彼が癒されるんだったら誰が癒してあげてもいいじゃない?
このnoteは下のブログを元にvoicy / youtubeでお話しした内容を文字お越ししているものです。
「「彼が癒されるんだったら誰が癒してあげてもいいじゃない!」と素直に思えない心の裏には自信のなさが潜んでいる。」
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どうもこんにちは。
カウンセラーの根本でございます。
いつもお聞きくださいましてありがとうございます。
ということで今日は、東京のカウンセリングルームの方に来ております。
いい天気ですけど、なんか霞がかった1日でございますね。
皆さんいかがお過ごしでしょうか。
昨日の地震は皆さん大丈夫だったでしょうか?関東の方ね。
僕もホテルにいましてけっこう揺れましたけども、なんとか無事でございます。もちろん。
ということで今日は、「パートナーシップ」のお話なんですが、タイトルそのままですね。
「彼が癒されるんだったら誰が癒してあげてもいいんじゃない?」っていうお話をさせていただきたいなと思います。
よかったら最後までお聞きください。
頭ではわかると。
理屈でもたしかにそうだなと思う。
でもなんかモヤモヤするんすよね・・・って思いがちな、この話題でございます。
とくに彼のことが大好きで、与えたい人・助けたい人の中にやっぱりこの気持ちって強く出るのかなと思うんですが。
もちろんこれはパートナーシップだけじゃなくて、お仕事であったとしても、親子関係・子育てとかは、けっこうこれって強く出てくるのかなと思います。
「彼が幸せになるんだったら、誰が幸せにしてあげてもそれっていいんじゃないの?」っていうのは、ある種の正論のように聞こえるかもしれず、抵抗が出てきちゃうっていう場合もありますよねと。
結論から言うと、実はその裏に無価値感とか劣等感のようなものだったり、自信のなさ、自己肯定感の低さみたいなものが実は影響していて。
それがゆえに「私が彼を癒やしてあげたい。他の人じゃダメ!」みたいなね。
独占欲っていうふうにも言われるかもしれませんけども、「私が彼を癒してあげたい」っていう気持ちがすごく強いと、それが彼を逆に束縛してしまうことにもなるよねっていうテーマなんですね。
で、もちろん好きな人だし、独占したい欲求もあるし、もちろんパートナーだったら他の人に癒されてくるなんて喜べるわけないじゃないのっていうふうにも思うと思いますし、もちろんいろんなケースっていうのが想定されるんですけども。
ただここで「私が癒してあげたい」っていう気持ちが強くなりすぎると、なにが起こるかっていうと、いわゆる「私が」の「我」の部分が、自分自身もそうだし相手も束縛するというか。
つまり、「私が彼を癒してあげたい」っていうこの気持ちはぜんぜん愛情だと思うんですが、それが「私が癒してあげる」っていうその目的が実は自己顕示欲であったりとか、承認欲求、「誰のおかげだと思う?」みたいなね。
「私のおかげでしょ?」みたいな。
つまり彼が幸せになるとか、彼が癒されるっていう結果はともあれ、「私が彼を癒したのよ」っていうふうに承認されたいという欲求が出てくるとかね。
あとそれから嫉妬心っていうのもあって、たとえば彼がカウンセリングを受けましたとか、あるいはこれはちょっと問題・波紋を呼びますけど、キャバクラ行ってきて女の子といっぱい喋って癒されましたみたいなことを聞くと、そのキャバ嬢だったりカウンセラーっていうところにメラメラと嫉妬心が出てくるわけですよね。
「私が与えたいものを他の人からもらって、こいつご機嫌になってやがるー!!」みたいな感じですね。
そうするどうなるかっていうと、癒された彼をバッサリと切りつけようとしてしまいますね。
キャバ嬢がっていうところはちょっといろいろな問題が絡むので、カウンセラーでっていう方で推していきたいなと思ったんですけど。
つまりこれは競争心っていうのがあったりとか、その裏側にある自信のなさ・劣等感っていうものがあって。
今の話で言うと、「私が彼を癒してあげたいのに、カウンセラーさんに癒されてくるなんて!」ってこれは競争なんですよね。
でも結局そこで見て欲しいのは、彼が癒されて楽になったら、その恩恵って自分も受けられるわけですよね。
だからパートナーシップっていうのは、どちらかの成功が二人の成功になるっていう、「二人で恩恵を受け取れる」っていうのがものすごくメリットなんですけど。
