父の死で、その父への愛に気づいてしまったとき

このnoteは下のブログを元にvoicy / youtubeでお話しした内容を文字起こししているものです。

この話の元記事はこちら!
「お父さんが急に亡くなってからお父さんへの愛と罪悪感が大量に溢れてきた。」

***

どうもこんにちは。

カウンセラーの根本でございます。

いつもお聞きくださいましてありがとうございます。

ということで、今日は東京のホテルからお届けしております。

今日は祝日なんですよね。

すっかり忘れておりまして、昨日思い出したところでございます。

今日は僕は動画の撮影がこのあとありまして、そのあと大阪に帰る予定です。

ということで、今日はちょっと重い話かもしれません、悲しい話かもしれませんけども、ブログの方でいただいたネタにお答えするかたちで文章を書かせていただきまして、そのフォローをこちらでさせていただければなと思います。

お父ちゃんが亡くなってというか、お父ちゃんが亡くなる前にすごくお父さんの愛に気づいたんだけども、そのあとすぐに亡くなってしまって、すごい愛が溢れてきているっていうのと同時に罪悪感がいっぱい出てくるっていうところのシェアをいただきました。

ブログで昨日の記事ですけども、よかったらそちらも目を通していただければなと思っております。

で、こういうカウンセリングってけっこうやっぱりよくあると言えばよくある話ですね。

死についての相談っていうのはやっぱりあって、それがけっこう悲しいとか辛い、寂しいっていう気持ちもあれば、今回のようにいわゆる愛に気づくパターンですね。

こんなにもお父ちゃんのこと好きだったんだと。

ずっとたとえばお父ちゃんとの確執があって、なんなら揉めごともあって、あるいは冷戦状態もあって、大人になってからはけっこう距離を取ってきた存在だったと。

「もうお父ちゃん関係ねぇよ」みたいな感じで生きてきたと。

ところがあるきっかけがあって、「もしかして私お父ちゃんのこと大好きだったんちゃうの・・・?」みたいなふうに気づいて、そして雪解けが始まるんですけども。

じゃあそこからお父ちゃんとうまく仲良くできるか?っていうと、なかなかお互い逆に難しかったりする。

でもお互い愛情があるんだけど・・・みたいな葛藤が続くっていう、そういうお話もよくありますね。

今回はそこで本当にお父ちゃんが亡くなってしまったっていうことなんですけども。

それはもちろん悲しいことだし、すごくやっぱり寂しいと思うんです。

愛に気づいたのに亡くなっちゃった場合っていうのがね。

でもやっぱりそこで、こういう言い方っていうのは非常に繊細に扱わなければいけないので言葉を選ぶんですけども、良い解釈ね、良い方向に解釈できればなっていうふうに思っています。

こういう状況であってもね。

たとえばよくこういう時には、「あぁ、お父ちゃんやっぱり恥ずかしがり屋だったんだね」なんていう表現をします。

どういうことかっていうと、「娘の愛をストレートに受け止めるのが恥ずかしいから、ちょっと違うかたちをとって欲しいんちゃう?」みたいな、そんな心理があったんじゃないの?っていうふうに解釈したりとか。

「実はお父ちゃんはもうこの世の役割を終えて向こうに帰ったわけだけども、その時に娘に、確執があった娘に、やっぱり愛に気づいてほしいなっていうことで、スイッチを押してあちらに行った」っていうふうな解釈っていうのもあったりします。

あとこういう世界、これは信じるか信じないかっていうのは皆さん次第だと思うんですけども、「亡くなって、肉体はなくなったとしても、心と心はつながるよね」っていうふうに解釈するということもできます。

だからの昨日のネタをいただいた方も、「毎日仏壇の前で大好きとかありがとうとか言ってる」って、「泣きながら言ってる」っていう話を書かれてたんですけども。

もうそれがやっぱり一番いいんじゃないかなっていうふうに思います。

今できることの最善を尽くそうっていうふうに考えるならば、愛に気づいたら、直接伝えられる肉体は目の前にないんだけども、でも仏壇があれば仏壇、墓前があれば墓前にそういったことをしてあげる、愛を伝える、感謝を伝えるっていうことができていれば、僕はもう十分だと思うんですね。

そして数十年間ずっと凍りついてたお父ちゃんへの愛っていうものが溶け出すわけですから、それはしばらくそんな状況が続くし、本当に生きてる間になにもしてあげられなかったっていう意味での後悔だったりとか、そしてお父ちゃん・大好きな人に触れられない寂しさとか、悲しみとか、そういう感情が出てくるのももちろん自然なことだと思うんですよね。

