自分に厳しいルールを課してしまうのも愛が強いから!?
このnoteは下のブログを元にvoicy / youtubeでお話しした内容を文字お越ししているものです。
「自分に厳しいルール(条件付き許可)を課してしまう人の心には深い愛がちゃんとある。」
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どうもこんにちは。
カウンセラーの根本でございます。
いつもお聞きくださいましてありがとうございます。
ということでですね、今日は「自分に厳し過ぎひん?」っていうですね、そんな問いかけをちょっとさせていただくと同時にですね、
僕たちがよくやってしまう「無意識のうちに自分を縛り付けるルールの数々」についてちょっとお話をしていきたいと思いますので、心当たりあるなぁっていう方はぜひ最後まで聞いていただければと思います。
今日のテーマはですね、もともと「条件付き許可」とかという言葉でですね、ブログの方にリクエストをいただきました。
それは「こういうことをしたらあれしてもいい」みたいなね、そういうようなルールっていうものは自分はすごく厳しくつけてしまうんですっていう話だったんですね。
で、こういうことって僕たち日常的にたくさんあってですね。
たとえばですけども「今日中にこの資料が完成したら夜は甘いもの食べていいよ」とか。
「ダイエットに成功したら可愛い服着てもいいよ」とかですね。
「こういうふうになったらこうしていいよ」みたいなですね、許可、条件付きの許可ですね。
ということをけっこうやりがちじゃないかと思うんですね。
皆さんどうでしょうか。
なにか思い当たるところってありますでしょうか
締め切りを決めたりとか、数値目標を設定したりとか、あるいはすごくがむしゃらに働くことができたらとか、会社の売り上げに貢献したらとか、パートナーを喜ばせてあげたらみたいな感じで、
条件を付けて「これしていい、あれしていい」、あるいは「もうこれやめていい」みたいな感じの許可を出すということですね。
理屈から言うというか、理屈を言えばその条件なんか無しにこの許可だけ与えてあればいいんですけども、なぜか僕たちはその前になんとなく条件をつけてしまってですね、
その条件っていうものがめちゃくちゃ厳しいがゆえに、なかなか実現不可能になってしまうなんていうね、そういうケースもあったりするんですよね。
そうするとですね、結局前に置いてる条件が厳しすぎるがゆえに、いつまで経っても後半の許可が出せないっていうことになったりしますし。
これってね、いわば一つの“ルール”なんですね。
で、このルールっていうのが実は“ゲーム”という感覚だったら、ある意味良いっちゃ良いっていうか面白いっていうかね、楽しめるんですよね。
たとえばですね、ティッシュを丸めてですね、ゴミ箱に捨てるときに、「これが一発で入ったらビール飲んでいい」みたいなね。
「よし、ちょっと気合い入るわ!・・・・よっしゃー!!」
みたいなね、そういうゲームという感覚で楽しめるんだったらいいですし、逆に言うとゲームを楽しむためにはですね、そういうルールっていうのはね、必要だったりするんですが。
人生もゲームだと考えれば、そういった自分に課す条件っていうのもゲーム感覚で楽しめることができればいいんですけども、
これがですね、なんかどっかで道を間違えたようなところがあって、それがなにかって言うと、
「自分をいじめるために」「自分を追い詰めるために」「自分自身のことを本当に厳しく見ちゃうからこそ」できてくるルールっていうのはやっぱりあるんですね。
もうそんなに自分のこと嫌いなの?っていうかね、そんなに自分を傷つけたいの?そんなに自分を追い込んでどうすんの?みたいなね。
そんなことを思ってしまうような、そういう厳しさを持ってる方っていうのも実はたくさんいらっしゃって、けっこう今みたいな話ってカウンセリングの現場ではよく交わされたりするんですよね。
ところがですね、自分が自分に厳しいって自覚してる人っていうのはきっと僕みたいな人とか誰かから指摘されてですね、「そっかぁ・・・」って思った人が多くて。
ほとんどの場合そういう指摘をすると、「いやでも自分なんてまだまだ甘いと思います」とかね、「自分なんかまだまだそんなことを思っちゃいけないと思います」みたいな感じで、非常に厳しい基準というかね、目を自分自身に向けてらっしゃるわけですね。
その結果ですね、こういった自分に対して厳しくしすぎてしまうとどうなるかと言うと、いわばですね、常に自分に鞭を振ってやってるわけですよね。
今の競馬もね、G1シリーズが始まってますけども、どんな馬でもスタートからゴールまで鞭入れ続けたらですね、もう走れなくなっちゃって、順位なんてとんでもないことになってしまうわけですよね。
