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往復書簡・ゆのみのゆ 七通目

雨季さんへ

 ふと、降りたことのない駅に降りたい気分になって、今日は、家からそう遠くもないけれど今までにきた記憶はない街を歩いています。駅から少し歩けばすぐに住宅街の、そして小さな神社がある街です。いまは2軒目のカフェに入りまして、そこではフランスのラジオが流れています。私が通っていた高校は、国際関係に力を入れているところだったので、かつて私もそこの授業でフランス語を学び、2年の終わりにはプログラムの一環で、10日間ほどフランスで過ごしたのですが、今では文法もだいぶ忘れてしまいました。大学院の受験も結局、語学は英語のみを見られるところを受けようと思っているので、早急に学習する必要はないのですけれども、やはり音を聞くと、再び学んで話したい、と思うものですね。
 わたし、机上での語学勉強はすごく苦手なんですが、話すのは昔から好きなんです。幼稚園の頃から通っていた英会話教室も、ずいぶん長く、高校の初めまで通い続けていました。それに、すこしありきたりかもしれませんが、フランスに行った時に、自分の言っていることが現地のフランス人の方に伝わった時のよろこびは、今でも時々思い出すものです。
 高校の時、帰国子女のひとや、そうでなくても圧倒的に語学ができる人たちが周りに多い環境だったので、すっかり自信を喪失してしまって今も語学に少しばかり苦手意識が残っているのですが、語学にもう一度力を入れようか、と思う本日であります。

 さて、いきなり脱線した話から始めてしまいましたが、前回の雨季さんの書簡での「自分の努力とは関係のないところでごく当たり前に享受してきた豊かさについて」という言葉が目に留まりました。ときどき私もよく考えることです。自分の生まれ落ちた環境が要因で、あきらめたことも、人を羨んだこともあれば、また、自分がそうと意識しないままに享受してきた豊かさもあるだろうということ。おそらくは金銭的なものだけではなく、そのひと自身を取り囲んできた集団の価値観、ということもありますよね。先週あたり、赤坂憲雄・藤原辰史による往復書簡『言葉をもみほぐす』というものを読んでいて、藤原辰史さんがこの社会の中のどうしようもなく存在する格差と、そのような社会の中で書いていくことやその言葉の力について考えていることを書かれていたのを思い出しました。赤坂憲雄先生は私が卒論を見ていただこうとしている先生、藤原辰史さんは去年の4月ごろだったでしょうか、「パンデミックを生きる指針」というネット記事を書かれた、農業史の研究者です。とてもいい本だったので、もしご興味があればぜひ。逆に、死刑制度や児童相談所関係の本は、私はこれまであまり触れてこなかったので、いい本を教えていただきたいです。


香央へ

 こちらは帰宅後に書いています。知らない町で日中を過ごして、その町にいるままに日が暮れてしまうとき、住宅街でシャンプーのにおいが流れてきたりして、このまま帰ることができないのではないかと思うことがあるのだけど、無事に帰りつきました。その町の小さな神社を、ただ通り過ぎずに、きちんと参拝をしたからかもしれません。

 まなざしに関して、応答ありがとう。「見ることは欲望することと同義」ですか。なるほど。特に、人間同士の間で交わされるまなざしについては、そのように言えるような気がします。そして「ボディポジティブ」という語に関連して、生身の自分と鏡の中の自分の間で交わされる視線の中で生ずるわたしはこの自分が好き、という思いが、他者と自分の間で交わされる「欲望する・欲望される」とのずれ・亀裂を引き起こし、周囲の価値観に引きずり込まれすぎないで自分を認められるようになるということ、個人的な話をすれば、いまではそれ相応に自分の見た目が好きでいられているのだけど、中学のころ、容姿をけなされるような言葉をかけられたことがあり、それが傷で自分に本当に自信がない状態で思春期を過ごしてきたので、昔に戻って自分にそのことを伝えることができていたら、と思うこともあります。

 そう、先ほど、見ることが欲望すると同義であるという話で、「特に、人間同士」という言葉を付け加えていたのは、無機物、あるいは超自然的な何か、といったものたちのことをふと思い浮かべたからでした。人間側から「見る」場合は、やはり視線の中の「欲望」がぬぐえないように思うのだけれど、反対側からしたとき、つまり無機物あるいは超自然的ななにかからしたとき、もちろんそこにある(と想定する)視線は、人間が勝手にそこにあると仮定したものだとはいえ、私たちがうける(と感じることのある)視線の中に欲望のようなものはあるか、像や絵画、はっきりと定かにそこにあるとは言い切れない何かからの目線に、なにが含まれているか、と考えてみました。わたしは、特定の、神や仏といった超自然的な存在・宗教的な超越者の存在を、本気で信じているわけではないのだけど、以前、とある神社の中で、何かに見られている、すぐにここをたちさらなければならない、という思いに駆られたことがあって、そのときはひとりではなく、ひとと一緒にいたのだけど、そのひとも同様の感情をその時抱いていたと後から聞いて、そこの「かみさま」のようなものが私を見ていたんだと考えることにしたことがありました。ずいぶん大人になってからのことです。宗教・民間信仰関連のことを学んでいるとき、さまざまなところで、神のような絶対的な存在は、ふれるべからずな存在とされていることが多いように思いますが、彼らが私たちを、仮に見ているとして、欲望にまみれた現世の人間とは隔てられた存在としてそこに欲望のようなものはないような気もすれば、しかしギリシャ神話なんかでは神が美しい少年をさらう話もある(後者は人間らしいキャラクターとして設定された神ですが)、少し話がそれてしまいましたが、そんなことをふと考えたりしていました。見る、ではなく、見られている、という感覚は、どこか、もうすこし様々な層をなしているような気がしてなりません。いずれまたこの話をしましょう。

2021,3,9

よし野

最近買った本:喜田貞吉『賤民とは何か』

今聞いている音楽:宇多田ヒカル「One Last Kiss」(明日エヴァを観に行くので)

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