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往復書簡ゆのみのゆ 十通目

雨季さん、香央へ

初夏ですね、いや、6月に入ったのだから梅雨というべきなのかもしれないけれど、今日はカラッと晴れていて、暑い。それに近頃は草木の緑も空の青も日に日に濃くなるし、迫りくる夏の勢いにつぶされてしまいそうな、気を抜くとすぐ眩暈で倒れてしまいそうな、そんな6月のはじめです。私も書簡を送るのがずいぶんと遅くなってしまいまして、お待たせして申し訳ない、ですが、手紙や書簡というのは待つのも楽しみの一つ、とよくいいますから……という言い訳はこのくらいにして、近況報告と応答へ移っていこうとおもいます。

どうやらわたしが前回の書簡を送ったのは3月の頭だったようです。その時はまだ始まっていませんでしたが、4月から休学をしておりまして、一時的に大学を離れ、自由に自分の関心の赴くまま、どこかへ出向いたり、お勉強をしたり、文章を書いたり、アンソロジーやZINEの制作に向けて本格的に動き始めたり、と自分の好きなことにばかり打ち込んでいる、のんきな日々です。しかし休学が始まって初めのころは自分の所属のあいまいさや、社会のどこにも繋ぎ止められていないことからくる、途方もない不安に押しつぶされそうになって、なんとなく鬱々としていることも多かったように記憶しています。義務がない、通わなくてはいけない場所もない、特に何の制限もない、そうした自由は一見、とても楽で、かつ楽しいばかりの状態のように思えますが、いざその状態に自分がなってみると、はじめは、自分を支えてくれる組織もなく身ひとつで立って歩いていかなければならない、というような孤独や不安をおぼえ、また、どのようにして日々を成り立たせていくべきか、何せすべてを自分で組み立ててゆかねばならないわけですから、この休学期間中に自分が打ち込んでいくぞと決めた、つまり自ら義務と定めたこととそれ以外の余白の部分の、そのバランスについて悩み、いってみればはじめて空中に放り出された雛鳥のような気持ちでいたわけです。(このいいかたはただしいのだろうか、イメージの問題です、空を飛ぶ鳥は自由に滑空しているように見え、また自由な存在として語られがちなように思いますが、空中にいる間、どこにもつかまることのできない、自らの力で飛び続けなければならないということ。)
2か月ほどたった今では、わたしの周りにいてくれるあらゆる人々との対話を通して、またZINE制作の作業でじたばたしている中で、自分のすすむべきルートがおぼろげに見えてきたような、風のつかみ方がわかってきたような、ともかく元気に前向きに、生活しています。免疫高めるためにニンニク(とブレスケア)をたくさん食べるようにしています。

さて、近況報告はこのくらいにして、そろそろお二人に応答します。
雨季さんが紹介してくださった湯浅政明『カイバ』、とても気になります。調べたらマッドハウスが制作してるんですね、ちょうど先月、はじめて『パプリカ』を観たところでした。それに記憶と肉体を分離できる技術、というのも興味を惹かれます、いや、ちゃんと言うと、その技術に惹かれているというのではなく、最近メルロポンティを読んでいまして、彼はデカルトの心身二元論で分離されてしまった心と肉体(モノ)の関係性を問い直し、身体をただの客体としてのモノなのではなく、それ自体世界の一部として感じ感じられる身体、主体かつ客体である身体として捉えたわけですが、そのことが頭をよぎりまして、ではその『カイバ』の中では記憶と肉体の関係性はどのように表象されているのか、記憶とは一見すると頭の中の、意識の領域のようであり、しかしもちろん肉体とも切り離せたものではありませんから、そのあたりはどうか、などと考えまして、『眼と精神』を読み終えた後で作品を視聴していろいろと考えてみたいなどと思いました。その時はぜひご意見をお聞きしたいです。
さて、メルロポンティからはこちらもつながるでしょう、次は香央への、“見ること・見られること”についての応答です。前回の私の書簡で提示した、絵画や像、そして少しずらして超自然的な存在から受けうる視線についての応答、非常に興味深く読みました。マネの「オランピア」と「ナナ」を鑑賞する際に我々鑑賞者が受ける視線について、そして私の個人的な(超自然的な存在の目線を感じ取った)体験について、“見られている”と感じるための「文脈上の条件」がそこではそろっていたのではないか、という応答は的確なもののような気がしています。まなざす側が「まなざす対象への文脈を作っている」ということ、そしてその文脈を一定数の人間が共有しうる条件がその環境にそろっているということ、そしてそこに、こちらからひとつ付け加えてみるならば、そこには“見つつ見られている”という感覚があるのかもしれないと思います。いま私たちがこのやり取りの中で想定として挙げたのは、絵画の中の人物がよこした視線と、神社の奥から放たれた(と私が感じた)視線ですが、どれもそこには私、あるいは鑑賞者がまず“見る側”であることが前提となっているはずです。見ながらにして見られているということ、つまりここで取り上げている“見られている”感覚というのは一方的な“見られている”ではなく、視線のぶつかり合い、視線の行き来そのものであって、我々はまず見る、そのなかで“見られている”という文脈を作っているのかなと、思いました。

 さて、このあたりで今回はしめてしまおうかと思います、お返事ゆるりとお待ちしてます。


よし野

最近聴いている曲:諭吉佳作/men「ムーブ」
最近見た映画:大島渚『戦場のメリークリスマス』

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