見出し画像

三宅陽一郎さんに本の感想、これからのストーリーについて聞いてみた。

今回は、ドラマプロデューサーたちばなが、AI研究者の三宅陽一郎さんに、自身の本『「物語」の見つけ方 ー夢中になれる人生を描く思考法』の感想を聞きつつ、「物語とは何か?」「これからの時代、物語の形はどうなっていくのか?」というテーマで対談した模様をお送りします。(対談動画もノーカットで配信しますのでよかったら、そちらもご覧になってください)

<三宅 陽一郎さん・プロフィール>
京都大学で数学を専攻、大阪大学(物理学修士)、東京大学工学系研究科博士課程を経て、2004年よりデジタルゲームにおける人工知能の開発・研究に従事。国際ゲーム開発者協会日本ゲームAI専門部会設立(チェア)、日本デジタルゲーム学会 理事、人工知能学会理事・シニア編集委員。
Twitter: https://twitter.com/miyayou
note : https://note.com/miyayou/
★三宅 陽一郎さんの著書ページhttps://www.amazon.co.jp/%25E4%25B8%2589%25E5%25AE%2585-%25E9%2599%25BD%25E4%25B8%2580%25E9%2583%258E/e/B075WYG3N6

たちばな やすひと(以下、たちばな) 今日はありがとうございます。同じタイミングで二人とも本を出しまして 、久しぶりにお話ししたいと思お時間作っていただきました。早速ですが最初に、私の本の感想などを伺ってもいいでしょうか?

三宅陽一郎(以下、三宅) 物語論は好んで読むテーマで、物語そのものを構造を分析したり、物語を対象化する本が多いんですけど、たちばなさんの本は物語がどこから自然に生まれるかという哲学的な本だと思いました。別の言い方をすれば、人間研究の本でもあると思っていまして、たちばなさんがたくさん考えたり、気づかれたりしたことが、凝縮されて詰まっているので、「たちばな哲学論」と言ってもいいのではないかと思いました。

たちばな  過分なお言葉ありがとうございます(笑)

三宅  それぞれの章の入る角度というのが絶妙だと思っていまして、本で何を書くかは自由なんですけど、問いの立て方やテーマの立て方の角度が良く、本質的なことをまっすぐ書かれていると思いました。人生の本であり、哲学の本であり、物語の本である。単に人を惹き付けるだけではなくて、人間とはや生きるとはということを考えて、だからこそこの物語は人の心は打つんだという展開が書かれていて非常に面白かったです。

たちばな  そう言って頂けて本当に嬉しいです。参考文献の一冊目は稲葉さんの本を書いて、二冊目は三宅さんの方を書いているんです。稲葉さんと三宅さんと3人でもよく話しますよね。この本に関してはお二人が書いていること、受けた影響とともに自分の視点で書き直している本だとも思っています。三宅さんの『人工知能のための哲学塾』は人間を理系的なアプローチで分析しながらも、哲学になっているということに感銘を受けています。

三宅  ありがとうございます。たちばなさんの本も、技術的な本に見えるが、太い部分は哲学的な気づきからきていると思いました。それは全てのトピックでいえて、「物語を作るベクトル」と「人間ってなんだろうという哲学的な問い」の思考がどこでも争っているかのような気がしました。人間を知ってから物語に応用していこうという本ですよね。まさに僕が人工知能でやっている、人間を知ることで知能を作ろうとしているのと似ていると思いました。たちばなさんは人間をサイエンスして物語をエンジニアリングする。そういう二つのベクトルがどこでも争っているのが面白かったです。

たちばな  確かにそうですね。 人を感動させるストーリーを作りたいという目的があって、それを実現させるためには色々なものが必要になっていきました。感動というものを知らなければならない、ストーリーを定義しなければいけない。そもそも人間のことを知っていないと感動させられるはずがないという当たり前の問いにぶつかっていったんです。もっと言えば、物語を作ることによって人間や自分のことがわかる。イメージで言うと同じ回路の上りと下りを両方使っているような感覚です。本の中では「動的平衡」という言葉を使っていたりしますけど、常に行ったり来たりの中で自ずと統合されて、一つのものを目指しているような感覚でした。

