解放のあとで 八通目 α

2020年8月1日

ついに8月に入ってしまいました。今年の梅雨は恐ろしく長く、うつうつとした空模様の日々が続いていましたが、今日はからっと晴れて、天気予報を見ればしばらくまだこの晴れが続くようですから、これでようやく夏がはじまるということでよいのかもしれません。何をもって夏のはじまりとするか、人それぞれとは思いますが、なんともお気楽な私は、一週間ほど前に蝉の鳴き声を耳にした時も「ああようやく夏だなあ」と思い、夏至の日にも「夏だ夏だ」と胸のうちでつぶやき、はたしてどれが自分にとって一番明確なはじまりだったのか、閉塞感のあるこのような日々のなかでは、そのような答えのないことを考えている時間がとても気楽で愛おしく、いままで見向きもしていなかった道端の花ばかりスマホで撮り集めるのが最近の趣味となっています。

さて、先週の歌猫さんの書簡、拝読しました。差別について、また差別者に対して向けられる差別発言については無頓着であることがおおいのではないか、ということについて、言及してくださり、たしかにSNSを眺めていると、時折、誹謗中傷・差別的発言をした人には何を言っても構わない、ともとれるような態度の言動を発見してしまうこともあり、そこにあるのは建設的な議論とはいえず、ただただ互いへの憎悪で充たされるような言葉の応酬がつづいていく、そうした事態に目を向けてくださったのは、ここまでの書簡でも差別について何度も取り上げられてきましたが、やはりひとつ重要な問題提起だったかと思います。差異は存在するという事実の上で、ただ“差別はいけない”ととなえること、その場その場の差別問題については語られても、「差別とはなにか」についてはあまり議論されていないのではないか、という猫歌さんの問いかけ、私なりに考えるところでいえば、やはり、自分の心の内側にも、だれの内面にも、差別的な感情がないとは言い切れない、ということを思います。差別とはなにか、“差別はいけない”と唱えるとき、具体的に何を指して“いけない”と考えているのか、と自身に問うてみますと、社会的に差別問題として浮かび上がってくるときは、明確に表面化した加害性が議論の対象になっている、とでもいうのでしょうか、たとえばAという立場が、人道的に考えて不当な扱い(身体的・精神的暴力など)を受けているということ、そうした表面化した事実が問題として議論されていることが多く、内面的な差別感情が直接問題として論じられていることは少ないのではないか、と思います。そうすると、“差別はいけない”というのはとてもぼんやりしている言い方で、実際には差別的感情に基づいて表面化した加害性をもった言動、を直接議論していることが多いわけですから、そのような表面化した事実を指して“差別”とし、それが“いけない”ということを主張する言葉だと解釈しているのですが、やはりそのような表面化した加害の事実の発生する根幹には“差別的感情”があるので、そうした感情がそもそも“いけない”という意味としてもとることができる言葉でもあるかと思います。
ただ、人々にそれぞれの差異が存在する以上、私を含め、だれしも心の中に差別的な感情、なにかを蔑視してしまう感情は発生する可能性がある、認めたくないですが、どこかで無意識にでも、意識的にでも、そのような感情は芽生えてしまう、と思うのです。だから仕方ない、などというように、それを正当化したいわけではない、というのは一応断っておきますが、やはり心の内側に発生した差別的な感情が無意識的にであれ、意識的にであれ、言動として表面化した時に、誰かを傷つけることになってしまう、だからこそ、前提として、自身の内側にも差別的感情は発生するものだという認識を持っておくことで、たえず自身がどこかで無意識的にでもそれを表面化させてしまっていないか、意識することが重要なのではないか、と思います。 

 次に、猫歌さんが末尾の方で投げかけてくださった「今の情勢から思い、考えること」や「今までの過ごし方、興味関心」について少しばかり(、といってもこれはまだ未熟な思索段階ですので次の方への問いかけでもあります。)
 先日、大学の前期授業が終了しました。私自身も課題は残っていますし、まだ補講があるという方もいらっしゃるかと思うのですが、初の全面オンライン授業と、その他オンラインにて行われた身近なことについて考えてゆくと、やはりオンライン疲れというものを身にしみて感じた、ということがあります。すこし前から「大学生の日常も大事だ」、というタグ付のツイートがひとつのムーブメントとしてはやり始めましたが、やはりパソコンの前に長時間座り続け、課題を次から次へとこなす日々が続くことで、ストレスを抱える学生は多く、私もその一人でありました。授業と授業のあいだの時間の友人・教授との会話や授業中のちょっとした脱線からくる学び、キャンパスとその周辺の街歩き、サークル活動(私自身は地方交流の合宿をメインとしたサークルに所属していまして、今年は全くいけないことが決定してしまったので非常に残念でした)、など、失われたものが目につくなかで、次々と課題が積み重なり、大学にはいったのは勉強するためではありましたが、大学に通ってしたかったのは机上の勉強だけではなかったはずだ、ということを少しは考えてしまいますし、特に今年入学の1年生にとってはまだキャンパスに足をふみ入れられず、友人にも出会いづらいといった、まわりのまったくみえない状況は、苦しいかと思います。
またZoomを使った授業やサークルの会議もあるのですが、やはり、メインの講義内容、議題の解消、だけに時間が使われることも多く、その通信の目的が達成され、通信がぶちりと切れてしまったあとの喪失感、虚無感、また通信が上手くいかないときのどうにも聞き取りづらく、話もつたわらない、歯がゆい、いらいらとしてしまう感覚、全てが自室のなかで行われるために、なにかに取り組む時間とやすんでいる時間の境目がぼんやりとして、メリハリもつかず、ずっとやすんでるともずっとなにかのタスクにおわれているともいえるような感覚、こういった感覚が全体的な閉塞感をうんでおり、これらもストレスの要因ではないか、とおもいます。
やはり内と外の往還でえられる刺激こそが生活のなかで重要だったのだ、と痛感する日々です。

ただ、その一方で、未曾有の事態のなかで、どうにか適応していくしかない、という思いもあります。たしかに、大学生は、この状況でかなりしいたげられている面もあるとおもうのですが、この状況になってしまったからこそ、できたことやアイデアもありましたし、おちついた自学の時間は増えましたし、また、もちろんまだ改善されるべき箇所や批判すべきポイントはある一方で、大学生のこうした現状について、だれかを特別に責めることができないような気もします。
あのタグ付のムーブメントのような、声の発生は意義あるものとはおもいつつ、それがどこに向かっているのか、一種の不安のようなものを覚えるのは、なぜなのか。
こうしたことを最近は考えたりもしています。

みなさんはいかがでしょうか、次の幸村さんには、このことについて、考えていらっしゃることなどを教えていただけると嬉しいです。

また感染者がかなり増えてきたようで、また緊急事態宣言がでるとか、でないとか、という状況になってまいりました。わたしたちは解放のあとで、という題で書簡をおくりあっていましたが、この先の状況ははたして、またわからなくなってきたようにおもいます。

また1ヶ月後はどうなっているのでしょう。みなさんの書簡を拝読しながら、考えていければ、と思います。

では、また。
みなさんどうか健康にお過ごし下さい。

水底 燕

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