好きなことや楽しいことは悪なの?

このnoteは下のブログを元にvoicy / youtubeでお話しした内容を文字起こししているものです。

この話の元記事はこちら!
「自分らしく振舞い、好きなことや楽しいことをやり始めたら罪悪感が出てきたんですけど?」

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どうもこんにちは。

カウンセラーの根本でございます。

いつもお聞きくださいましてありがとうございます。

ということで、久々に夏空が戻ってきた大阪でございますけど。

皆さんいかがお過ごしでしょうか。

今日は、「あ、けっこうこれあるな」っていうお話でございます。

「好きなこと・楽しいことをやり始めることに罪悪感が出てくる」というテーマでお届けしたいと思います。

よかったら最後までお聞きください。

そして、チャンネル登録とかフォローとかもよろしくお願いします。

皆さんは心当たりあるでしょうか?

楽しいことや好きなこと、面白いこととかをやると、なんか罪悪感が出てきちゃうみたいな、そういう体験でございますね。

これはけっこうあるなっていうことを、お話を見ながら、ブログでリクエストをいただいてるんですけども、捉えてまして。

「あぁ、なるほどな」っていうような、「これあるあるだな」ということで、ネタにさせてもらったんですけども。

僕たちは、幼少期よりなんらかの我慢とか、抑圧ってことをしてるんですけども。

やっぱり楽しいこととか、好きなことをけっこう我慢するっていうことが癖になってるっていうところがあるんですね。

たとえば、夏休みね。

今子供たちは夏休みだと思いますけども、「宿題やったの!?」ってお母さんに言われるとかね。

「宿題をやったらゲームやっていいよ」とか。

それを「取引」って専門的に言いますけども、そういう環境で育っていく。

本当は外で遊びたかったりとか、もっとゲームとかアニメとかを楽しみたいと思ってるんだけども、でも将来のことを考えてという、親御さんなどの意向によって、それが禁止されるっていう環境にありますよね。

そうすると、好きなことや楽しいことっていうのを、我慢するっていう癖っていうのがつきます。

もちろん、その辺りも分別がついてくれば、あるいは親がちゃんと説明しておけば、そんなトラウマになるようなことはないんですけども。

とくに、しつけが厳しいとか、教育ママ・パパだったりとか、抑圧が強い環境に育ちますと、どうしても自分がやりたいことよりも、親が望むことをしなきゃいけないような、そんな環境になってしまうわけでございますね。

また、親との関係だけじゃなくて、学校でも僕たちは自分が好きなように振る舞うっていうことはなかなか許されませんよね。

「みんなと同じ行動を取る」っていうことが望まれるし、先生が同級生たちもそういうことを望むというか、期待するっていうところがあるので。

そうすると、なんか好き勝手やってると、いじめになったり、攻撃されたりとか、あるいは浮いてしまったりとか、問題児として扱われちゃったりとかっていうことになりますので、そういったかたちで僕らは同級生たちの中で、学校の中でも「自分っていうものをどうするか」っていうふうに、調整していくわけですね。

それもまぁまぁ必要っていえば必要だし、本当に悪いことなのか?っていうと、これはちょっと微妙なところもありまして。

ただ、キャラ・個性によっては、その抑圧が非常に苦しくて、それ故に強い力で抑え込んじゃうということもあります。

それだけじゃなくて、他にもいろんな環境の中で、兄弟もありますし、先輩後輩もありますし、いろんなところで僕たちは本来の自分っていうのを作り変えてるというか、仮面をかぶってるっていう話をよくさせていただきますよね。

で、そうやってやりたいこととか、好きなことって、子供時代はたくさんあったはずなんですよ。

なにもなければ「作り出そう」っていうクリエイティブな部分っていうのも、実はあったんですよね。

ところが、そういった抑圧的とか、義務的な環境の中にいることによって、楽しいことや、好きなことっていうのを禁止されるというか、できなくなってしまい、自分からもやらなくなっていくっていうことを、本当に幼少期から大人になるまで、そしてもちろん大人になってからも続けていくっていうことがあるわけです。

だから、「好きなこと・やりたいことがわかんない」っていう人がけっこうたくさん出るんですけども。

でも、その我慢する時に、辛いじゃないですか。

嫌じゃないですか。

たとえば、ゲームやってて楽しいとか、友達としゃべっててすごく面白いとかっていうのを禁止される。

その時に、僕たちはどういうふうにそれを抑えるか、我慢するかって言うと、「やっちゃいけないことなんだ。これは我慢しなきゃいけないんだ」っていうふうに思い込むんですけど。

その時に、罪悪感をひっつけるっていうことをやるんですね。

つまり、「悪いことだ」と。

勉強もせず、宿題もせずにゲームをやるっていうことは悪いことなんだと。

自分が好きなことや、楽しいことをやるっていうことは、悪いことなんだっていうふうな思い込みっていうのを発生させるんですね。

僕らは当然愛されたいですし、嫌われたくないですから、悪いことってしたくないわけですよね。

だから、「これって悪いことなんだ。しちゃいけないことなんだ」っていうふうに思い込むことによって、自分の好きなことや楽しいこと、面白いことっていう、その生き生きした部分っていうのを、封印してしまうということがまぁまぁよくあるわけでございます。