三宅  それは自分の人工知能的態度と類似するものがあります。 探求するというのと何かを作るというのは違うベクトルなので、どっちも持つのは難しいことだと思うんです。作るということによってまた知りたくなるっていうループですね。このループが見事にまわっていて、その裏側にある衝動をきちんとまとめているのはすごいなと思いました。自分の知ってることを書くってパワーがいると思います。自分自身を探求して、自分の中心へ降りて行かないといけないので、ここまで綺麗にまとめられたのは相当な労力とパワーが必要だったと思います。


たちばな  こんなに長い文章を書くのが初めてということも含めて大変だったんですけど、振り返れば充実した時間でした。最後の方はどっぷりと自分の内側に潜り込む感覚がありました。普段は、プロデューサーとして全体を率いる立場がほとんどなので、一人では完結しないことが多いです。大人数で作り上げる楽しみだったりワクワクがあったりするんですけど、本は一人で完結する。もちろん担当編集者やアドバイスしてくれる人がいて、完全に一人ということはないんですけど、これほどまでに集中して自分の内側に潜るということは初めてだったかもしれません。

三宅  そうして作り出したものが普遍的なものになっていて、この本自体に心を動かされると思いました。重要なことをブレずに真っ直ぐ的確に射抜いていて、それゆえにテーマも細かく解像度高く探求されていると思いました。だからこそこの分量が書けたんだと思います。これは普段から自分の考えを整理してないと書けないはずで、僕は知能の専門家なのでたちばなさんの知能の形に興味があります。

たちばな  本では、知能とは何かや人間がどどんなふうに物事を認識したり考えたりしているかなど、三宅さんから学んだこともかなりベースになっている気がします。どうやったら、感動や共感などの心のメカニズムを自分なりに言語化できるだろうかと悩みました。ストーリーのことをメソッド的に書きながらも、一番書きたかったのは「感動とは何か」ということだったのだと書いてる時に気づきました。

三宅  感動するというのはどういうメカニズムなんだというサイエンティフィックな話と、物語をこういう風に作ると感動のメカニズムを生み出すんだというエンジニアリングの話を両方から探求できる本だと思いました。人間のメカニズムを描き出しているという面でも興味深いです。

たちばな  ありがとうございます。一方では、ストーリーを論理的に解説してしまうことほど白けることはないとも思っているんです。稲葉さんがよく言っていますけど、真のストーリーとは、生み出すことによってかろうじて自分の中で均衡を保てているようなものだと思います。だから、計算で作っているストーリーなんて小さいものだというのは重々理解していながら、私の道としては、それを足がかりとして登っていくしかないと。
そうやって外堀を埋めていけばいくほど近づいていくようで、逆に核心はより遠くなっていく感覚があって。この感覚は三宅さんも知能を人工的に、ロジカルにアプローチしながら、本当の求めているものに近づいていけばいくほど見えなくなるということがあると思うんですが、どうですか?

三宅  物語のメカニズムというのは仕掛けるのは作り手なんだけど、受け手はその人自身の中からいろんなものを引き出して、引き出されて物語を作っている。受け手でありながら、自分の中で物語を生成していて、映画やドラマを観ながら、自分の記憶を呼び覚まして追体験してると思うんです。
つまり、作る側は完全な物語を書くのは不可能で、物語とは、ユーザーから何が導き出されるかを計算しながら作っていくことだと思うんです。人工知能もメカニズムとして作ることはできるけど、そこに最後欠けているものは、世界の流れ、生命の流れみたいなもので、そういうものはメカニズムの中では捉えきれないけど、実はその流れがないと人工知能は駆動しないんです。決して人工知能には含まれない、仕掛けられないものが実は人工知能が動かしているという不思議なメカニズムになっていると思います。人工知能のメカニズムをいくら探究しても、いつも一番大切な真ん中を流れている流れを捉えることも触れることもできない。風車を作っても風は作れない、世界からやってくる。砂場に運河を作っても、そこに流す水は世界からやってくる。ただその流れがいろんなメカニズムを駆動して知能を実現している。僕はそういうのを「中空構造」って言っているのですが、真ん中は実は何か流れているけど捉えることができない。周りにあるものはいくらでも仕掛けられるけど、本当に真ん中を流れているものはメカニズムでもないし、この宇宙の流れとしか言いようがない。物語というのも本当に真ん中に流れてるのはその人のパーソナルな部分だと思います。

たちばな  中空構造というのはすごくわかります。ストーリーは2時間の映画をもしかしたら3分で要約して話せるかもしれないけど、きっとそれでは伝わらないものがある。メッセージがあるとしてそれは端的に言うことはできるかもしれないけど、本当の意味で人に刺さったり心を動かすものにはならない。わざわざ2時間なら2時間にするべき余白を持って抽象的に届けることで伝わるというそこの部分が不思議で面白いからこそ尊いって思えます。

