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彗星密室体験記

 そしてふたたび、日常に戻った。
 というのは昨今のコロナの状況の(おそらくは一時的な)落ち着きでコロナ前の光景の復活を町のいたるところで見かけるようになった、というのも少しあるけれど、今これを書いている私にとっては、つい先日まで参加していた展示「彗星密室」の会期が終わって、そしてふたたび〈わたしの〉日常に戻った、という意味の方が大きい。「思い起こせる記憶がある人は幸いかな。」、再びわたし一人の日常に戻り、思い起こすこの記憶のことを、忘れないうちに書き残しておきたい。

 はじめに瀬下さんからご連絡をいただいたのは10月7日の夕方ごろだった。今度レトリカで展示をやるのでそのためのワークショップに参加しませんか、というお誘いだった。もともとレトリカという団体や瀬下さんのことを存じ上げるようになったのがちょうど1年前ごろで、当時は恥ずかしながら深く存じ上げているわけではなかったのだが、この一年の中でレトリカや瀬下さんのご活動を知る機会は多くあり、個人的に非常に興味をひかれつつリアルなアクセスにまでは届いていないという状況だった。だからまず直接お誘いをいただいたことに驚きとうれしさがあり、バイト前に休憩室でひとり飛びあがったりしていた。拝読した展示の概要やそのテーマについても共感するところが多く、これはきっと自分の書き物や出版・編集の活動のためにもいい経験になると確信し「ぜひ参加させてください」、と力強く返答した。Discordに参加したら、何となく見知った人たちも参加していて心強くもあった。
 そしてその3日後にはもうWSのために高田馬場に向かっていた。小さなレンタルスペースに集合し、レトリカから瀬下さんや太田さん、そして他のWS参加者の方々と顔を合わせた。WSの名前は「密室交換」。それぞれにとっての「自分の信念や指向、方法、内面を少なからず形作っている、あるいはそれをよくあらわす本(したがって、あまり薦めてこなかった、薦めづらい本)」の候補を持ち寄り、その選書紹介エッセイを書く。しかもただ書くだけではなく、自分らしい場所(カフェ、公園、電車の中、等)に行って1時間ほどそこで執筆し、その後指示を受けて、執筆場所を他の誰かと交換し、向かった場所でまた1時間ほど執筆をする、というものだった。大学一年生のころからよく訪れていた高田馬場駅付近で思い出の場所はいくらでもあったが、今回はコロナ前にレポート執筆のためによく使っていた(/同じサークルでずいぶんお世話になった先輩がかつてバイトしていた)10°cafeを選んだ。足繫く通っていた2年前とはシステムや内装がずいぶん変わっていることに驚きつつ、そこで1時間ほど執筆し、その後電話が入って「ミスタードーナツへ」という指示を受け、ミスドに入ってポンデリングを食べながらまた執筆。
 すこし前まで誰かが書いていた場所で書くこと。いまは自分の思い出の場所でだれかが書いていること。実際に書いているときはいつも通り孤独で、自分一人の頭の中を整理していく作業なのだけど、目には見えない、人の、あるいは書く行為そのものの交差がそこにははっきりと感じられた。それが心地よくて、ミスドで一気に1000字書き進めていた。

 書くということはたった一人では完結しえない。外界の他者との邂逅と自己内部への引き籠りの、その往還の記憶が私(たち)を書く行為へと押し進める。のだと思っている。書く行為ではなくそれぞれの記憶が先行している。だから、物書きという人種がはじめにいるのではなく、あらゆる人が物を書きはじめる。繰り返すように実際に書くときは孤独だけれど、その行為自体は世界中に点々と存在している。それがリアルタイムで体感できたような気がしてなんだかほっとしたような感覚を覚えた。

 ふたたびレンタルスペースに戻った後は後日改稿して実際に栞に載せる完成稿を作るため、それぞれ書いてきた文章に対する感想を話し合った。感想をもらえるのはいつだって嬉しいものだ。最近は編集ばかりやっていたこともあってろくに自分の文章は詩も散文も書けていなかったが、「筆力がある」「この本を読みたくなりました」といったコメントをいただき、書くことに対するモチベーションが久しぶりにぐっと上がったし、改稿のためのアドバイスは、書き手としての自分にとってだけでなく、今年度から本格的にはじめた編集にあたって、作者とのやり取りをどう展開していくべきか、というところでも参考になるものだった。

 そういえば今更だが、今回の選書では馬場あき子『鬼の研究』を選んでいた。最近(といっても8月頃だが)読み返していて、初読時とは自分の中での解釈がかなり変わっており、当初は民俗学を専攻する学生として学びの対象としての”鬼”であったのが、いまでは馬場あき子が序文で言うところの「反体制的破滅者」としての”鬼”が境界侵犯的でマージナルな運動性を知らず知らずのうちに実践していた自分に重なるような気がしていた。栞には書かなかったが、最近現代魔女を実践する年上の友人と話す機会が何度かあったことも実は関係している。たぶん馬場あき子氏はそんなこと思ってもないだろうが、自分自身を現代の”鬼”に見立ててみることが、そしてそれを自分自身が書き発信することが、自分自身に、また読者に(どんな小さなものでも)意味を持たせうるのか、ちょっとした実験の機会でもあった。

