外側からのものでは心は満たせない~自己充足の大切さ~

このnoteは下のブログを元にvoicy / youtubeでお話しした内容を文字お越ししているものです。

「外側のモノで自分を満たそうと思っても全然満たされない理由~自己充足の重要性とそのヒント~」

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どうもこんにちは。

カウンセラーの根本でございます。

いつもお聞きくださいましてありがとうございます。

今日は「自己充足」のお話になるんですけど、その前についつい僕たちがやってしまうというか、期待してしまう罠というわけでもないんですけれども、問題についてちょっとシェアをしてから話を進めてまいりたいと思います。

「外側からのもので自分を満たそうとしてもやっぱり満たされないよね」っていう話でございます。

よかったら最後まで聞きください。

たとえば僕たちは「これがあれば幸せになれる」とか、「こういうふうになったら満たされた生活ができる」とか、「誰かがこういうふうにしてくれたら自分は安心する」とか、そういった外側の要因っていうものに自分の心の安定というか安心のようなものを求める、幸せを求めるっていうところがやっぱりどこかにあるのかなと。

たとえば恋人がいたらいいとか、家もあったらいいとか、あるいは仕事が安定してたらみたいな感じの、外部要因、外部的要因に幸せや安心っていうのを求めるという傾向がやっぱりあると思います。

お金とかっていうのは典型的なものかもしれないですね。

ところがそういった外側のもので自分を満たそうというふうにすると、もちろん一時的な効果って多分あるんですけども、当然長続きはしないのでどんどんどんどんそのものに対して依存心っていうものが強くなったりとか、それが人間であっても物にしても、その相手に対してニーズ・欲求がどんどん強くなっていくっていうものが、一般的な心の動きでございますね。

だから何者かになろうとするっていう場合もありますし、

なにかを手に入れようとする→そしてその手に入れたものが自分を幸せにしてくれる

なんていうふうに思ってしまうと、ずっと僕たちは「なにか」を探しまくらなければいけない上に、実際それが叶って手に入ったとしても思ったほど満たされないっていうことに気づかされてしまうものでございます。

これはいろんな人生経験だったり、いろんな人の言葉の中でもやっぱり出てくるものなんですけども、ついついどこかで忘れがちなものだったりするんですね。

そういった外的要因に依存してしまう状態だと、やっぱりどうしてもいわゆる僕が言う「他人軸」っていうことになってしまって、それを手に入れるために相手に合わせたり、犠牲したり、我慢したりっていうことにもなりますし、不満だってたまっていくわけですよね。

そうするとその外側のもので自分を満たそうとすればするほど、どんどん自分自身からは逆に遠ざかってしまうっていうことになったりするわけです。

これは昨日いただいたネタを元にお話をさせてもらってるわけですけども、たとえば親子関係の問題でいえば、親の言動で自分が傷つきましたと。

それを親に謝罪して欲しいっていうふうに伝えて、親が謝ってくれましたと。

で、満たされたはず、満たされたんですけども、実際は。

だけどそれって意外と長く続かなくて、なにも変わってないじゃんみたいな状態になってしまうと。

これも一つの例です。

誰かがなにかをしてくれたと。

前から欲しかったものが手に入ったと。

これが、もちろん幸せだし嬉しいことだしいいことではあるけども、ただそれが自分自身にどれくらい効果が持続するかというと、やっぱり微妙なんちゃうかなと思っちゃうんですよね。

よくいう例え話に、お昼ご飯を食べても夜にはお腹がすくとか、昨日たっぷり寝たけど今日はやっぱり眠たいみたいな話というのもありまして。

「欲求」っていうものの心理ですね。

食べ物とかもそうですけど、外からのもので満たそうとしても、一時的には満たされるんですけども、やがてはまた欲しくなってしまうっていう例えでよく食べ物の話をしたりもします。

なので外側のもので自分を満たそうとすればするほど、誰かになんとかしてもらうとか、この物になんとかしてもらうと思ってると、なかなか幸せって感じられないんじゃないかなっていうふうに思うわけです。