三宅   物語は体験を与えることだと思います。僕もエンタメを作る側なのでなぜわざわざ回りくどくしなくてはいけないかと思うんですが、実際に存在として体験してもらわないといけないからです。要約ではダメで、体験をすることで人は別の存在に変わると思うんです。そのためには2時間なりの体験をやってもらう必要がある。だから参加可能でなければいけなくて、あまりにも限定して入れないと困るわけです。自分として参加することで入り込んでまたこちらに戻ってくる。行きて帰りし物語みたいなことです。そういうことが物語の本質なのかなと思います。
知能の構造は自分自身なんですが、常に何かを生み出していて、真ん中にある流れはもう一つの存在でもあるので、存在としてのフローを変えてくれるのが物語。僕らが日常生活をしていても自分を世界に投げ出しているのは変わらなくて、世界に自分を投与してまた帰ってくる。その運動というのは毎秒毎瞬間行っていることで、物語の中に自分を投与してまた帰ってくることで、普段の還流の中では変化できないメタモルフォーゼの物語が与えてくれている。そういうものだと思います。

たちばな  面白いですね。三宅さんにとっては物語とかストーリーとはどういうものですか?

三宅   ストーリーは時間と深く関連していると思っています。我々は時間を時間として捉えることはあまりなくて、時間をストーリーとして捉えている。例えば「今朝どうしてた?」と聞くと、「朝起きて歯を磨いて、遅刻しそうになったから走って電車に乗った」と言うと思うんです。つまり自分でストーリーを作っているんですよね。でもそのストーリーはよく考えると正確ではなくて、廊下を歩いたとか髪の毛を整えたとかもっと他の要因もあったはずなのにピンポイントで捉えて一つのストーリーを作り出している。我々の人生も「今までどうだったの?」と聞くと、自分でストーリーを作り出す。それはいろんな省略が施されていて、そこで自分でストーリーを作っているということですよね。
我々はストーリーによって自分のアイデンティティを確立している。自分自身そのものがストーリーでできている。そうすると、同じ体験をしていても語り口が全く違うのは、自分の世界における立ち位置に対する、ストーリーの立て方というものがみんな違っているからだと分かります。
ある意味ストーリーは自分自身をアイデンティファイし続けるものでもあります。でも、災害など、自分にとって予想外なことが起きたり、自分自身ではコントロールできないようなことがあったりすると、自分のためのストーリーが作れなくなる時があります。突然、色々なことが起きて、今までのストーリーが通用しない時が来るわけです。そういう時に、人は色々なストーリーを求めると思うんです。小説を読んだり、映画を見たり、自分のストーリーを作ってくれる断片を見つけ出して、なんとか新しいストーリーを作ってその困難を乗り越えようとする。ストーリーは生きる力でもあって、ストーリーを組み立てないと人間は生きられないと思うんです。
そこは知能としても不思議なところで、知能は環境に対応して賢いことをしていれば生きられるはずなんだけど、人間はそれだけの存在ではないんです。この世界の中での自分の立ち位置や、生まれてから今までの時間というものに対して解釈をしたいわけです。流れがあってそこに自分がいる、という感覚を持ちたい、人は意味と実存を求める生き物なんです。そこで何を求めるかというと、ストーリーなんだと思います。ストーリーこそが、人間の記憶や、自分自身のアイデンティティーを最もよく保証してくれる媒体になっているんだと感じます。

たちばな  ストーリーが時間と深く関連しているという話は確かにそう思います。私の本は、西洋編とは書いてないですけど、自分的には西洋編なんです。これは三宅さんの『人工知能のための哲学塾』が、2冊目に東洋哲学編と続いていったことに重ねた言い方ですが、ストーリーをロジカルに探求していく作業はすごく西洋的だと自覚しています。終盤に、「問いを愛する姿勢」という言葉を出して、少し東洋編への布石としたのですが、その鍵は時間の捉え方にあると思っています。
そう考えるようになったのは、三宅さんも言ったように、人はストーリーを作りながら生きざるを得ないんだけど、同様にストーリーによって人間は苦しんでいるとも思うわけです。そのストーリーに囚われるベースを一方的に西洋的と言うのは正確ではないと思いますが、あえて二項対立的に捉えると、西洋は時間が経つに連れて進歩していくもので、東洋は最初から全部あるみたいな思想がありますよね。
だから、今回主に書いたストーリーメソッドって、最後に幸せになることを良しとする西洋的なものなのですが、東洋的なストーリーは何だとか、あるいは東洋はストーリーを否定するというのがどういうことかは、次の目的として見えています。何となくこの辺のヒントは稲葉さんのような生命そのものでもあると思うし、三宅さんにもこの質問をしてみたかったんです。

