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#29.程よく死にたい

今回の記事はあくまでも私の死生観を書いたものであるため、新興宗教がある方や確立した死生観がすでにある方はあまり気持ちの良い話しではないため閲覧を控えたほうが良いかもしれない。


程よく死にたいという言葉の意味は、無理に長生きをするのではなく、自然の摂理のままに死んでいきたいという意味になる。
なんだ、当たり前のことじゃないかと思われたかもしれない。

しかし、この当たり前の事が当然のように行われていないのが現状だ。口からものが食べれなくなっても、点滴や胃瘻、経管などから栄養を入れ、延命させることを正義と捉えている人が実に多い。意識不明となっても家族がまだ生きてほしいと願えば、本人の意志とは無関係に生かされてしまう。

話すこともできず、動くこともできずただ呆然と天井を見続ける毎日。これが、我が国の行き着く先だと思うと怖くなってくる。

そんなとき私が出会ったのは
長生き地獄】著:松原惇子
という本。


まさに私が感じていた老後不安や死生観にドンピシャリという内容だった。この本の中に孤独死は怖いことではないという一節がある。

それはなぜか?
一人暮らしをしていて、突然倒れたとして誰も近くにいなかったら救急車を呼び病院に行くことができず死んでしまう。
しかし、近くに誰かがいたとして病院へ搬送された場合、本来助からないものを助けたがために、延命処置を施され死ぬに死ねない状況に陥ってしまう。これこそが本当の恐怖であると。

もしかしたら、病院に行き、なんの障害も残らず助かるかもしれない。でも、それは病院に行ってみないとわからない。ようはギャンブルみたいなものである。もちろん本の中でも若い人はそのような場合も病院に行くことを勧めているため、すべての人に当てはまる内容ではない。

私はある程度の年齢になり、病院に行かなければいけないような状態になったときや口からものが食べられなくなったとき、自分の意志で動けなくなったときはそれが自分の死期だと思いたい。下手な延命処置はせずに自然の摂理のままに死んでいきたいと思っている。またこのような状態で生き長らえることのないよう安楽死の制度を日本でも導入してほしいと思う。

医療成就者としてはあるまじき考えだと、お叱りを受けるかもしれないが、現時点での考えはそうなのだから仕方ない。

それでも長く生きたいと思えるほど幸せな生活がある方は延命を選べばいいだけの話。人生の最期を決めるのは医者ではなく自分であってほしい。

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