解放のあとで 十六通目 β

2020年10月8日 朝四時

古谷みのりさんへ

ご無沙汰しております。予定より1週間程も遅くなってしまい、申し訳ありません。この数日は西洋美術史の授業のレポートでポール・デルヴォーの「公の声」という絵を論じたり、いくつかのこまごましたタスクをこなしていたりしていて、また体調も少し崩しがちになっておりました。季節の変わり目ですね、この書簡を読んでくださっている皆さまはいかがでしょう。私の周囲でも、わたしだけでなく、体調を崩している方が多いように感じます。まずは寝ること、たべること、身体をあったかくすること、そして適度に外の空気を自分にとりいれること、これが大事だなと思う今日この頃です。
道端ではよく彼岸花が咲いています。金木犀の香りもしてますね。肌寒くなってきて、羽織るものも長袖ばかりになってきました。晴れた日の午後には、空気の色味もなんだかやわらかなオレンジ色を帯びているこの時期には、キャンパスを歩くのが大好きなのですが、今年はあいにくそういうこともできず、また近頃は特に時間と(お恥ずかしい話、)お金に余裕があまりなく、家にばかり籠っていてもったいないなあと思っているところです。

さて、前回の古谷さんの書簡、拝読しました。カンタン・メイヤス―の展開する、特に「3、存在者の偶然性だけが必然的である」という内容の議論は、そこからメイヤス―が導き出そうとするのが、全く偶然に発生する「神」の出現、そして「正義の実現」「復活」といった希望的な未来なのだという点ふくめ、非常に新鮮に感じました。メイヤス―といえば、先日の『前衛アンソロジー2 解体する文学』の打ち合わせでみなさんと、前衛とは何なのか、という話をしていた際にも、関連させてお話しくださっていたことを思い出しました。特に印象に残っているのは「前」とは突然反転・転換するものだということ、後ろだったものが突然前になったりすることもある(あれ、間違っていたらごめんなさい)、という内容です。まさに偶然性の議論に基づく考えということでしょうか。今回前衛アンソロジーに寄稿する詩を書く際に何度か思い出していました。いつか詳しくお話うかがいたいです

せっかく『前衛アンソロジー2』の話になったので、今回私も数篇寄稿させていただくことになっている、“詩”について、幸村さんが書いてくださった「文学の輪廻 解体する文学の宣言」と少し絡めながら、書いていこうかと思います。

真に創造的なものを生み出すには、まず破壊から始めなくてはならないのである。


 これはその幸村さんの文章の中からの引用なのですが、なんともすがすがしい一言でした。創造のための、第一ステップとしての破壊。真の創造にあるべき破壊。幸村さんはこのなかで「みせかけのクリエイティビティ」が「ただ既知の領域を引き伸ばし、拡大させるのみ」にとどまってしまうことへの問題意識を提示してくださっていて、つまりは、既知、すでにあるもの、すでにしっているもの、を破壊したうえでの創造こそ、また「われわれに一貫性を与えている」名前という束を解きほぐしたうえでのクリエイティビティこそが、わたしたちの、すくなくとも前衛アンソロジー2での目指すべき方向であることを宣言してくださっている。