三宅  確かにストーリーに閉じ込められる苦しみもあります。良い大学を出ていい会社に入ってという、バブル的なストーリーの中に閉じ込められて、不満なんだけどこのままでいいと思って苦しんでいる人もいれば、そのレールから外れて苦しんでいる人もいる。どちらにしろストーリーに囚われて、本来の今という時間や今ここにいる自分というものを捉えきれなくなってしまう。成功している人でも、サクセスストーリーに閉じ込められてしまって、本来はもっといろんなことを楽しめるのに、サクセスストーリーの中の自分しか楽しめない、ワーカホリックみたいになっている人もいます。ストーリーにはそういう恐ろしい一面もあると思っています。
ではそれを東洋ではどのように捉えているかというと、凄く端的に言うと、仏教はストーリーを幻想と言ってしまうわけです。それはあなたの幻想で、サクセスストーリーは本来存在しないもので、あなたの頭が勝手に作り出しているものなんだと。ただ、そうは言っているけど、仏教はストーリーに価値がないとは言っているわけではありません。価値はあるけどそこまで執着してはいけないですよと言っている訳です。ある程度幻想の中で生きるのはいいんだけど、幻想だとわかっていないと苦しむことになるので、幻想を断ち切る刃を与えましょうというのが禅ですよね。だから禅は、「一旦社会的な立場を忘れてください」と言うんです。そういう自分を縛るストーリーは一旦外して、逃げようと思えば逃げられる、悲しい物語であっても、サクセスストーリーであっても、そこから一旦一歩外に出れるんだよと。これがなぜ重要かというと、村上春樹さんがほんの中で「ショートサーキット」という言葉を使っているのですが、狭いサーキットの中でずっとそこを周っている、それが現実だと思っているという言い方をするんですね。外に世界があることも気づかないわけですが、でもショートサーキットの外にもいろんな人がいるわけで、ショートサーキットも幻想なんだと気づけると楽になることもありますよね。いつでもそういう立場に立てるんだよっていうのを、東洋は提示しています。物語の中で役割を演じるだけで終わってしまうと、悲しくなってしまうということです。
もちろん、東洋と言っても色々あって、例えば孫子は「道」なんですよね。我々が創り出したものじゃなくて、自然の中に、人間の生きる道は全て指し示されているんだよと言っています。老荘思想というものです。アーティフィシャルな物語を作る必要はなくて、自然に則って純粋に生きる道があるんだという言い方をしているのです。文脈をどんどん作り込むということで人間をつくる、ある意味西洋的な構造ではなくて、全部それを取っ払った後にも、僕らを一番支えてくれるような力強い流れというのがこの世界にあって、我々はそういうものから外れることは決してないんですよ、というのが東洋的な考えであるかなと思います。
そういったものは、あえて映画にすることもできないし、映像にすることも難しいけど、物語を作る人は自分でそれを感じることができると思います。実際、エンターテイメント的にいえば、自分が作った物語によって、どうしても人を狭いところに導いて感動させなくてはいけない現実がある。ショートサーキットに呼び込んで人を感動させるわけですよね。でも、作り手側も漠然とそういうものの限界を感じていくので、次第に物語の虚構性というものに耐えられなくなっていくのだと思います。だからベテランの作家が最後は筋のあるようで無いものを書き始めるのはよくあることだと思うんです。仕掛けをするのに飽きて、オチも無くてクライマックスもない、でもそれが自然じゃないっていう考えもよくありますよね。
物語の中にもそういう思想がどんどん入ってきていて、老荘思想もストーリーに取り入れていくような取り組みというのは今後増えるかもしれません。その二つの立場は、良いバランスで全ての人に提供されるべきだと思うんです。要するに「消しゴム」と「鉛筆」みたいな関係です。書いてもいいんだけど、消せる。消してもいいんだけど書ける。鉛筆だけ持っていても、いずれ自分の頭の中を黒字で埋め尽くしてしまうので、いっぱいいっぱいになってしまい、それで窮屈になってしまう。消しゴムだけでも何にもできないし、鉛筆と消しゴムを両方持っているバランスが良いのではないかなと思います。

