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『大豆田とわ子と三人の元夫』最終回を勝手に総括する

ついに…終わってしまった…。
最終回のロスがこれほどひどいのは久しぶりだ。どうやって生きていけばいいのかわからなくなるレベル。

最終回もいつも通り出色のクオリティで、すべての愛の形を肯定してくれるドラマになっていた。まさに素晴らしき哉、人生!といったところだろうか。

さて、最終回ではどんなことが描かれ、どんなメッセージが込められていたのだろうか。

そんな最終回の大豆田とわ子を今から詳しくお伝えします。

(以下ネタバレにつき、未試聴の方はご注意ねがいます)

西園寺くん問題

前回、小鳥遊(オダギリジョーさん)との別れで仕事という憂いを断ち切ったとわ子(松たか子さん)。
残るモヤモヤは娘・唄(豊嶋花さん)の彼氏・西園寺くんと、とわ子の父・旺介(岩松了さん)との関係、自分を見守り続けてくれた亡き母への気持ち、そして何度も外れる網戸だった。

そのうち、西園寺くん問題は最終回前半のうちに解決されるのだが、なおも疑問が残る。

それは、唄がほんとうに西園寺くんを好きだったかどうか、ということだ。

おそらくそうではない。とわたしは思う。

仕事に恋に忙しい母の姿を間近でみてきた唄は、そのアンチテーゼとして仕事も恋にも手をつけないことを選ぼうとした。
そのほうがひとつのアイデンティティを確立しやすく、目の前に襲いかかろうとする「現実」にも太刀打ちしやすい。そして唄はパートナーの非人間的な面さえも「教育」しようと試みていた。その点でも、元夫たちとライフスタイルの歩調を合わせて生きてきた母・とわ子とは対照的だ。

結局、唄のなかには西園寺くんへの恋心はほとんどなかったのだと思う。母のようにならないというその一心で、唄はそうした人生設計を組み立てた。生まれてこのかた「反抗期」を貫く唄らしいともいえる。

一方で、心のどこかで母に止めてほしい思いもあったようにもみえる。引くに引けない反抗期にありがちな状態だ。

しかし、そんな唄もある人物との出会いで大きく心を動かすことになった。

國村真(マー)とかごめ

最終回における最重要人物は、おそらくマーこと國村真(風吹ジュンさん)だ。
マーは、とわ子の亡き母・つき子の浮気相手だった女性だ。母の浮気相手なら男性だろうという視聴者の予断をぶち破ってくる点、さすがこのドラマである。

さて、マーはとわ子と唄という初対面の人物ふたりを前に、コロッケ片手に応対する。

そう、コロッケ。

コロッケといえば、とわ子の亡き親友、かごめ(市川実日子さん)だ。

第4話でかごめは、コロッケを「最後の晩餐」にしたいと宣言し、八作(松田龍平さん)と商店街でコロッケをほおばっていた。

ターバンを巻いたような頭や、その独特の言動といい、マーは明らかに、かごめのような人物だ。

かごめもきっと、初対面の人物が訪ねてきてもコロッケ片手に応対するにちがいない。

かごめのような雰囲気をまとうマーと、とわ子の母・つき子は「友情」を超えた感情を抱き、家族を捨ててともに生きたいと感じるほど想い合っていた。

そして第5話でとわ子が気づいたように、自身の最初の夫=八作が「心で浮気」していた相手がかごめだった。
そして、とわ子の母もまた、「心で浮気」していた相手が、かごめのような人物だったのだ。

この螺旋と母の苦しみを察したとわ子、心中穏やかではなかっただろう。

そこでマーはこう語りかける。

家族を愛していたのも事実。
自由になれたらって思っていたのも事実。
矛盾してる。でも誰だって心に穴を持って生まれてきてさ。それを埋めるためにじたばたして生きてんだもん。
愛を守りたい。恋に溺れたい。1人の中にいくつもってどれもうそじゃない。どれもつき子。
結果はさ、家族を選んだってだけだし、選んだほうで正解だったんだよ。
(中略)
正解だよ。そっちを選んだからこんなすてきな娘が生まれて孫も生まれて夫にも愛されて。生涯幸せな家族に恵まれたわけでしょ。

かごめが最期まで伝えられなかったようなこと、そしてかごめにはそもそも伝えられないような「赦し」のことばを、マーはとわ子にぶつけた。
つき子もちゃんと幸せだったのだ。

とわ子、思わず号泣。そりゃそうだ。このセリフ、すべての「人間らしさ」への最大限の肯定なんだもの。
隣で聞いていた唄もなにかが響いたのか、西園寺くんに見切りをつけて、人間らしく生きることにした。

長らく続いてきたとわ子と唄のあいだのモヤモヤは一件落着。そしてきっと、唄はこれからも反抗期であり続ける。


三角関係だった?