だからそういう意味で今できること、泣く時は泣く、寂しい時は寂しい、辛い時は辛いっていうふうに見てあげてほしいなと。

で、もう一つのテーマといいますか、それだけ溢れてくると「なんでもっと早くできなかったんだろう」とか、「もっとこういうことをしてあげればよかったのに」っていう後悔に続いて、やっぱり罪悪感っていうのがどうしても出てくるわけです。

「愛がでかい分、罪悪感もでかいんだ」みたいなことを、ネタ元さんも書かれてましたけども。

本当にその通りで、やっぱり愛と罪悪感っていうのは僕は比例すると思ってるので、そうするとお父ちゃんの愛がこれだけ溢れてくると同時に、罪悪感っていうところも強くなるんだろうなと思います。

でもそこで罪悪感っていうところで自分を責めたところで、じゃあお父ちゃん喜ぶんだろうかっていうことをちょっと気づいてもらいたいわけですね。

そこまで愛情があって、そして十分愛さなかったことに対して自分を責めてる。

そういう娘を見て、あのお父ちゃんはどう思うんだろうか?

自分はどう感じるんだろうか?

ということを見てあげてほしいなと思います。

喜ばないと思うんですよね、やっぱりね。

そしたらお父ちゃんのためにじゃないですけども、罪悪感ではなく愛の方を選ぶ。

だから愛で罪悪感っていうのは溶かしてあげることができるので、逆に言えばこんなにも罪悪感を覚えるくらい、お父ちゃんのことを愛しているんだなっていうふうに見て、お父ちゃんありがとうと。

もちろんごめんなさいっていうことを伝えてもいいかなと思います。

そしてどんどんどんどんその罪悪感が出てくるたびに、「あぁ、それくらい私はお父さんのことを愛しているんだな。本当はこういうことをしてあげたかったのにな」ってところで、またちょっと別の解釈なんていうのを入れられたらいいのかなと思います。

じゃあ生きてる時に、お父ちゃんは今のあなたのストレートな愛を受け取れるでしょうか?と。

あなたも毎日毎日大好き大好き大好きって本人に言えるでしょうか?

ということで、もしかするとお父ちゃんが亡くなることで、亡くなったことはもちろん悲しいこと、寂しいことなんだけども、そのことで、そのあったことのおかげで、こうやって愛を素直に表現できたりとか伝えられたりとか、それから愛をいっぱい感じることができるっていうのは、もしかしたらその「死」っていうものが手伝ってくれるんじゃないかななんていうふうに解釈することもできるわけですね。

だから罪悪感で自分を責めるって、あるいは後悔するっていうふうになるのも仕方がないことかもしれないんですけども、でもそれをお父ちゃんは喜ばないし、でもある意味こういうかたちじゃないと私もお父ちゃんも、愛を送る、そして受け取るっていうことができなかったのかなっていうふうに思う部分もあるんですよね。

もう一つのポイントがありまして、今はお父ちゃん大好き大好きで、自分が愛をバーッと放ってるほうなんでございますけども、しばらく経ってきたらでいいんですけども、「愛を受け取る」っていうワークね。

とくにお父さんと確執があって、「なんかお父さんには自分は愛されてないな」なんていうふうに思ってた方は必ずといっていいほどやってほしいワークがありまして。

「それはあなたのお父さんはどういうふうに人を愛する人ですか?」

っていう問いを解いていってほしいわけですね。

人には愛情表現っていうのが本当にさまざまな種類があります。

ストレートに愛を表現してくれたらわかりやすいんですけども、なかなか表現してくれませんよね。

とくにお父ちゃんみたいな世代の人・男性は、そういうことがなかなか苦手な人が多いのかもしれません。

だとすると、そのお父ちゃんっていうところの愛情表現ですね。

どういうふうに愛するんでしょうね。

たとえば経済的に家族に迷惑をかけないっていう愛し方もあります。

うちの親父もそうだったんですけども、すごく遠くから見守るっていうような、そういう愛し方っていうのもあります。

それから自分自身がなにかをするっていうよりも、お母さんとか周りの人を通じて、なんか愛を届けようというか、届ける意識もないかもしれませんけど、っていう人もいます。

さまざまな愛し方っていうのを人はしますので、それを受け取るっていうことも忘れちゃいけないよっていうことで。

愛するっていうことと、愛されてることを受け取る。

この二つのテーマでちょっとこの悲しい出来事を乗り越えていってほしいなと思います。

ということで、最後まで聞いていただきましてありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?