たちばな  鉛筆と消しゴムの例えがすごく秀逸だと思いました。私も、ストーリーはブラッシュアップすればするほど予定調和になると思っています。
構造的に人間の知能を相手にして、作り手として真摯にブラッシュアップしていくと、どうしてもそうなってしまう。つまり、予測と実測の差から感情が生まれて、2時間なら2時間の中で、どうやってその感情や期待値をナビゲートしていくかということで、一番多くの人に喜んだり、共感してもらえるようなものを作ろうとすると、予定調和的な平衡値に行き着くと思うんです。
一方で「今」を体験しているような、予定調和ではない瞬間を求められているのもわかっています。私もそういうものを生み出したいと思う。ドキュメンタリーであったり生放送だったり、そもそもの一回性をベースにしたものはそれが両立できる可能性もあるけど、場合によっては期待はずれということもあるし、その辺りは常に葛藤があります。
必然であり偶然である動的平衡というか、完全に予測不可能過ぎてもどう捉えていいか分からないし、程よく補助線を引かれていて、その中を必然と偶然が重なり合った「今」みたいなものをダイレクトに体験できているような、そういうものが大事ですよね。引いてあるレールでもあり、自分でもリアルタイムに作り出しているサーキットというか。

三宅   最近、脱出ゲームとかリアルゲームが流行ってるのは、その辺だと思うんです。完全に決められたゲームだと、必然が全てになってしまう。偶然ばっかりでも全然楽しめないわけです。リアルゲームって、いろんな偶発的要素と、主催者が仕掛けたいろんなストーリーとか謎解きがあって、そこにある程度楽しめるのはわかっているけど、そこの過程の偶発性を楽しむような、何が起こるかわからないけど、ある程度楽しむことが保証されている、そのバランスが絶妙なのかなと思います。

たちばな  今回、ストーリーと物語を定義上分けたんです。情報の連続性と定義すれば、多くのものがストーリーといえるんだけど、物語はそれ以上に人の生き様を感じさせるものと定義しました。「物語る」という言葉もありますが、現在進行形的な自分語りというのが、「ストーリー理論を人生に活かす」という試みの中でははまったんです。必然と偶然みたいなものを伴ったストーリーというのは、今回本を書くことで見えたものでした。それをゲームは最初から狙っているんだと思うと、ゲームってすごいなと思います。

三宅    ゲームは物語を生成する装置でもあります。例えば鬼ごっこ一つにしても、毎回ストーリーが違うわけです。いろんな展開があって、そこには無限のストーリーが発動されている。鬼ごっこも、ずっとどんな鬼ごっこだったかを書いていくと面白いと思うんです。いろんなストーリーをジェネレートする仕掛けというのがあるんですよね。
たちばなさんの分類は優れているなと思っていて、「ストーリー」は客観視しているところがあるんです。ストーリーというのは、公共性、反復性を持っていて、誰が体験してもいいわけで、物語というのは語源としても「物語る」ということで、一回しかないのかなと思います。物語るというのは一過性のものなんだろうなと。「物語る」って、自分の大切なものを相手に渡す行為でもあって、大切な人にしか「物語る」ってやらないと思うんです。ある意味、ストーリージェネレーターの人たちは、ストーリーを生成する場合もあるんだけど、自分の内的な、プライベートな部分を公共に差し出すような、ちょっと特殊なところがあると思います。受け取る側も、物語はちゃんと受け取らなければいけない。ストーリーは、今止めても明日見てもいいみたいなところがあって、明確に区分することは難しいんだけど、有益な分類だと思いました。

たちばな  ストーリーの作り方、ストーリーメソッドみたいなをものをいかに人生に応用できるかというスタートだったのですが、行き着くところは、小手先の技術ではダメだということになっていきました。本当の自分を知ることが、人生を物語にしていくために必要なんだという結論に自然となりました。