パートナーシップ間の競争があったりとか、独占欲があったりとか、自分が彼じゃなきゃダメだなっていうふうに思い込んでしまうと、彼がカウンセリングに行って癒されてきたっていう事実を認められなくなって、否定したくなって、嫉妬もするし、悔しいし、なんか負けたような気もするしっていう気分になっちゃうわけですね。
それって、でもあなたがしてあげたかったことじゃないんですか?って。
でもそれが結果的にそうなったんだから、すごく素晴らしいことじゃないですか?っていうふうに見ることもできると思うんですよ。
でもやっぱりここは自己肯定感というと、もうなんでもそうなっちゃうんですけども。
まだまだ自分に自信がない。
実は自分に自信がなくて、自分のことを低く見積もってる、自分の価値魅力っていうのをちゃんと認めてあげられてない。
ゆえに、他の人に癒されるとか、他の人によって救われてる彼っていうものを、逆に攻撃したくなる、認められないっていうことが起きてしまう。
本末転倒ですよね。
これは「私が彼を支えてあげたい、彼を癒してあげたい」っていう気持ちの中に、自己顕示欲だったりとか、それから「力の証明」っていう言葉がありまして。
「私の力で彼を癒すことによって、自分がすごいんだ・自分は力があるんだっていうことを証明しようとする」っていう心理なんですけども。
結局これって彼のためでもあるかもしれないけど、それ以上に自分のため、自分本位なんですよね。
つまりエゴに取り憑かれてる状態と言えちゃうんですよ、実はね。
だから実はパートナーシップ、パートナーとの関係の絆というか、信頼関係というか、関係性っていうところがまだまだ成長する余地があるとも言えますし、自分自身ももっと自己承認して自分を成長させていく余白っていうのがまだまだあるっていうことを、この現象っていうのは教えてくれるわけですね。
だから「彼を支えてあげたい」とか「癒してあげたい」って気持ちっていうことがあれば、たとえばこういう考え方ができるんですね。
自己肯定感が高くなってくると、「彼を今一番癒してあげるのは誰かな?」って。
それがカウンセラーさんかもしれないし、彼の友達かもしれないし、彼の家族かもしれないんですね。
つまり彼を癒してあげたいっていうことが、力の証明でもなく、競争心でもなく、また自己顕示欲・承認欲求でもなくなっていくと、「彼にとってベストなことってなんだろう?私もできる。カウンセラーさんもできる。彼のお姉ちゃんもできる。じゃあこの状況だったら誰にお願いするのがいいかな?」とか。
「じゃあその3人で、別々のタイミングだけど、みんなで彼を支えてあげる。彼を癒してあげればいいんじゃない」っていう発想っていうのが出てくるんですね。
そうなってくると、実は自分も楽なんですよ。負担がなくなるんでね。
「自分は自分のできることをしてあげる」っていうことでいいんですけど。
私が彼を癒してあげたいが承認欲求だったりすると、オーバーワークとかしてでも、なにしてでも私が彼を癒す!になりますから、きつい、しんどい。
そしてそのエゴが入ってる分、だいたいこういうのはうまくいかないんですよ。
「私がこれだけやってあげたのに、なんであんた癒されないの?」っていうふうに文句が出てきたりとかね。
「どうせ私なんかより他の人がいいと思ってんでしょ!」みたいな、そんな言葉が飛び出てきたりとかして。
これは本当に競争心なんですけど。
だから結局そういうふうな気持ちになってしまう裏側には、もっともっと自分のことを認めてあげていいと思いますし、自己肯定感が重要ってことになりますし、「もっと自信を持ちなよ」っていうふうにカウンセリングの現場とかではお伝えすることが多いんですよ。
で、そこでたとえば彼の愛情をちゃんと受け取ってる?とか、自分の価値や魅力、自分にできること、彼を癒やしてあげたいと思う気持ちっていうのを承認してるかな?とか。
彼を癒してあげたい自分っていうのが、彼に対して深い愛を感じてるんだなっていうことを自覚するとかね。
そういうふうに自分自身が持っている彼に対する愛情っていうものが、本当に欲ではなくて純粋になればなるほど、彼のために誰かにお願いすること、「彼を癒してあげてくれませんか?」っていうふうにお願いすることもできるようになっていくんですよね。
これはちょっと非常に成熟した、大人のマインドの話になるので、なかなかちょっと難しいのかもしれませんけども。
でも一つの事例として、今日はお話しさせていただきました。
「誰が癒してもいいんじゃないの?」っていうお話でございました。
ありがとうございました。
根本でした。
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