そこで、じゃあどうすればいいの?っていうと、自分で自分を満たしていくっていう「自己充足」っていうね。

最近僕のブログとかの中でもお話をしています。

最近出た「ふと感じる寂しさ、孤独感を癒す本」っていうのがあるんですけども、こちらの本も実は自己充足について第五章を割いてお話をしてるんですけども。

自分で自分を満たす。

これは外側からの与えられるものっていうものを拒絶しろという意味ではもちろんございません。

あくまでそれは自己充足のためのサポートであって、たとえば自分が幸せになるために親から謝罪してもらうなんていうこともあったとしてもちろんいいんですけども、その謝罪されると幸せになるわけじゃなくて、謝罪していただくことによって「あ、自分が許されてる」とか、「親を許す」っていうことができることによって自分が幸せになるわけですね。

「自分」がやっぱり主人公ですし、「自分」が主体的になって行動して幸せっていうものを叶えることができるわけですね。

この自己充足っていうのは内側から湧いてくるエネルギー、自然と湧いてくるエネルギーですので、僕たちが好きなもの・楽しいもの・おもしろいこと・嬉しいこと・良い気分になれることっていうことをやっていくっていうことになるわけですね。

これが自分の中から自然と湧き上がってくるエネルギーとしてお話するのであれば、端的に言えば「なにかを与える」っていうことになります。

誰かになにかを与えるっていうことですね。

この与えるっていうのも言葉としては一般的かもしれませんけど、意味としてはけっこう深くてですね。

「相手が喜ぶことをしてあげる。そしてそのこと自体が自分も嬉しい」っていうことを与えるというふうに言います。

つまり相手からの見返りであったり、相手の反応というのは一切関係なく、自分がそれをさせてもらえること自体が嬉しいし、それをすることっていうものが気分が良いということなんですね。

だから、この与えるっていうことを実現して自己充足させるっていうことは、本当に土台・ベースになるもので、わかりやすく言うとボランティア活動とか募金とか寄付なんていうのもそうですし、誰かのサポートをすること、誰かを応援すること、それから誰かを喜ばせてあげるように振舞っていくこと、これも自分の喜びと共にやっていくので、似た行動に「犠牲」っていうのがあるんですけど、犠牲というのは嫌々だったり、怖れからやる行動で、決して気分が良くないんですね。我慢もあります。

なので誰かを喜ばせてあげる、そしてその行為自体が自分の喜びになっているっていうこと。

これをやはり自己充足としては一番の軸になるのかなっていうふうに思います。

もちろんここから拡大していくと、本当に自分がワクワクするような夢っていうもの・ビジョンというものを描いて、そこに向かっていくっていうことも一つですし。

それから話がすごくガラッと変わりますけども、誰かを育てる。

植物でもいいんですけど、誰かを育てるっていうことも非常に自己充足としては軸になってくる部分でございます。

育てるっていうのは親が子を育てるっていうこともありますし、部下を育てるっていうことでもあります。

観葉植物であったり、プランターのプチトマトを育てるっていうことでもあったりします。

育てるっていう意識、これも一つ自己充足というものに繋がっていきます。

それからなにかを創作・クリエイティブなことをすることですね。

これは絵を描くとか写真を撮るということでもいいですし、料理を作るなんていうのも意外とクリエイティブな作業だったりとかもしますし。

もちろんなにか編み物をしたりとか工作をするっていうことでも構いません。

DIYが最近流行ってますよね。DIYももちろんクリエイティブな作業になりますから、これも自己充足っていうことにもなります。

それから育てるっていうことでさっきプランターでっていう話をしましたけれども、もちろんこれは畑とか田んぼでっていうことなりますと本格的な育てる行為になります。

こうした自己充足っていうところを意識して、これね、もちろんやりたくなきゃ意味がないですよ。

ボランティアをやれって言われたからやってますっていうのは犠牲になってしまいますから、あまり意味がなく。

当たり前のように飛ばしちゃったんですけど、ちょっと一応触れておこうと思って触れてますけども。

こうして自分がすごく楽しいな、喜びを感じられるなっていうこと。

これけっこうボランティアをやったことある方とか、地域貢献でもそうですけど、無償でやってるんですけどなんかすごくいいものを教えられたっていう気分になることってたくさんあるんですね。

こういったことが自己充足に繋がっていくと、外からのなにかの物に依存するのではなく、自らで自分を満たすことができるという自己充足。

これによってまた新たな幸せであったり喜びっていうのは手に入れられるよっていうお話でございました。

ということで、最後まで聞いていただきましてありがとうございました。

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