三宅    ほとんどの人が上手く物語れないんですよ。発言しようとしても順序がめちゃくちゃになったり、言いたいことを先に言いたくなったり。でもいろんな物語を受け取ることで、自分を代弁してくれるということもあると思うんです。自分と同じ時代の小説家って、自分の代弁者でもあって、普段うまく言えなかったことを言ってくれたということに感動することもあります。物語は、受け取るんだけど、同時に自分自身の表現でもあるという、ちょっと特殊なところがあると思うんです。物語を受け取ることが、同時に自分が発信していることでもある。なんで自分がこのストーリーで感動したかを言いたがるかって、それが極めて自分の内面にあるストーリーと近いからなんですよね。このストーリーを分かって欲しい、なぜならこの話は自分自身の話でもあるから。これがわかってくれるということは、自分自身をわかってもらえることでもある、というところがあるんじゃないかなと思います。

たちばな  その通りですね。僕にとっては、物語は自分が浮かび上がってくるもので、その中心にあるのは、「内的CQ(セントラル・クエスチョン)」という自分が心の底で望んだり恐れているもの。あるいはさらにその根っこにある「世界観」だと書きました。世界観とは、世の中が自分にとってどういう意味を持つのか?、自分とは何者かという「問い」そのものだと思っています。
その「問い」は簡単に答えは見つからないけど、その問いを愛し続ける姿勢こそが大切なものかもしれないと思っています。というわけで、この対話の最後に、三宅さんにとっての「愛すべき問い」を聞いて終わりたいと思います。

三宅  自分にとっては「この世界は何か」という問いが根源にあります。これは「人間とは何か」という問いと双対だと思っているんです。世界を知る事は人間を知ること、人間を知ることは世界を知ることでもあると思っています。昔は人間に興味なかったんですけど、世界を知ろうとすると、結局人間の問題に行き着くんです。それは人間を知ることが世界を知るってことだからです。でも人間を探求していくと、中空構造になっていて、人間の知能の真ん中には世界の流れが通っている。世界を見る中では、人間というものが、深く人間から世界を見ているので、二つの問いを行ったり来たりするつもりはないんだけど、なぜか二つのトンネルが深いところで繋がっていて、そこをぐるぐる回っているという感覚です。

たちばな  その問いを意識しだしたのはいつ頃なんですか?

三宅    中学の頃に、「世界ってどうなっているんだろう」とか「人間はどうなっているんだろう」と考えていたんです。学校の勉強もだんだん嘘っぽくなってきて、教科書に書いてある事って本当なのかとか、本当ってなんだろうと思ってきて。それから、哲学の「本当は何か」という探究をしていくんです。哲学に入った時は、二つの問いがあって、「世界とは何か」という問いと、「人間とは何か」っていう問いなんですけど。僕はサイエンスが好きだったので、「世界とは何か」という問いのたて方だったのですが、「世界とは何か」というのは、実は「人間にとって世界とは何か」という、「人間にとって」が省略されているんですよね。次第に、人間側も分からないといけないと思ってきて、自分にとって「人間の世界」も対象化されていき、なんだわからなくなっていきました。「世界とは何か」と「自分とは何か」の問いが、この二つはどうやって探求していけばいいんだろうとパニックになってしまったのです。そして、両方の探究を同時にやればいいというのが、人工知能なんです。自分以外の物を使って、「自分の作ったものが宇宙を認識する」ということを探求すればいいなって思いました。自分自身だと、ひたすらループしてしまうので、自分自身とよく似た知能を作ってから、その彼が宇宙を理解することはどういうことなんだろうというのを探求してるという感じです。

たちばな  その問いはどれくらいまで自分の中で達成されていますか?それは言葉にできるものなんですか?