 それから1週間と少したって、10月20日。設営のお手伝いに行った。祐天寺の町はシーシャ屋はちグラムに行ったことがあるくらいで、他のことは何にも知らなかったのだけど、下町っぽい雰囲気の場所もあればギャラリーも周辺にいくつかあったりして生活と文化の交ざり具合がほどよい街だなあと思った。
 その日は先日のWSでも顔を合わせた寄稿者の人たち、太田さんに加え、江永泉さん、レトリカの松本さんやジョージさん、写真家のよしやさんと顔を合わせ、来場者にお渡しする文庫型のパンフを作ったり、棚を設置したり、なんだか高校の時の文化祭準備のような和やかさで時が過ぎ、日が暮れていった。『鬼の研究』に実際に栞を挟み込み、それがほかの寄稿者たちの選書の間に置かれているのを見て、なんだかいつのまにか、本当にいつの間にか、いろんな人が関わる展示に参加させてもらっていたんだなと全体を見渡し、いただいたコーヒーを飲み干す。帰路、昭和通りの街灯がまぶしい。
 
 翌日からいよいよ会期が始まって、前半の週は土曜日だけすこし在廊した。松本さんが「なんだか漫画喫茶のようで」と話してくれたように、なかの雰囲気は設営日の最後の光景とはまた少し変わって、クッションがあちらこちらにあって、ゆっくり座って読んで回れるようになっていた。なんだかんだ他の寄稿者の栞を読み切れていなかったこともあり、その日はゆっくりと読んで回る時間に。以前から知っている田村さんや幸村君の選書と文章、小澤みゆきさんの選書『杜甫』とそのエッセイが特に印象に残った。時々、目の前で自分の選書と栞が読まれているということがあって、何となくそちらをチラチラ見てしまう不審者になりつつ、その日は混んできた17時くらいに退散。来週、編著担当した衣食住を探求するZINE『いねむりのあとで 1 住』を物販に持参しますね、という約束をし、昭和通りの光の中を帰った。

 そしてまた一週間弱がたち、会期は後半に入った。後半は時間があったこともあり、毎日どこかのタイミングで在廊していた。バイト先がそう遠くない東急沿線にあったことも大きい。初日は編著『いねむりのあとで 住』を納品し、さっさとバイトに行ってしまったのだが、その日の夕方ごろジョージさんから連絡がきて、心底驚いた。物販で『いねむりのあとで』がものすごい勢いでなくなっているので明日また納品したほうがいいかもしれないです、との連絡だった。勿論、自分が作ったものに対して、あるいは作者さんたちに対してそれなりの信頼をよせていたが、正直、私が主催しているイベントでもなく、またその場で手売りしているわけでもない状況で、初日で残り一冊みたいな状況になるなんてみじんも思っていなかった。持って行った分が最終日になってはけているといいな、と思っていたくらいだった。だから本当に本当におどろいたし、何より涙が出るほどうれしかった。バイトしながらすきを見て、うれしさをツイートした。その後もほぼ毎日納品し、最終日には納品分は全部ご購入いただくかたちになった。私の知り合いだけでなく立ち寄った時に出版プロジェクトつぎのバス(nemo/長濵よし野主催)のことを知って手に取ってくださったという方もいらっしゃったり、感想を送ってくださった方もいて、自分の信じるままにこの本を編集してよかった、と自信がつくような感覚があった。

 編著した本のことばかりでない。前半から、『鬼の研究』の栞への感想を送ってくださったり、ツイートしてくださった方がいた。田村さんや幸村君とは、個人的に別件でやり取りする中で感想の送りあいなどもしていて、そこでは互いを知っているだけに改めて互いのことを再確認・再発見するような面白さがあったが、はじめて知ってくださった方からのご感想もかなりうれしかった。何よりうれしいのは、栞の文章への感想よりも、「この本が読みたくなった」という感想だ。特に気になった本、として挙げてくださっていたり、後日来ていた方が『鬼の研究』買っちゃった、という名前のスペースを開かれているのを見たりして、自分自身が”鬼”に対して感じる愛情が、単なるエゴではなく、誰かにも接続・共有しうるものだということがはっきりと感じられて、今後もうすこし長い文章で、”鬼”とわたし、あるいは”現代の鬼”ということを書いてみたい、と思った。

