損することと幸せにすることと

「人を幸せにすると自分も幸せになるんだよ」と言葉が口癖のような男だった。元来、奴はそのような博愛主義者や利他的な生き様を歩んでいたわけではなかった。しかし、30も超えた頃だろうか。急に、奴はそのような方針を打ち立てた。いわば転向とでも言うような。

ただし、奴はむやみに人を幸せにするということはしなかった。そうではなく、ふとした折に人を幸せにしていた。たとえば、年始に神社に初詣を行く時は「人類が平和でありますように」と祈っていた(これは彼から後年聞いたことだが)。あるいは、駅で乳母車を押した母親がいれば、階段を下ろすのを手伝った。はたまた、町に紙くずが落ちているとさっと拾った。常にゴミを拾ったわけではない。たまたま奴がその心の余裕があるときにだけ拾った。それに対して、誰も見ていなくとも拾った。奴は、「誰かを幸せにする」というよりも、「たまに思い立った時に良いことをする人生を歩もう」といった動き方をしているようだった。

あまり奴はそのような活動を人には見せていなかったので、他の人は奴がそのような生き方をしていたとは知らないだろう。ただ、そういう方針は何気ない所作にも出るのか「奴は信用できる」という人は多かった。仕事の取引でも、情報の非対称性によって自分が得するようなことはしなかった。公平ににお互いが納得の上、取引をすることが重要という思いがあった。

奴は投資もしていた。「社会に善をなす会社か」という点で会社に投資をしていたから、「株は社会をよくするんだ」とうそぶいていた。そんな奴が、ある時、相場で負けた。株で負けたのだ。それなりの暴落だったので大きな負けだっただろう。しかし、奴はこう言った。「儂が負けた分、買った人もいるじゃろ。人を幸せにしたってことだ」と半分自嘲気味にいった。半分は負け惜しみだが、半分は本心の笑みだっただろう。相場に負けて笑える人をみたのは初めてだった。

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