三宅  哲学塾を始める前までは、何となくしか捉えていなかったけど、哲学塾を始めてから、「この辺かな」という手応えをだんだん得始めました。多分ここから二転三転するんだろうけど、手応えという意味では、中心的なところは捉えたかな、というのが哲学塾の感想としてあります。ただそれは直感的なところなので、これをきちんと定式化していきたいです。僕が捉えている世界の原理とか人間の原理というものは、ある意味正しいんだけど近似でしかなくて、定式化していくと、それが精密化していくだろうと思っています。簡単に言うと、ガリレオがつかんだ、「世界というのは数学的法則できている」という直感は、2000年ぐらい前、アルキメデスがつかんでいて、そこから2000年かかっているんです。私が今いるところは、まだアルキメデス的段階だなと思っています。人工知能という学問はまだ始まっていない、始まったばかりかもしれない。ここから100年も200年も探求していかなくてはいけないんだけど、その正しいアプローチにまだ入っていない。2000年前にアルキメデスが「エウレカ」と叫んで、水の中に入れると体積ってわかるんだ、比重がわかるんだみたいなことは発見している段階。それはまだサイエンスではないわけですよね。なんとなく世界に法則があるという事に気付き始めている段階が今の人工知能であり、哲学であり科学であるかなと思っています。
これをちゃんとしたサイエンスにする入り口まででも労力がいると思うんですが、何百年、何千年で、人が科学的に知能を探求できる入り口を作ろうとしている感じかなと思っています。だからまだ人工知能は存在しなくて、「人工知能」と言っているけど、言葉が変わるかもしれない。「知能学」とかそういうものになって、哲学と科学と工学の三者が交わるような分野がちゃんとした分野になっていく。そうすると今「哲学」と呼んでいるものが将来の「哲学」とは違うだろうし。あまりにも言語に依存しすぎているから。科学も、あまりにも人間と切り離しすぎているので、人間探求から遠ざかっている。工学も同じで、この三つが同時に展開する場というのを作ることによって、初めて「宇宙とは」とか「人間とは」っていうのがわかってくるというところですかね。

たちばな  ものすごいワクワクしますね。

三宅    これからむしろ長い探究が始まると思っています。昔、光合成って習ったじゃないですか、例えば「光合成とは何か」という本当のサイクルを書いたら、模造紙いっぱい化学分子みたいなので書かなきゃいけないんです。それと同じ話で、脳はこうだなってなんとなくわかっているけど、本当のメカニズムはまだ提出されてない。そんなイメージです。 人間の体だってまだ全然わかっていないわけです。レオナルド・ダ・ヴィンチが解剖図を書いたから人体がわかったわけではなく、あれは入り口なわけです。分子とか遺伝子が見つかって、今さらにその奥を探求している。そこで本当の医学が始まったわけです。
それと同じように、人工知能学は、レオナルドダヴィンチがまだ解剖図を書いたくらいです。まだそこにも至ってないので、それよりちょっと手前です。まだ脳の概略図なんてできていないわけですからね。それを細分化する技術も大体整ってきていて、概要もなんとなくわかってきて、もう少ししたら本当の知能のための学問が始まるだろうなと思います。問いなんだけど、問いに対する答えを作るための体制がまだ整っていない。人類はまだ整っていないんだという感じがします。

たちばな  その問いの中で自分はどこまでやろうっていう覚悟なんですか?

三宅  本当は全部やりたいけど、多分そのためには、1000年とか2000年とかかかると思います。レオナルドダヴィンチの時代から今までで何百年経ってるわけで、それと同じ話で。これから何百年とかかってしまうし、何百年経っても終わってないみたいなものです。自分の中では、本当は1000年分の仕事したいんだけど、どこまでできるのかなと思っています。入り口ほんのちょっとくらいまでしか行けないと思ってるんです。

たちばな  その視座にたどり着けるのは本当にすごいですね。

三宅    「ゴールが近い」と、近づいていったら、今まで歩いてきた1万倍ありますよって言われる。その繰り返しです。近づいたと思ったら、遠いことが知らされる。そういう感じです。

たちばな  それは私にとって「問いを愛する姿勢」そのものな気がします。

三宅  科学ってそういうところがあって、自分の代では終わらないことをやるというのがサイエンスだと思うんです。あと5000年くらいかかるけど、その重要な仕事をやりたいなという、未来との全体作業です。それはどの科学者もそう思っていると思います。知れば知るほどわからないことが出てくる。ニュートンも言っていて、自分は砂浜で遊ぶ子供みたいなもので、時々きれいな貝殻を見つけては遊んでいたと。本当の世界の謎というのは、目の前の海ほど広いんだっていうようなことを言っています。実際に、ニュートンの作ってきた力学は、その後何十万の物理学者が研究して、細密化してきたんです。それをニュートンは分かっていたわけですよね。知能というのはそうで、まだニュートンみたいな人は出ていないと言っても過言ではないわけです。基礎システムがないわけだから。基本方程式さえないわけなので。今みんなそのシステムを作りたがっているけど、作れていないという状況ですね。

たちばな  僕も物語を通じて、自分がどこに向かっているかっていうのがおぼろげに見えてきました。三宅さんが言っていたことに非常に近いこともあるし、そういう新たなゴールを、自分なりに、自分の表現の方法でやっていきました。また折に触れて引き続きこうやってお話しさせてください。 今日はありがとうございました。

三宅  ありがとうございました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?