学校の授業が退屈な理由

勉強ができる人とできない人の二つの立場で考えてみることにする。

その前にまず、勉強の前提知識からだ。

勉強を効率的にするためには、一緒に勉強する人が少ないほどいい。つまり、教室で講義形式の授業を受けるよりも、一対一で教えてもらう方が効率が良い。それよりも効率がいいのが、自分のみで勉強することだ。そのさきに、自分も消して、ロボットのように私情を挟まずにやるというのがもっとも効率がいいだろう。

けれど、それは何を勉強すればいいのかがわかっている場合に限る。何もわからないにも関わらず、一人で勉強しようとしても無駄である。先もわからず、やみくもに進み続けるのは一般人には無理だ。ただ、学校の勉強では教科書という便利なアイテムがあるので、何もわからないということはない。今回は、教科書がある場合のことを考えていく。では、一般の勉強が苦手な人はどう勉強すればいいのか。

それは、一緒に勉強する人を探すことだ。冒頭で述べた、効率的な勉強には矛盾してしまうが、勉強するためのやる気を出すには、同じ経験をする仲間の存在が必要不可欠である。俗にいう、「みんながやっているのだから、自分もやろう。」というやつである。根本的に、日本人であるので、これが一番動けるのだ。

つまり、学校で例えるならば、

パターン①
授業を受ける(やる気がなくても、みんながやっているので自然と受けられる。ここで確認するのは、『何をどこまでやるのか。』だ。)
↓↑
家で勉強する(授業で理解できなかった部分を復習する。)

という流れになるので、家での勉強がメインになるわけだ。授業では、初めて知ることを教わるので、理解するまでに時間がかかる。また、試行錯誤をする時間が十分にないために、理解が不十分なまま、次に進んでしまうので、次のところも不十分な理解に終わる。なにも、勉強ができないからこうなるのではなく、普通こんなものだ。なんの準備もなしに、一度の授業で理解できるなんて、よっぽど教え方が上手いか、簡単なことなのかのどちらかだ。なので、家庭学習で試行錯誤し、わからないところがあれば、翌日に質問し、解決することで、理解していくわけだ。

パターン①は自分で予習ができない場合だが、予習ができる場合も考えてみよう。

パターン②

家で勉強する(予習と呼ばれるもの)
↓↑
授業を受ける(自分が勉強したことがあっているかの確認、および復習)

という流れになるので、家での勉強がメインになるわけだ。教科書を読めばだいたいのことが理解できるので、授業は勉強したことがあっているかの確認のみで終わる。ただそれだと時間が余ってしまうので、練習問題を解くなり、次の予習をするなりすることで、家での勉強時間を削減することが可能になる。

どちらも似たようなサイクルなのだが、違うことは、そのサイクルを回すのに必要な時間である。圧倒的に②のサイクルのほうが時間が短いのだ。必要なところを確認するだけなので、5分もいらない。それ以外の授業時間は予習、復習に回せる。

両方のパターンのサイクルをきちんと回せるのであれば、勉強ができないということはない。つまり、勉強ができないということは、サイクルがきちんと回っていないということだ。

パターン①の場合、必須となるのが家での復習である。これができなければ、常にわからないままなので、授業も当然わからなくなる。
パターン②の場合、必須となるのが家での予習である。これができないのであれば、パターン①のサイクルを回すしかない。

圧倒的大多数が、この2パターンのサイクルを回せないので、学校では違うパターンを推奨している。
それが、

家での予習→学校での授業→家での復習

という2パターンを組み合わせたものだ。このサイクルはかなり万能で、勉強に必要な時間は増えるが、授業が理解しやすくなり、多少予習ができなくても大丈夫な仕様になっている。

さて、学校の授業が退屈な理由だが、勉強ができない人は授業で理解できないので、そもそも退屈なのだ。また、勉強ができる人は、授業なんて確認作業のようなものなので、それが終われば退屈なのは間違いない。授業を受けなくたって教科書を読んだら理解できるしね。

つまり、授業を楽しめるのは、ちょうど授業内の時間で理解でき、練習問題などで確認も終わらせることができるという、そこまで勉強できるわけではないが、勉強ができないわけでもないという一部の人に限られてしまうわけだ。

また、習ったことが即時生きていくことに使えることがほとんどないといったことも理由の一つだろう。どの科目でも、明日から使えるといったことはほとんどない。知らない漢字を覚えたからといって、明日出てくるわけでもないし、英語の単語や、数学の公式、理科、社会の内容もそんなもんだろう。

これが、どの程度習得しているのかが誰が見ても明らかな方法でわかり、ある一定の地点から特殊な技能に開花するといったことがあれば、やる気が全く違ってくるのだが、そういう訳にもいかないのが現状だ。ある一定ラインを越えたいのであれば、どれか一つに絞らないと高校までに開花することは難しいし、開花したとしてもそれで生きていくのは難しいからだ。よくて「生活するときにちょっと便利だな。」ぐらいのものである。別になくてもそれほど変わらないのだ。

結局、自分の知りたい分野以外の授業でかつ、自分が理解できるような授業以外は退屈になってしまうものなのだ。




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