解放のあとで 四通目 α

2020年6月28日

 近頃はますます夏に近づくようで、空はいつも昨日より高く、つい先日までやれ桜がどうのと言っていたような気がしていたのですが、夕方になってベランダに立ち、風が鼻先にふれると、こうして家にこもっている間にも季節は確かに進んでいたということにいまさらながら気が付く、そんな6月末、今日はまた日曜日です。

先週のえすてる氏の書簡、拝読しました。昨今の状況の中での「マスクをつける」ということから見えてくる、ストレスにさらされた共同体の要請する行動規範、つまり社会責任、ということ、SNSという〈剥き出しの生〉にいかに向き合っていくか、マジョリティのマイノリティに対する姿勢はいかにあるべきかという問い。非常に重要な問い、いままさにむきあうべき問題が多く提示されていたかと思います。今回の私の書簡では拙いながら、えすてる氏に提示された問いや問題点について、具体的には主にSNSという空間について、そしてマジョリティとマイノリティの在り方について応答をしていきたいと思います。

まずはおおきくコロナ禍についての所感から。
記憶を大まかにたどると、2月の半ばあたりから本格的に日本国内でのコロナの騒ぎが大きくなりはじめ、緊急事態宣言の発令、そしてその解除、という流れを私たちは経てきたわけですが、その中で大きく感じたのは分断の発露、といった所でした。この状況下で浮かび上がってきた諸問題、例えば自粛を求められ、大人しく家にいるということがすぐにでも可能であった人々とそんなことをしていてはすぐに金銭的に底が尽きてしまうため、まさに3密空間そのものである満員電車に乗って感染のリスクをおかしながらでも働きに出なければならない人々の経済的な格差、家庭内暴力被害相談数が増えたというニュース、「中国人お断り」といった飲食店の張り紙……。他にもさまざまな問題があったかと思いますが、これらはなにもコロナウイルスのせいではじめて出現した問題ではなく、コロナ禍のなかでより浮き彫りになってきた、これまでも影を潜めつつ存在していたのだけれど、この騒ぎの中で問題の輪郭が濃く浮かび上がり、より目立つようになった、ということが多かったように思います。また、この諸問題はテレビや新聞といったメディアでも報道されてはいましたが、幸村氏の指摘にもあった「SNSという〈剥き出しの生〉が支配する闘争領域」では、問題の当事者だけでなく、さまざまな市民の直接的な(つまり第三者の編集などのない)〈生の声〉が響き渡る空間として、メディアでは報道されないところまで様々な情報が飛び交い(なかにはまったくのデマもありすべてを信用するわけにはもちろんいきませんが)、問題や分断を多く浮き彫りにしていったかと思います。

