている。緑を背に鯉のぼりを見上げている子がどこにいて、何を感じていたのか知らないが彼と同じ場所に立った気でいた。音楽室から見る空は何故か広くて、晴れた日は歌詞の後ろに見えるひまわり畑と繋がっていた。歌う声は高く、歌詞と相まって気分の風を吹かせる。教科書に載った歌は感情をくすぐり、写真は憧れを生み、私はそれらを自分の中で囲った。 




 夏に冒険はなかった。サマーウォーズだったり、午後のロードショーだったり、フィクションとのつながりを見つけることがかろうじてアドベンチャーだった。公園の木は深い森のような夜の姿を隠し、昼間はてんで公園らしくある。胸の高鳴りが曇らせた目で見ても画面の夏とはほど遠い。慣れた道でイオンに向かってみたりする。強い日差しに照らされていたが、好奇心に左右される幼さは若さで体力だった。もっとも苦難を受けるほどの目的はなく、所詮は遊戯の王といった行き様で、帰りの様相も同じようなものでしかない。カードを並べたいつものベンチ、戦況もいつも通り。それでも、カードに差す木漏れ日が私を画面の中に投影している。





 昼のような夜を知らない。部屋の明かりを消せば、窓の外はこんなにも光に溢れているのにこの明るさは夜のものだとわかる。昼が恋しいわけではないが、昼を感じられる夜にいてみたかった。なつやすみらしい暑さの夜に、日差しのようなあたたかい光を求めるおかしさ。遠くの公園は作り話みたいな不気味さで、昼夜の違いをより明確にしていた。街の光で弱った大三角がかろうじて見えるのは、音が少ないおかげだろう。意識の高度が上がっていく。光であたためられた空の体感温度は高く、過ごしやすい模様。星に引っ張られた好奇心も温度を上げたが、恒星には到底及ばない。夜明けは太陽に任せて寝ようと思う。


 


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