多様性について考える。

多様性とは何だろう。

 いろんなものが雑多にあり、それぞれにそれぞれのよさがあり、大なり小なり優劣が存在し、すべては観測できないものだ。

 多様性を目指すというのはそう言うことになることを目指すので、すべてを管理することはできるはずもなく、すべてを認識することも不可能であることが前提だろう。

そういった多様性の社会に生きていくことになったらを考えてみる。

 まず、自分が観測できるのは自分が見えている部分だけである。それ以外は、目に入っていないので存在自体を観測できない。その中で、生活をすれば、誰かの視野を入れない限り、それに関連した情報のみが入ってくるようになる。そうして、沢山の情報を仕入れたところで、観測できない部分はかならずある。そして、その観測できない部分があるまま死んでいくのだ。

とすれば、多様性の社会で生きていくために必要なことは、以下だ。

・他者の視野から物事を見ること
・自分と相いれない存在があること
・自分も他者も知らないことがあること
・すべてを知らなくても生きていけること
・自分を知ること

 自分だけの視野では狭い。その狭い視野の範囲の中でも嫌いなものはあるので、見えない部分を含めれば結構嫌いなものがある。その逆も同じで、好きなものもたくさんあると予想できる。また、自分も他者も知らないことがあるのが普通なので、「なんでそんなんしらんの?アホちゃうん」という言葉は禁句。知らなくても生きていけるので「これは、知らなくていいことなんだ。」と思うのは早計。しかし、それだけでも生きていけるのは事実なので、強制するのはなしだ。また、情報が雑多にあり自分を見失いがちになるので、自分をきちんと持つことが必要になる。


 目に見えることが多様であるならばわかりやすい。国であり、食べ物であり、本であり、想像がしやすいので、比較的多様性は承認されている。

 問題は、目に見えない多様性があるせいだ。考え方、興味など、違うことが当たり前であることを承認することができず、たくさんの問題が発生している。また、当たり前だと思っていることが当たり前でないなど、自分の存在自体を否定しかねない事実を突きつけられた場合などは衝撃と反発が大きい。

 例えば、子育てだ。子供を自分の視野内で育てようとすると問題が発生しやすい。将来のことなんて、どうなるのかわからないので、将来役に立つからというのではなく、「こんなことがあることを知っておいたほうがいい。」というスタンス。多様性の世の中では、強制というものはほぼ存在しないので、無理やりさせることは意味がない。ただ、命に係わるようなことに強制力がいるのは考えるまでもない。


 さて、その多様性の社会で生きていかなくてはいけないわけだが、共感できる人たちと仕事をすることが第一歩だ。ただ、この共感というのが曲者で、他者に押し付けられるものではないし、他者から押し付けられるものでもない。

 仕事でいうならば、いろんな人がいるが、目指すゴールは一緒というところだ。つまり、手段は違うが目的は同じということ。そして気を付けるのが、成長するにつれて人は変化するということだ。「来る者は拒まず、去る者は追わず」の精神が大切である。このため、もっと人の移動があってもいいぐらいなものだ。終身雇用で退職まで同じ人と仕事をする、退職できない、転職できない、副業できない、始業終業があるのは、多様ではない。

 そんな中に、採用されようと思ったら、まずは自分が何者で何ができるのかを知っておかなくてはいけない。できるなら、それが、他者から見てもわかるものとして持っておきたい。例えば、資格であったり、動画であったりだ。「自分はこんな感じです。」と面接で言うより見せたほうが早い。『百聞は一見に如かず』とはよく言ったものだと思う。

 問題は、自分より優れた人は必ずいるということだ。そんな人に勝とうと思ったら、どうすればよいか。完全に勝てないのならば勝負しないがベストだろう。違う必要とされるところが必ずあるからだ。また、手の届く範囲に行かないというのもある。同じことでも、同時に存在はできないので、かならず順番待ちをしている人がいるわけだ。そこへ行けばいい。

ということで、多様な社会で生きるためには、自己発信と求められる場所を探すことだ。

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