しかしマーは、つき子との関係を「恋人」という要素だけで語られることが「嫌だった」と語る。

このふたりの距離感は、とわ子とかごめの関係を思わせる。
思い返せば、彼女たちは友情どころか家族も超えた存在だった。実際、かごめはほんとうの家族を捨ててまで、とわ子の近くに身を寄せていたのだから。

ふたりともそれが「恋愛」だったとは絶対認めないであろうが、双方がかけた情熱は、並の恋愛よりも強いものだったといえる。

恋愛というくくりを外して、より広い「好き」に置き換えてみたら、とわ子、かごめ、八作の三者はキレイな三角関係を結んでいることがわかる。お互いのことを誰よりも思いやって、支え合おうとした3人にとって「好き」は「1対1」の関係にとどまらなかったのだ。


網戸の決着

網戸が外れたことをきっかけに開幕したこのドラマ。小鳥遊に網戸を直してもらったものの、とわ子は結局、自力で直す方法を知ることはなかった。
今回の中盤、父・旺介は、とわ子に詫びながら網戸を直す。今まであれほど快活で調子の良いおじさんだった旺介が、ドラマのなかではじめて「父親」らしくなった瞬間だった。

そして終盤、とわ子はついに自力で網戸を直す。きっと、旺介にコツを教えてもらったのだろう。

いくつになっても父親はやり直せる。父親をしてこなかったなら今からでも間に合うという、世の不器用な男たちをも肯定するメッセージがそこには感じられた。

網戸の修復は、恋をした結果なのではなく、父娘関係の修復を意味していたのだと思う。


自動ドアの一件

涙を誘う展開も多かった最終回で、コメディ色が全面に出ていたシーンがふたつあった。そのひとつが、とわ子が自動ドアに「ぎゅ〜っと」される場面である。

確認のため申しておくと、このドラマのジャンルは「ロマンティック・コメディ」のはず。
しかしこのドラマ、主人公が誰かとキスする場面すらまったくない。「ロマンスはそんなとこにはないんだよ!」というような作り手の強い意志を感じる。

そして、突然の自動ドア。
ドラマの最後の最後にして、主人公をハグした相手がまさかの自動ドアなのだ。
とわ子は、誰かにぎゅ〜としてもらうことを求めているわけではなく、「その人が笑ってくれること。笑っててくれたら後はもう何でもいい」というスタイル。

そんなとわ子らしく、最後は自動ドアという無機物にスキンシップされるというコメディ展開。
このドラマはやっぱり、ロマンティック・コメディという傘をかぶったアンチ恋愛ドラマなのだ。


元夫ボウリングと一妻多夫制

コメディ色が全面に出ていたシーンその2は、「元夫ボウリング」である。

おそろいの英字新聞シャツを着て、とわ子にストライクされる三人の元夫…。このドラマを愛してきたひとにとっては、この上ないサービスシーンとなった。逆に、このドラマをあまりみてこなかったひとには徹底的に謎な場面でしかないと思う。

第1話にて、かごめと唄とボウリングしたとわ子が、ピンを倒してガッツポーズするシーンを思い出す。
このとき倒れたのは3ピン。元夫の数と一緒。これからも、とわ子はなにかあるかもしれないけど、もうこれ以上新たなピンを倒すことはないのだと思う。

変わった苗字が多いこのドラマのなかで、元夫たちの苗字が田中、佐藤、中村とメジャーなのも、この3人の特別な雰囲気が演出されている。平凡なはずの苗字が特別にみえる、なんともふしぎな世界観。まるでとわ子は不思議の国に迷いこんだアリスのようだ。

とわ子はこれからも、3本のピンのような三人の元夫ととともに生き、八作と亡き親友かごめとの3人としても、生死と友情を超えた思い出を作っていくのだろう。

現実に悲観的になりがちな唄も、ひとりの母親と3人の父親にこれからもたくさん愛されるに違いない。


まとめのまとめ

好きはひとりに向けなくてもいい。ましてや結婚という制度にこだわる必要もない。このドラマの主要人物にとって、「好きは考える前にあること」なのだ。


はじめに書いたように、『大豆田とわ子と三人の元夫』はあらゆる愛の形を全肯定してくれる。
これはもう、究極の一妻多夫制ドラマだ。というかそもそも、妻か夫かで考えること自体が野暮なのかもしれない。

「ひとりで生きたいわけじゃない」


というドラマのキャッチコピー。

「独りじゃないと思えるドラマに」

プロデューサーの佐野亜裕美さんがインタビューで語ったことば。

どちらも、「ひとり」にその眼が向けられている。

ひとりがなにかと不安を生むこの時代にふさわしい、令和を生きるわたしたちのための人間讃歌だった。

やっぱり大豆田とわ子はいつだってサイコーだ。
このドラマに携わったすべての方へ、心からありがとうと言いたい。

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