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2021.11.18

 10時ごろはっきりと目が覚めたのに、一度お手洗いに行ったらねむたくなって、またすやすや眠ってしまった。夢にレヴュースタァライトの中で好きな星見純那ちゃんが出てきた気がする。最近、元気を出したいときはよく「Star Divine」を聴いている。「私は私を再び造り上げる」。「掴んでみせます自分星!」。

 復学後のために大学に提出すべき書類があり、それと関係があって金沢文庫に行った。京急線はむかし、高校の部活(中学からずっと剣道部だった)の遠征でよく乗っていたけれど、あんまり馴染みがない。快特に乗ったら新幹線みたいな4列シートの席でなんだかちょっとした遠足みたいだった。(私の隣の席にたばこの吸い殻がおちていて誰も座ってこない)
 郊外って、異郷だな、と思う。自分の住んでいるところは電車で1・2駅いけばかなりひらけた街に出れてしまうので、何となくそう思うのかもしれない。あるいは、その土地に染みついたそこに住まう人々の生活の匂いが、自分のそれとは違うことを瞬時に察知するからか。小さい頃友だちの家に遊びに行って何となく違う匂いがする、と感じていたのと近い気がする。でもそれだけではなくて、郊外というものは何となく旅行で行くような観光地よりも異郷な感じがする。作られた非日常ではなく、切実な日常の景色であることが、むしろその場所を異郷たらしめている。

 金沢文庫は駅から徒歩10分ほど。坂道が多いし、知らない住宅街だからなんとなくそわそわしながら進んで、体感ではもう少しかかったような気がした。学生400円の観覧料を払って中をざっとみてまわる。金沢北条家の保存してきた古文書、菩提寺である称名寺の壁画や復元の弥勒菩薩像。中が薄暗くて、人も少なかったので壁画や仏像は少し怖いような印象もある。でもそれがいい。博物館でこんなにぞくっとする感覚はなかなか味わえない。少し遅い時間についてしまったので閉館時間が近く、あまりしっかりみれなかったところもあったけれど、館内には一人だったのでみたいものはじっくり時間をかけて見ることができてよかった。生活と政治と信仰と学問と、それらが確かに、まさにこの場所で共存して生きていたことが体感できる場所だった。

 館を出た後は称名寺にも行った。紅葉がすでに始まっていて、銀杏の匂いがかなりきつくなってきている。池の真ん中の大きな橋を渡って一周し、そこらで遊ぶ子供たちの声を聴きつつ、ベンチで日が沈むのをぼんやりと眺めた。

 馴染みのない住宅街で日が落ちてゆくとき、なんとなくもう家に帰れない、手遅れのところに来てしまった、というような気持ちになることがある。今日は特に途中霊園のなかをとおりぬけてきたからか、その先まで通り越してもうその取り返しのつかないところで腰を落ち着かせかけたような気持ちにすらなる。
 気が付くと金沢文庫駅。途中横浜で本屋をめぐって『現代思想』のルッキズム特集、TOLTA『新しい手洗いのために』、沼野充義編『ロシア怪談集』(河出文庫)を買い、おなかがすいたので急いで帰宅した。

 帰って、夕食を済ませた後、親しいお姉さんと少しだけ電話をする。近況報告や最近読んだ本の話をしつつ、この数カ月の時間とその切実さのことを思った。切実、まさに切実な日々の中で、わたし(たち)はよくよくやっているのだと思う。最近金欠で水筒を持ち歩いてるとかね、そういうのも切実だ。でもよくやってる、生茶とかコーヒーとか買わずに。


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