で、そうやってよくある状況になりますと、とりあえずは表面的にはうまくやれるかもしれませんと。

ところが、それがずっと大人になると、癖になってしまって、好きなことや楽しいことを我慢するのが当たり前になって、その時に都度都度罪悪感をひっつけていくっていう癖がついたりもするんですね。

そうすると、たとえば高校生になって友達と遊びに行くっていうところで、なんか背徳感みたいなものを覚えたりとか、なんかやりたいことや好きなことっていうのをやることが、もう全然ダメになってしまって、自分でもそれがなにかわかんなくなっちゃったりっていう状態を作り出すことだってあるんですね。

ということで、そうやって大人になった時に、「すごく抑圧している自分」っていうことになって、なんか折にカウンセリングとかでご縁ができますと、「いやぁ、本来の自分はあなたもう少し情熱的でね、すごく生き生きと遊び回るのが似合ってるんじゃないですか?」みたいな感じで、そういった指摘をさせてもらうこともあったりするんですけども。

「あ、そうなんだ」と。

「じゃあ、自分をもっと解放していいんだ」と。

今まで抑え込んできた、知らず知らずのうちに自分を抑え込んできたんだけども、解放してけばいいんだっていうふうに許可が下りたと。

じゃあ、たとえば好きな服を着て、好きなものを食べて、好きな遊びをしていこうと。

好きなものっていうと、ないこともないから、それを思いっきり楽しもうじゃないか、みたいなふうに動き始めた時に、この蓋が開くわけですけど。

その蓋っていうのが、まさしく「好きなことや楽しいことは悪だ」として思い込んだ「罪悪感」が蓋だったり、蓋の中にあったりするので、まずそれが出てくるんですね。

だから、そうするとなんかすごく楽しくなったり、生きやすくなったりとか、今日のネタ元さんもそうなんですけども、楽になったりとか、生きやすくなったと。

イェーイ!みたいな、モテるようになりましたとかね。

で、好きなことや楽しいことでどんどん自分らしさを出していこうっていうふうに思う一方で、罪悪感が出てきて、「なんかいいのかな・・・そんなにも好きなことやって。こんなに楽しんじゃっていいのかな・・・これってよくないことなんじゃないかな」っていうふうな思い、これが出てきてしまうっていう話なんですね。

罪悪感で蓋をしたので、罪悪感が出てくる。

これが怒りで蓋をする場合もあって。

怒りで蓋すると、なにか好きなことをやると怒りが出てきやすくなったりもします。

この怒りとか罪悪感は、けっこうこういうケースでは使われますので、「あぁわかるわかる」っていう方もいらっしゃるかもしれませんけども。

じゃあどうしたらいいのか?っていう話になるんですけども。

罪悪感が出てくるのは、そういう仕組みで、好きなことややりたいことって悪だっていうふうに抑え込んできたわけですけど。

じゃあそれって悪いことなの?どう?って言うと、「いやいや、そんなことないよね。いいことだよね。自分らしく振る舞うために、素晴らしい試みだよね」っていうふうに思えば、許すってことが出てくるわけですね。

罪悪感を感じるんだけど、「あ、でもいいんだ」と。

「やっていいんだ」っていう許可を出し続けるっていうことが、ポイントになっていくわけです。

で、そこで自分を出し続けるということによって、なにができるか、なにが起きるかって言うと、ごく簡単に言えば、ますます生きやすくなってくるわけですね。

ますます楽になっていきます。

でも、ここの葛藤がけっこうキツいっていう方もやっぱり少なくないので、「もういいんだよ」と。

「もう自由なんだよ」と。

「自分を解放していいんだよ。好きにやっていいんだよ」っていうことを、自分に許し続ける必要があります。

時には、この罪悪感っていうのは、投影されて外からやってくる場合もあって。

たとえば、旦那様に注意されるとか、上司や友達から嫌味を言われるみたいな、ドリームキラー的なことも起こることもあるんですけども。

「いやいや、大丈夫大丈夫。そういった声に惑わされなくて、私はもう自分らしく生きるんだ」と。

「自分自身を生きるんだ」っていうふうに決意し続ける。

つまり、コミットし続けると、やがてそれが自分のアイデンティティになっていきますので、ますます生きやすくなると同時に、自分がどうやって生きていきたいかビジョンを描く。

「ライフワークをデザインする」っていうことができるようになっていくんですね。

そうすると、たとえば仕事だったり、パートナーシップっていうのも、本当に自分にフィットするものが見つかるというか、探し出したくなりますので、人生がますます良くなっていくっていうのが今日のお話でございました。

ということで、今日はそんな「罪悪感」についてのお話でございました。

最後まで聞いていただきまして、ありがとうございました。

根本でした。

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