機動戦士ガンダムSEEDにおける人間の『もの』化と自己を巡る戦い

ひとつ前に、ガンダムSEED世界で描かれた「愛」と「存在の肯定」に関する記事を投稿しました。

本記事では、前の記事をまとめるにあたり後回しにしたもう半分、本作における人間の『もの』化に関して現時点での考えをまとめたいと思います。
人間の『もの』化については、映画FREEDOMの小説版(下巻)と特典小説『二人の逃避行』で言及があるものです。
それが一体何を意味するのか、どんな状態を指すのか。先の記事で提示した「いる」=存在、「する」=役割、のモデルを用いて考えてみます。
今回はアスランとカガリを中心に、他の人物も交えてまとめています。若干余談も多くすみません。

【おことわり】
・機動戦士ガンダムSEED FREEDOM 映画の内容と小説上下巻のネタバレを含みます。
・入場者特典小説『二人の逃避行』の内容にも若干触れています。
・インタビュー等について認識違いがありましたら申し訳ございません。
・本記事中ではTVシリーズSEEDを「無印」、TVシリーズDestinyを「種D」と表記しています。


本題の前に 無印におけるアスランとカガリ

先の記事で、本作における「愛」とは「存在の肯定」ではないか、という考えをまとめました。
この定義に沿って見ると、無印最終話の「逃げるな! 生きる方が、戦いだ!」に勝る愛の告白が果たしてあるのかと思ってしまいますが。

アスランとカガリは無印46話『怒りの日』で「死なせないから、おまえ」「出会えてよかった」と言い合いダメ押しでちゅーするという、非常に分かりやすい描写で関係性が提示された二人であったと思います。
少なくとも弟たちよりは直球ですね。

この二人は敵と味方、「役割」に則った形で出会いますが、不時着した先が無人島であり、まずは各人の生命保護(=「いる」の保護)が優先される状況におかれます。
そこでなされた、捕虜なのに自由にする、撃ったのに手当をするような矛盾に満ちた行動に、お互いの人格を見てとった。役割以前に「いる」個の「存在」として、相手と対峙することが出来たのです。
容赦なく人に「役割」を被せてしまう戦争という大局のシステムの中にいるのは、個の人間であるとお互いに知ることが出来た。

数奇な運命で出会った二人ですが、死闘の後の保護など、巡り合わせが重なって心を通わせることになります。

余談で、先の記事でサルトルについて触れましたが、ウズミ様の言葉を受けたカガリの言葉、更にそれを受けたアスランの発言に、非常に近いと感じる言葉があったので引用します。

「もしも人類が生存し続けて行くとするなら、それは単に生まれてきたからというのではなく、その生命を存続させようという決意をするがゆえに存続しうるということになるだろう」(サルトル「大戦の終末」(『シチュアシオンⅢ』所収)渡辺一夫訳)
参考: https://mag.nhk-book.co.jp/article/21259


『もの』化に関する作中描写

今回考える本題、人の『もの』化について。
まずは作中で言及があった場面を振り返ってみます。

映画FREEDOMの小説版下巻では、ファウンデーション軟禁時におけるオルフェとの口論(暴力による押し倒し含む)を通じ、ラクスがファウンデーションから期待されていたものに行き着く描写があります。
「(前略)彼らが勝手に決めた役割を、言われるがままこなす『もの』
それが彼女に期待されていたこと。そこに自分の望みや心は存在しないもの。
また、自分が今まで「役割」として引き受けてきたものも同じであった、とここで気付きます。

特典小説の『二人の逃避行』でも、人の『もの』化について言及があります。
作中で、首長という「役割」に縛られずにひとときだけプライベートな時間を過ごしたい、その望みを伝えたのに叶わなかったカガリ。護衛のひとりにはわがままと言われてしまい、その言葉に反発を覚えてアスランはカガリをその場から連れ去ってしまいます。
人は”もの”ではない。役目に縛り付けて心を殺すことなど、誰にも強制されるべきではない
これが彼の述懐です。(そして私有地に入ったり壁を走ったりします)

これらの作中描写より、「役割」への閉じ込めと自由意志の軽視、身体の束縛、といったことが『もの』化の要素であると分かります。


人を『もの』的に扱うということ

前項を踏まえた上で、『もの』化とは言ってしまえば何なのか。
ここで、前回の記事で書いた、人間の側面を「いる」=存在、と「する」=役割、に分けるモデルを再提示します。

  •  「いる」=存在:生命そのもの、身体、人格

  •  「する」=役割:その人が他者に求められて行うこと、能力や価値に基づいてなされるもの 

存在とは個人に基づくもの、役割とは社会的なもの、とも言えるかと思います。

そもそも意志や他人の希望とは関係なく「生まれてくる」「存在する」ものが命です。
生まれてきた、ただあることを肯定されるべきもの。
人格や個人の願望を持ち得るもの。
そういったことを無視して、背負わせた「役割」だけを「存在」に期待するような態度が『もの』化ではないでしょうか。
先のモデルを用いるならば、次のように言えると考えます。

