「遊んでばかりの学生」はズルいのか
「自分たちはこんなに忙しいのに、
遊んでばかりの文系が同じ大学生を名乗れるなんてズルい!」
中学の同級生で、いまや立派な医療従事者になった友人が、大学時代に酒に酔いながら放ったひとことである。
わたしはとっさに、「え?うちもズルいに入るの?」と聞き返したが、「おまえは大丈夫だ」と返された。許された、良かった。
わたしからみて、彼のいた大学は医療従事者になるために幾度となく実習や実験をかさね、まさに国試に向けてひた走るという印象だった。
だからこそ、世の文系大学生が自分と同じ「大学生」を名乗りながらも、悠々自適に過ごしていることに「怒り」を覚えたのだろう。
そう考えると、彼の叫びはとてもまっとうなようにも思える。
まっとうだからこそ、腰をすえて考えなければならないことがある。
それはまさに「学ぶ」と「遊ぶ」は対立する事項なのか、ということである。
たしかにわたしとしても、「遊んでばかりの学生」がもしほんとうに存在するとしたら、あまり好意的には思えないだろう。
だけれども、かくいうわたし自身が勉強漬けだったかといわれれば、まったくそうではない。
その自己防衛というわけではないが、「遊び」には「学び」だけでは得られないような「学び」があるとわたしは思う。
なにしろ社会は「学び」だけで成り立っているわけではないからだ。
「遊んでばかりの学生」は遊んでばかりの分、社会のなかでしか得られない何かと多く出会っている。それはそれである種の「学び」であるとわたしは思う。
しかしここで必ず、「遊んでばかりなら大学生でなくともいいのではないか」との意見をもつひとが出てくるだろう。
実際、「大学生でなくともいい」のである。
けれども「大学生」という肩書は、遊ぶための免罪符としてこのうえない機能を発揮する。
だから遊びたいひとも大学生になりたがるのだろう。
清純路線が売りの女子アナが、大学時代のあれやこれやが記事にされたところで、「大学時代だから」という理由で大目に見てもらえる。
世の中はそれくらい学生に寛容なのだ。
しかしこれでは、冒頭で触れた彼のような猛反発の声は鎮まりそうもない。
だからもう、このことに関しては「よそはよそ、うちはうち」の心持ちでいるしかないように思う。そこに「ズルい」という感情を持ち込んだ時点で負のループに陥る。
いくらなんでもこれだけではなんの解決にもならないので、わたしはここでひとつ、視点を変えることを提案したい。
一部の例外をのぞいて、「忙しい学生」も「遊んでばかりの学生」のどちらとも支払っているものがある。
そう、学費だ。
学部や大学の違いはあれど、ある一定の、そしてそこそこ高額なコストといえる。
しかし現在、ほとんどの大学は、学生ひとりにつき支払われた学費以上のコストをつぎ込んでいる。
ふだん「遊んでばかりの」まわりに嫌気がさしているのならいっそ、支払っている以上にもっともーっと設備や制度を使い倒せばいい。
そうなればもう、元を取りまくりどころか、ほかの学生の利用枠までせしめたような気持ちになれる。
もし文系学生で「まわりのあいつらとはちがう」と思いを抱えているのなら、図書館にじゃんじゃん購入依頼をだして、学内のパソコンを酷使して、学割も使いまくろう。
学内の教員や職員と仲良くなって、目をかけてもらえるようになったらもう、そこはあなたのためのキャンパスだ。
とそれっぽいことを言ってみたけれど、ここで書いたあれこれは全部、キャンパスに入構できることが大前提となる。
このご時世ではきっと、「学びたい」というシンプルな気持ちの強さがすべてのモノを言うし、とてつもなくかけがえのないものになっている。
そうなればもう、「遊びたい」だけのひとと比べるまでもないのだ。
画面と向き合うだけの授業をマジメにこなせるって学びへの熱意がなければできることではない。
ぜひ、自分で自分を褒めてあげてほしい。
自宅で端末の画面とにらめっこしているすべての大学生に、心から伝えたい。
あなたたちは、すごいのだと。
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