 そんなSNSという空間ですが、やはり最近もっとも痛ましかったといっていいほど私の中で強く記憶されているのが、女性プロレスラーの木村花さんがSNSでの誹謗中傷を苦にして自殺された件でした。おそらく多くの皆さんにとっても強い記憶として残っているのではないでしょうか。しかしながらこの時、誹謗中傷の犯人探しがはじまり、誹謗中傷の加害者を誹謗中傷するといったことも多くみられ、また前後の事例として、検察庁法改正案についてきゃりーぱみゅぱみゅさんがSNSで抗議の意思を示した際にリプライとして投げられた誹謗中傷の数々と結果としてそのツイートを本人が消去するまでに追い込まれた件、芸人の渡部健さんの不倫行為に対する誹謗中傷の声が非常におおく上がったこと(もちろん私は不倫を擁護しているわけではありませんが)、自身に向けられた誹謗中傷を提訴した伊藤詩織さんに向けられたさらなる誹謗中傷、というように、悲劇はまた繰り返されてしまうのではないか、と思ってしまうようなことばかりが現状として立て続けに起こっています。
 SNSにおける誹謗中傷とは、例えるならば濃い霧の中で小石を投げられるようなことなのではないか、というのが私の印象です。どこのだれから投げられたのかも不透明で、かつ予測不可能で唐突に投げられて痛い思いをする、というような。もはや小石ではなく刃物といった方が正確かもしれませんが、そのような言葉を投げている人々も、霧の向こうに生身の人間がいる、という感覚が薄れてしまっていて、だからこそ鋭くとがった言葉を投げることがたやすくなってしまっている、ということのようにも見えます。霧の向こうで刃の刺さった人間から血が噴き出ているとしても、霧で遮られてその返り血は見えにくい、だから自分の加害性に気が付けないこともある、とも言えるのでしょうか。
えすてる氏が先週の書簡のなかで、「私は文学には目の前にいる人間だけでなく画面の向こう側にいる人間をも抱きしめることが出来る力があり、それは今のSNSを変えていく力があると信じています。」と書いてくださっていましたが、まさに霧にむかって投げやりに言葉を放るのではない、画面の向こうの、紙面の向こうの読者を想定することの重要性。言葉は時に誰かを抱きしめることも出来、また反対に傷つけることもある、無意識にでも、意図とは外れていても、他人を傷つける暴力になりうる、という意識の必要性。作り出されたテクストには必ず読者がいて(それは日記であっても書いた一瞬先の自分がすでに読者なのです)、書き手の意図がどんなものであれ、読み手が読んではじめて生まれる意味があるということ。私自身も、書き物をしていてそれがどのように受け取られるかをある程度は意識する必要があると思いますし、実際の対面での会話やSNSのメッセージのやり取りでも、それをだれがどのように受け取るか、という問題は、自分がどういった意図で書くか、話すか、ということとはある程度切り離して考える必要があると感じます。(もちろんこのように言っていても完璧には行かず、私も幾度も誰かを傷つけたことも、傷つけられたこともあるのですが……。)
このリレーエッセイも、開かれている以上はネット上のあらゆる読者が想定されるべきで、もちろん書き手は表現の自由をもってはいますし、書き手のかきたいことを書くことはもちろん大事なのですが、その言葉がどこのだれにどのように受け取られる可能性があるか、想定する必要があるのでしょう。しかしネット上に開かれてはいますが、この『解放のあとで』はリレーエッセイとして次の方にむかって言葉を投げかけていくスタイルでもあります。つまり霧の先に生身の人間が存在することを想定しやすい、受け取る誰かの存在は確かに目の前の霧の先にある、ある意味手渡しに近い言葉のやり取りでもあるため、書き手が霧の向こうの読み手を確かに想定しながら、えすてる氏がもう一つ、今必要とされる文学についてかいてくださったように、「『社会責任』や『世間でよいとされていることを』を解体」することで、この書簡のやりとりは、私たちのいまここに生きている空間と時間のなかで、多かれ少なかれきちんと意義を持つのではないか、と思います。
つまりはこの企画に参加できて大変うれしい、ということなのですが、同時に自分の言説の持つ責任を感じて、縮み上がってもいます。それでも、書く、目を背けず知る、語る、ということから逃げずにいたい、というのも今の私の素直な気持ちといった所であります。

そしてもう一つ、えすてる氏から提示されていた問題である、マジョリティのマイノリティに対する姿勢はいかにあるべきなのか、ということについて、最近考えていたことを書いていこうと思います。
先日、高校時代からの先輩とのメッセージのやり取りのなかで、アメリカでの黒人差別の話になり、“I have a black friend(so I’m not racist).”の論法の問題点について話すということがありました。つまり、私には「黒人」(ここにはほかの被差別の立場にあったあらゆる言葉(性的マイノリティ等)が入ることができる)の友人がいるから、差別をしたことがない、と断言してしまうことの問題。案外そのように発言する人が多いことに気が付いた、とその先輩はおっしゃっていて、たしかに、マイノリティや被差別の立場にある人が身近な友人だから、自分は差別をしていない(したことがない)、という気持はわからなくもありませんが(おそらく5・6年過去には私もそのように考えていた時期があったでしょう)、ここで問題なのは、自分の正しさを半ば無意識のうちに信じ切ってしまっているということではないかと思います。当然、被差別の立場の当事者にしかわからないこと、当事者しか語りえないことがあり、自分が当事者でない以上は差別をしていないかどうかを自ら決めることは出来ない。自らの言動が差別に加担しているかいないかは、実際に被差別の立場にある人の視点をいれないと、断言することは出来ない。先ほども述べたように、あらゆる言葉には受け手がいて、発信者の意図がどんなものであれ、受け手がどのように受け取るかで初めて成立する意味があるのです。それなのに、自分は差別をしていない、と自ら断言してしまうことの危険性は確かにある。
だからこそ今必要なのは「すでに理解はしています」と自信を持つのではなく、絶えず自分を疑い続け、アップデートしていく余地がないか考え続ける事、ではないでしょうか。

 今回は、昨今のコロナウイルスについての状況について、これまで書いてきてくださった皆さんの様には触れることができませんでした。まだまだ咀嚼しきれていないことも多く、不勉強なのがバレバレでお恥ずかしい限りです。ひとまず今回の私の書簡はこのくらいとさせていただきます。

 次の方にも自由な応答を求めますが、個人的には自宅にいなければならなかった時期の心情などもお聞きしたいなとも思っています。私にとって、家にいて毎日が変わらないという状況は、生きているという感覚を薄れさせるものでした。漫画『風の谷のナウシカ』の中にも「生きることは変わること」という言葉がありましたが、まさにその通りで、日々変化し続ける事、変化の中に生きることこそが、私にとっては生きているという感覚そのものだったように思います。皆様はあの期間、いかがお過ごしだったのか、気になるところです。

ではここまでにして、次はひと月後に。

水底燕

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