必要な時に必要なだけ鞭を入れて、ちゃんと全力を出してゴールまで走りきるために、鞭って使われるもので。
もう闇雲に打ち続けるっていうのはね、「1人SM」って僕よく言うんですけど。
快楽を伴わない1人SMみたいなもんで、かなりちょっと危険というか、却って自分自身をボロボロにしちゃうほどの力があるわけですね。
だから正直言えば、「そういう厳しいルールっていうのはいらないんだよ」ということをやっぱり一番言いたいんですけど。
ただ、なんでそれを無意識のうちにやってしまうのかっていうと、もちろん自己肯定感が低いからとか、罪悪感が実は強くありますねとか、あまりにも自分のことを無価値だと思いすぎてるよねなんていう場合もあるんですね。
なので、そういった自己肯定感を上げていこうよ、罪悪感を手放していこうよ、自分の魅力や価値とかね、存在意義っていうのをもっともっと見つけていこうよっていうような方向性っていうことが、一般的によくやるんですが。
今日はちょっとですね、さらに深堀りというかね、違う角度っていうかね、
「実はそれはね、あなたがね、愛の人だからなんですよ」
っていうようなね、半ばですね、こじつけに聞こえ人もいるかもしれないんですけども。
そういった実は厳しいルールっていうものを自分に課してしまう人っていうのは、実はすごく愛の人なんですよと。
愛に溢れた優しい人なのかもねっていうようなですね、そういう見方っていうことができるんですね。
で、自分に厳しくするっていうことがもちろん自分いじめとか、罪悪感とか自己否定とかね、そういうところからくる部分もあるんですけども。
ただ、それが100%じゃなくって、ある程度の部分っていうのはそういった厳しいルールを課すことによって、たとえば人に迷惑をかけたくないとか、もっともっと良いサービスをしてお客様を喜ばせたいとか、もっともっと彼や彼女を愛したいとか、もっと会社に貢献したいとか、もっとみんなを幸せにたいとか、
そういう思いというものが強いから、だからこそ、厳しいルールを設定してもっと頑張ってもっと誰かを喜ばせたい、そういう気持ちがここの根っこに隠れてるんじゃないのかなっていうふうに思っちゃうわけですよね。
もちろんこれを聞いてですね、「なるほど、確かに」と思う人もいらっしゃるかもしれませんけども、多分ほとんどの方はですね、この問題とかですね、その厳しさとか、あるいはあまりにもそういう厳しいルールを作りすぎてしまって、
もう今すでにいっぱいいっぱいなってる、燃え尽きてしまってるみたいな状態の方が多いので、そこにね、「愛があるよ」なんていうふうに言われても、「なるほど」みたいな感じにはすぐにはならないかもしれません。
ただ、よくよく思えばね、誰かのためにすごく貢献したいと。
たとえば愛する人がいて大切な人がいたならば、その人を幸せにしてあげたいとか喜ばせたいとか、もちろん逆に言うと、迷惑をかけたくないっていう気持ちってめちゃくちゃ強いと思うんですよ。
その人をたくさん愛して幸せにしてあげたい、幸せになって欲しいっていうふうに思えば思うほど、その人に対してやっぱりすごく意識を強く持ちますから、その分だけもっと頑張るとか、もっと与えなきゃとか、もっとこれやらなきゃっていうふうに思っちゃうことがあると思うんです。
愛が強いからこそ、そこに自分自身に逆に厳しくしすぎてしまう。
たくさん与えたいからこそ、自分にハードワークを課してしまうみたいなふうな見方ってできないでしょうか?っていうことなんですよね。
そうすると、たとえばこうやって自分に厳しくしすぎてしまって、でもあっぷあっぷになってるんだけども、それが誰かへの愛であるということに気づけば、
「あぁ、私ってこういうふうに人を愛そうとするんだなぁ」とか「こうやって頑張って頑張ってなんとか沢山与えることによって、その人に安心感を与えたいんだなぁ」っていうことが多分見えてくるんじゃないかなと思うんですよ。
だとすると、「じゃあそれって素晴らしいことじゃないですか」と。
「すごく良いことを実をやってるんじゃないですか」というふうにもし理解することができれば、
実はこれ逆説的になんですけども、自分自身に対してもっと優しくできたりとか自分に愛を向けたりとか、結果的にそのルールっていうものを緩和していくっていうことが可能になるんじゃないかなっていうふうに思います。
私のカウンセリングっていうのは、少々クサい部分もあるんですけど、根っこにあるその“愛”っていうところにめちゃくちゃ注目して、
「それは本当はすごく愛があるんですよ」とか「愛があるからそういうことを思うんですよ」なんていうふうにお伝えすることが多いんですけども。
今日もですね、こんな厳しいルールの裏側に愛があったというお話をさせいただきました。
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