 ただ、解体すること、それはどこまでのレベルでの解体なのか、まったくのむちゃくちゃに木っ端みじんにしすぎてしまっては何が何だかわからないでしょうし、だれかに読まれる文章、として考えた時にはやはり既知の言語・文脈の中で模索して創造していく必要がある。ではそのなかでいかに既知の領域を解体した先の創造、というところに到達すべきか。
そんなことをかんがえながら、ここにもしかしたらつながるかもしれないとおもったのが、わたしが日ごろ、私が書き手として目指すべき詩の方向性、あるいはひとつ指針として考えている、わたしと、わたしでないものを融合させていく先で“ここではないどこか”へ到達する、ということです。ここには融合、という解体とは一見真逆にも思われる言葉がありますが、私の知覚した既知のもの、あるいは私の中から表出した感情が、まるっきり遠く離れたなにか異質な存在と隣り合わせになるとき、その出来上がったものはわたしたちの知らない未知の何かになるのではないか、つまり既知を解体するための一手法としての融合をここでは想定しているのです。既知をやみくもに破壊して残ったかけらのような全く知らないただ異質な何かといったイメージではなく、その詩のなかにたしかに既知のものや言葉はあるけれど、また、確かに日常の中に、私の中に、あなたの中に、ある一部が、その詩の中にもあるのだけれど、そうした既知が、それとは全く異質ななにものかと合わさった時に、全く違う風景としての“ここではないどこか”が見えてくる、そういった地点をめざしていきたいわけです。その意味でも、出発点は私の中にある必要がある。この世界を知覚するのは、そして詩を書くのは、まぎれもなくわたしであり、また読み手ともある程度言葉の意味や文脈といったものを共有できているのですから、わたしの知っている世界からくみあげてきたもの・言葉・感情と隣り合わせに異質なものを組み合あせた時に、読者にとっても既知の領域を解体したものになる、あるいは既知の領域から飛び出したものともいえるかもしれませんが、ともかく、その詩をよみおえた時に既知を脱したところにはいけるのではないか、と。
 はじめにいった、“ここではないどこか”とは、そういった既知を脱したところを想定しているのです。既知と既知の、あるいは既知の何かと通常は隣り合わないそれとは異質な既知のものの、異様な取り合わせによって、未知の“ここではないどこか”の風景が展開されてくる。そして、そうした風景を目の当たりにした時、わたしたちはすでに「解体」されていて、読み終えて再び顔をあげれば、いつも見えている現実の風景がすこしだけ揺らいでいるのではないか、とおもうのです。

また、ここはあくまで私の好みの話ですが、そうしてできた“ここではないどこか”から聞こえてくる声は、私のものではないだれか、あるいは私を含めた誰か達のものでありたいなと思います。少なくともそう読まれるものでありたいと。それが誰のものであれ、あるいは何人からのものであれ、それぞれの詩にはその詩を語る声が存在するでしょう。しかしそこでの語り手は、私だけのものであっては、既知の領域を脱することが出来ないばかりでなく、私の感情の押し付けや、誰かに過剰な寄り添いを試みるような、自立のできない詩になってしまうような気もするのですね。自立してただそこにある、また読者を少しだけ突き放して距離をとる様な、そんな詩でありたいなと思ったりもします。

 ということで最近は、具体的には、わたしが生活の手触りの中で知覚したものやその知覚から生まれ出る感情といった既知の領域の言葉と、本来は見知らぬ、本の中でしか知らない言葉や物語、古典、昔話、神話、無機質な案内文、といった、私の既知の領域からは遠く離れた異質な言葉や物語や事実を手繰り寄せようとしながら、詩を書いているわけですが、それは前衛アンソロジー2のなかでお目にかけるとしましょう。うまく行ってるかはわかりませんが、読後にすこしでも見えている世界に揺らぎが生じていたらいいなと思っています。

 いやはや、4カ月ほど続いてきたリレーエッセイもこれで終わりなのだそうです。最後の書簡なのに自分の話ばかりしてしまいました。第1通目を投稿してから、今に至るまで、変化はいろいろあったような気がするのですが、なんだか次第に異常事態であるという感覚が薄れてしまったような自分にふと気が付きます。書簡はここで終了となりますが、ウイルス禍はまだしばらく続くでしょう。もはや日常と化した異常事態のなかで、淡々と生活していくほかないのですが、いずれどこかの時点で(そのときにこの状況が終わっているとは限りません)、ふとこの書簡のやり取りを見返した時に、何を思うのか、いまそれを知るすべはないですが、そのとき自分の立っている地点が気になります。

 次の宛先がない、というのは寂しいものですね、しかし一度ささやかなお別れをいわねばなりません。書簡のやり取りの無いこの先の日々のなかで、皆さんの日常がすこしでもいいものとして続いていきますように。前衛アンソロジー2のなかで皆さんの作品を読むのを楽しみにしています。では。

水底燕

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