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自由:=?

【進撃の巨人を読んで、自由とは何か?を考えてみる】

自由とは、自分が考える「自由」を、自由に「思考」出来ること、であるのではないか、と私は考えている。言い換えると、我々には、自由な思想を持つ権利があると言えるだろう。

そして、自由の定義を考察していた時、ふとたどり着いた考えがある。それは、自由とは、自由に「思考」する、という段階までを指し、その思考した「自由」を「実行」するとなると、パラドックスが生じ、「不自由」になるのではないかという考えである。

この考えの根拠は、自分の「思考」した「自由」を「実行」するには、対価である「不自由」を受け入れる事が必要だからである。具体例を、進撃の巨人から引用すると、エレンは「自由」を求めて地鳴らしをした事で、という、エレンにとっての「不自由」を受け入れた。「自由」を「実行」した時点で、エレンは「不自由」を受け入れなければならなくなったので、「自由」では無くなっている。故に、「自由」とは「自由」に「思考」する事が出来る状態のみ、の事を指すのではないかと考えた。日常に置き換えてみても、進撃の世界観のように壮大な事例は無いが、思い当たる節がある。


また、進撃の巨人を読んで、「自由は自己完結するものである」という考えの軸が出来たので、この点に感して、誰かの喜びは誰かの犠牲の上に成り立っている、という進撃の巨人で繰り返し提示される、食物連鎖のテーマの観点から考察し、自由に「思考」出来る状態のみ、を自由とする考えの裏付けをしたいと思う。

自分の「思考」した自由を得ようと、「実行」すると、己の欲望は満たされて「喜び」の概念が生まれるが、それと同時に、誰かの「犠牲」という概念も生まれる。その犠牲が生まれた時点で、他人が介在する事になる。すると、自己完結の状態とは言えなくなるだろう。ここでも具体例を進撃の巨人から引用すると、エレンは自由を求めて地鳴らしをし、己の考える自由を「実行」したけれども、その裏で沢山の人間に不自由を強い、虐殺した。自由を「実行」した時点で、他人に不自由を強い、世に、新たな不自由という概念を生んだ。やはり自由とは、自由に「思考」する事が出来る状態のみ、の事を指すと言えるのではないか。

また、食物連鎖を例として作中で語られた、「誰かの喜びは誰かの犠牲の上に成り立っている」という点にも通じているように思う。すると、この作品に繰り返し登場する、「この世界は残酷だ、そして、美しい」というフレーズにも繋がると思うのだが、自由は「思考」する段階まで、であると考える私からすると、その「思考」から「実行」へと自由を追い求め、不自由の概念が生まれるという、そのパラドックスが生じる瞬間の「儚さ」こそが、進撃の巨人では「美しい」とされるのではないか、と思う。そして、自由を追い求め、不自由の概念が生じようとも、覚悟して「実行」できる人間の「希少さ」も、その儚さを掻き立てる要素の一つであると私は考える。

現段階の結論として、自由とは、自由に思考することであると考えた。生きることは、考える事であると定義付けしている私からすると、自分の頭で思考している時間は、果てしなく自由に生きている時間のように感じる。

誰にも邪魔されない私だけの世界。

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