 それに後半は会いたかった人とたくさんお話しできたのが本当によかった。前半は大分にいらっしゃったというせしもさんとも改めて長くお話することができたし、『いねむりのあとで』にも対談でご登場いただいたたかせさんともじっくり近況報告ができて、一緒にイベントしたりしましょう、という約束もした。また、以前イベントのお手伝いをしていた際にお会いしていた『かわいいウルフ』の小澤みゆきさんと再びお話しできたこと、以前お会いした時のことを覚えていてくださっていて、その同人誌の偉大な先輩に『いねむりのあとで』をご購入いただいたのも本当に本当にうれしかった。土曜日には大阪からはるばる、同人仲間の仲山遥那さんが来てくださって、一緒に近くのはちグラムにシーシャを吸いに行ったりもした。私も寄稿させていただいた仲山さん主催・編集の『アジール』も土曜日のうちに完売したらしい。自分にとっての”アジール”とはなにか、考える中で書き上げた5篇の詩。移動と境界侵犯のなかで発生するわたしのアジールのこと。思い入れのある冊子なのでこちらも完売は本当にうれしかった。

 全体を通してみると、後半は背中を押されるような出来事が多かったと思う。現在大学を休学をしていて、院に向けて勉強しつつ、自分に何ができるか、やりたいことは全部試す一年としてこの一年を過ごしていた。その中でもメインとしては主に出版プロジェクトつぎのバスの運営と編集に主に時間を割いてきたわけだけれど、この活動の自分の中での位置づけは、将来の進路のことも含めて考えてずっと迷っているところがあった。研究と実践、最近の自分のテーマとして掲げている言葉の一つだが、勉強と制作を含めたあらゆる実践をずっと続けていくためにはどうしたらよいのか、ライフワークとライスワークはどうしていくべきか、そしてもっと具体的で直近のことで言うなら運営にあたっての金銭管理といった些細な悩みまで、色々と悩みながら9月くらいまで淡々と作業をこなしている感覚があった。将来についても、ちょっと見ないふりをして安全な道をゆこうとしている自分もいた。
 ただ、今回の会期中に会った人たちから直接もらった後押しの言葉、たとえば自分の今やっている書き物や編集のことについてもっと自信をもってしっかりと自分の切り札にしていいと思わせていただけるような言葉、エッセイや作った本にいただいた反応や感想、それらのことを思い返すと、もうすこし自分のことを信じてもう少し勝負してやっていこう、と昭和通りの光が日ごとにまぶしくなっていくような気がした。自分ではまだまだ(精神面・知識面・技術面どれも)未熟だと感じていたけれど、自分のことをもう少し信じられるようになっただけでなく、自分のまわりにいてくれたり、自分のことを気にかけてくれる人たちに対して感謝があふれる日々だった。

 受付業務にも立たせていただいた最終日、引用・青空文庫のゾーンに置かれていた黒いノートを一冊いただけるというので、私はエミリ・ディキンソン『わたしは何者でもない あなたは誰?』を選んだ。私のTwitterのHNは”nemo”。ラテン語で”誰でもない”という意味だが、『日常的実践のポイエティーク』にも書かれていたように”誰でもない”は”だれでもある”に変換しうる。境界侵犯的な運動性の中で起こりうるその複数性は私そのものでもあるのだ。いいお土産ができた、会期は終わった。

 「世界に存在し続けるために/まずはひとり、彗星のようでいる/練習をしなければならない。」 

 そしてふたたび、日常に戻った。それぞれにひとりの日常に帰った。コロナ禍以前にはそこらで行われていた、複数の”ひとり”たちのひそひそとした集まりが、あの2週間にはあったと思う。あの日々、帰り道に音楽を聴くことがいつもよりすこし減っていた。イヤホンを装着しAppleMusicを起動することも忘れて、急に冷え込んだ空気を頬に感じながらその日にあったことを思い出しているとすぐに家に着いた。

 近寄っては離れ、ときに接触したりしながら過ぎてゆく時間。内と外の絶え間ない往還は、いまでは少し状況が落ち着いているものの、コロナ禍に入ってから確実に失われつつあったものである。その日々の再生産(復活とはあまり言いたくない)のなかで、自分のこれまでの歩みと、今現在のわたし(たち)と他者の足取りを今一度なぞるようにたしかめ、そして今後の行く先をぼんやり眺めた。

 一人の日常に戻って、わたしはまたバイトで忙しくしている。制作費と院への進学費のため、文句を言いつつも週4・5の労働にいそしんでいる。なんだかよくわからないクレームを受けたり、店長やバイトの人たちと冗談を言ったりしながら飲食店で接客をする。帰宅してまたこれを書いている。なんだかんだ2日もかかってしまった。今私はどこにいるのだろう。ほかの人たちは今。同じような空間で、全く同じようなメンバーで集まるということはきっともうありえないだろう。けれどきっとどこかで、それぞれには会うだろうし、それぞれに違う時間と空間をゆき、全然違う星の前でばったり出くわしたりするだろうと思う。その時まで。また。わたしも、あなたも。

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