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「写真の言語化」で燃えるのはなぜ

少し前にTwitterXでトレンドに上がっていた「写真の言語化」。

これについて私見を述べたところ、フォロワー数100ちょっとの自分のアカウントにですら、反論リプがつくほどに地雷ワードとなっているようです。

その私の当時の意見というのがこちら

写真表現の言語化が話題ですが、多くの否定派は写真そのものの説明を言語化することを否定し、多くの肯定派はなぜその写真が美しいのかを感覚ではなく言語で体系化することを目的としているので、そもそも議論が噛み合ってないようにみえます。

もうちょっと分かりやすく言い換えるなら、写真表現の言語化について、否定派は言語化を「他者への言い訳」と捉え、肯定派は「自身への問い」と捉えているのではと思います。言葉の定義があやふやなのですれ違っていますが、実は対立すらしていない可能性の方が高い

この「他者への言い訳」というワードが反論リプがつく原因となったようで、そのワードチョイスは反省もしつつ、ここで言いたかったことは、言語化をどう捉えるか、ということでした。

・自省、内省、技術向上のため
・対外的に写真を解説するため

主に前者として言語化を捉える人は比較的言語化に肯定的である場合が多く、後者として捉える人は比較的否定的である場合が多いと思っています。

TwitterX上では、知ってか知らずか肯定派否定派の「言語化」の定義がそもそも食い違っているケースが散見され、そもそも議論にすらなっていないよね?というのが結論であってそこは変わらないのですが、その「自省内省 or 対外的」についてどう考えるか、自分の中で変化がありました。

かくいう私自身も、どちらかというと対外的な言語化については、ちょっと野暮というか、なくてもいいんじゃないかな、と考える派だったんです。

ところが前回の写真展巡りでタイムリープしたお話でも書いた通り、よく拝見している林さんのTwitterXでの投稿

写真の言語化は自分の代わりにやってくれる人がいない場合は特に大事だと思う。 (中略)無名のフォロワー36人のアカウントが上田義彦さんの「M.Ganges」と全く同じ作品を創り出したとして、それをそっとタイムラインに載せるだけではきっと数人しかその写真の魅力には気づかない。 多くの人にとって言語化は写真を世に送り出すための助走であり、自分の写真に対して贈る激励だと思う。

出典:@hayashiwithcats

これに感銘を受けまして、なるほどなぁ、野暮とかカッコつけている場合ではないなぁと思い直したわけです。

思い直してみれば、さまざまな美術展や展示会、芸術祭などには識者の解説が必ずといっていいほど掲示されています。また作者本人の意図が解説されている作品も少なくない。

そんな中、なぜ自分のようなド素人が作品の説明もせずに理解されようと思っていたのだろう、と反省をしたわけです。

最近のウザいほどの写真解説はこれに端を発しており、しばらくは撮影時や編集時の写真に対する想いを綴ることをマストにしてみよう、という試みを始めております。

写真の言語化を分類してみる

写真の言語化を進めるうちに、写真の言語化はさらに分解したほうがより明確になるのでは、と思っています。あまり細分化しすぎても意味がないのですが、おおよそ下記の3つに分けられるのではないかと。

・技術的解説
・感情的解説
・状況、時代背景の解説

さてそろそろお時間がきたので、各々の解説は次回に回そうと思います。





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