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「夢」

おこんちゃ。アポロンです。

梅雨入りして数日。線状降水帯が云々と、騒がれております。
故郷の九州、それも山間部や地方では、毎年ながら、水害の影響が心配されます。なにもなければ良いですが。

明日、アップロードされる回は、「夢」ついて語っています。
僕はデモを聴きました。にーとさんと、いとくずさん。お二人の回です。
僕が参加するより以前、二年ほど遡りますが、当初はお二人だけの収録でした。
随分と久しぶりに、お二人だけの会話を聴きまして、信頼関係がもたらす優しい空気感と、そこはかとない懐かしさが、心地よいです。
是非、聞いてみてください。

「夢」というと、神秘的な側面と、生活に根付いた側面とがあるように思われます。

神秘的な側面とは、寝ている最中にみる「夢」のように、受け身の態度でしか対処のしようがない「夢」を言います。
翻って、生活に根付いた側面の「夢」とは、Dreamの側面です。「夢はあるか」と問われ、「○○だ」と断言できる、能動的状態の延長線上にある「夢」です。
今回のラジオのテーマは、Dreamの側面を語っています。

こう考えてみると、「夢」の言葉に、ついて離れない意味内容は、面白いものです。

言語学には無知の人間ですから、想像で語るしかないわけですが、いったい夢の意味内容をDreamの側面として解釈しだした時代は、いつから始まったのでしょうか。
僕らが「Big Dream」なり、「I Have a Dream」なりを見聞きするとき、反射的に想像する意味内容は、「なりたい○○」を孕んでいるものと思われます。

「夢を見る」と言った場合、どちらとも解釈できそうです。
「トリトンの自転に身体をあずけていると、彼方から海王星が現れる夢を見た」と、僕が実際に見たことがある夢で例をとった場合でも、「夢を見る」として意味内容は通りますし、「いずれは北海道に移住したいと夢見ている」と言った場合でも、意味内容は通ります。
どちらも「夢」を語っていますが、僕らは確かに判別できます。それが神秘的側面を孕んだ「夢」であるのか、あるいは生活に根付いた側面を孕んだ「夢」であるのか。
一例は分かりやすく大胆なものにしましたが、さて、僕らは「夢」の意味内容を判別する時に、どういった基準を設けているのか、という問題が立ち上がりました。

ここでは、文脈と言う前提を置いておいて、「夢」を語るいち表現を見聞きした際の、僕らの態度を考えてみたいと思います。
「夢」を語る表現を見聞きした際に、僕らは知識の天秤にかけて、「夢」が現実的な部類に属するものか、あるいは非現実的な部類に属するものか、判断しているもののように思われます。
「知識」を、「記憶」や「常識」、「経験」と言い換えてもらっても良いです。

一例の前者、海王星の夢は、瞬く間に天秤のはかりが、非現実の片方へ垂直落下する光景を想像できます。垂直落下した途端、僕らはこの「夢」を神秘的なものとして解釈し、以降の進展は望まれないでしょう。
一例の後者は、ジワジワと、はかりが、現実の片方へ重さを増してく光景を想像できます。これがアラスカやギリシャといったら、ジワジワが、さらに速度を減退させていくと推測出来ますが、はかりが傾きをみせる対象に、変わりは見られないでしょう。

こう考えると、「記憶」や「常識」、「経験」というものが、「夢」の意味内容を実のあるものとするか、虚実とするか、判断していると分かりました。
ここまで言っておいて、当たり前の結論に帰着してしまうわけです。
しかし「程度」の問題はどうでしょう。「尺度」ということです。
「記憶」や「常識」、「経験」というものに「尺度」があり、「夢」の意味内容は、この「尺度」の小さなふれかた次第で変わってくるものだとしたら、深入りしても無駄ではないように思われます。

この「尺度」というもの。
僕らはどうしたって、どんぶり勘定のごとく見積もってしまいます。
芸能人の不祥事は良い例でしょう。日本人の大好物です。「記憶」や「常識」、「経験」というものを差し置いて、右か左か、上か下かのざっくばらんな「尺度」でもって、獲物に食いつくのです。
しかしこう言っている僕の「尺度」というものも怪しいものです。獲物に食いつく人間ですら、その一日、なにかいけ好かないことがあって、食いつかざるを得なかったのかもしれません。
「尺度」をどんぶり勘定することによって、なるほど、生活は簡略化され、注力すべき事柄に身を注ぐ余裕はできるでしょう。
余裕を失いつつある現代人の、生存本能のように僕には映ります。

「夢」を解釈する場合の「尺度」とは、なにを言うのでしょう。

僕が小学五、六年生の頃だったか。
戸建ての、二階の寝室では、家族みんなで寝ていました。
ある日、僕は先に寝床へ入り、横になったまま、目前のベランダの格子を通して、澄んだ夜空の景色を、漠然と眺めていました。
すると、緑色に輝く火の玉のようなものが、とても飛行機が描く軌道とは思えない動きでもって、夜空に漂っては、消えていきました。
それから数日間。僕はこの光景を忘れられず、今日も現れるのではないか、明日は現れるのではないかと期待して寝床についていましたが、いよいよ姿を現すことはありませんでした。

言わずとも、当時の僕にも、「記憶」や「常識」、「経験」というものがあります。しかしこれらに付帯した「尺度」によっては、緑色の火の玉が人工物に違いないと断定するには及びませんでした。
今の私が緑色の火の玉を見れば、ドローンか、光源付きの凧か、あるいは小回りの利くヘリコプターか。色々、考えは巡ります。

しかし、ドローンも凧も、ヘリコプターも、「記憶」や「常識」、「経験」が導き出した事実ではありません。
「緑色の火の玉」という不可解なものを理解するには、「記憶」や「常識」、「経験」から敷衍する「尺度」によって想像を働かせ、ひとまず結論をつけるしかないのです。
そうして、この結論の付け方と言うものが、今の私にとっては随分と面白くないと感じるわけです。

小学五、六年生の僕と、今の僕と。いったいどっちが利口なのか。

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