  『もの』化=個人の本意を無視した「存在」と「役割」の同一視


デスティニープランと『もの』化

本来的には、ただ「生まれてくる」「存在する」ものが命です。人間です。

種Dでデュランダル議長が提唱したデスティニープランは、生まれて在るだけの人間を遺伝子により選別し「役割」を割り振る時点で、そのひとがただ「いる」だけのことを許さない思想と言えます。

生まれた命は他人に吟味されて「役割」を与えられる。
「存在」は「役割」と同一のものとみなされる。
そこに個人の希望や意思の介入はない。
デスティニープランは、生きる人間すべてを『もの』化する政策と言い換えられるかもしれません。


またデスティニープランとは、「公平で平等、争いのない社会」というエッセンスを取り出した上で極端に言うならば、遺伝子を利用した社会主義国家化とも読み取れます。
この現実において世界初の社会主義国家が誕生したのも第一次世界大戦後でありました。
ガンダムSEEDはやはり戦争の物語であるのです。


「役割」も人間の重要な側面

前の記事も含め、「いる」=存在、に偏重した形で人間の側面を書いてきましたが、「する」=役割、も人間を形成する重要な要素です。

人間は社会的動物です。
「する」=役割をこなすことで、他人から評価される。実績を認められる。
自分は誰かに必要とされているのだと、精神的な満足を得ることも出来る。
ただ「いる」だけでは得られにくいものを、人間は「役割」を通して獲得できます。

アスランは種Dの序盤において、アレックス・ディノという偽名を使ってカガリの護衛をしていますが、世界情勢の悪化、そして自分はこのままで本当にいいのか? という自己問答もあり、彼はプラントに向かいます。

護衛とは、「存在」を守るもの(命の保護)です。
これは他の人でも代替可能なことでした。実際に無印ではキサカ一佐がカガリの護衛の任に就いていました。
彼女に実権がないことも相まって、彼は自分がその「役割」をすることに疑念を抱いてしまう。
無名のアレックス・ディノとしてはいち護衛であるが、元ザフトの赤服であるアスラン・ザラであれば可能な「役割」が他にもある……。
彼は「役割」への疑念を抱くと同時に、アレックスであるのか、アスランであるのか、「存在」の自己同一性の危機も迎えていたと言えるかも知れません。

社会的要請に基づいた「役割」をこなすことは、揺らいでしまった「存在」の意味を再獲得することに繋がります。
アスラン・ザラとして実行可能な「役割」を通して、アスランである自分の「存在」を取り戻そうとしたのです。

そうして、彼は自分に与えられた「資格と価値」を利用する形で、特務隊としてザフトに復帰を果たします。

……が、議長から彼に与えられた「役割」は、彼が本来望んだものとは違っていました。
与えられた「役割」のまま、友と、愛する者と対峙し、彼は迷いの路に入ってしまいます。


政略結婚と『もの』化

皮肉にも、アスランがオーブを発ちカガリの「存在」を守る者が消えて間もなく、彼女は自分自身を放棄する決断をしてしまいます。
それこそがユウナとの政略結婚でした。
オーブという国の変容、自身の「存在」の意味の問い直し……実権を持たない彼女は早々に追い詰められてしまい、その結果、そうせざるを得ない、と思わされるところにまで来てしまったのです。
と同時に、彼女がウズミ様から受け継いだ理念を突き通せなくなる、その意味合いも含んだ行動でもありました。

政略結婚はある意味で究極の『もの』化と言えます。
私人として自由にしておける筈の領域まで、婚姻という制度により「役割」で「存在」を縛りつけてしまう。
張本人の心情を慮ることなく、他者から見てシンボル的に扱われてしまうところもまた『もの』化の側面です。

カガリは本来、他者に自分を委ねるような人間ではありません。
むしろ、命(主にアスランの)を救ってしまえるほどに、強靭な意志をもって人を動かす力を持った人間です。
しかし、婚姻してしまえば、「存在」も「役割」もセイラン家に縛られてしまう。快活で自由闊達な本性は封じ込められ、彼女は名実ともにカガリ・ユラ・アスハではなくなってしまう。
政略結婚という『もの』化への決断は、彼女にとって一種の自殺とも呼べるものでありました。

手紙によって異常事態を察知した弟たちの計らいにより、カガリは結婚式でフリーダムに誘拐されます。
誘拐犯となったキラですが、実は彼自身かつて『もの』化に近い状態におかれていました。戦いたくないのに戦わざるを得ず、周囲が彼の能力を期待して戦う「役割」に閉じ込め、結局艦を降りることも出来ず……。
無印の砂漠編でも戦う「役割」に苦しめられる中で、カガリはキラの「存在」を見てくれた人物でした。

また、『もの』化=個人の本意を無視した「存在」と「役割」の同一視は、戦時においては非常に危険な見方となります。
「役割」以前に、その人物がどういう「存在」なのかを顧みることが出来ないと、相手を「敵」と「味方」の二分でしか捉えられなくなる。
そこに待つのは際限のない憎しみの連鎖です。

自らの命すら投げ出しかけ、身をもってそれを知るキラだからこそ、カガリに自分を棄ててほしくなかった、「そうするしかなかった」という言葉を口にして欲しくなかったのだと思います。
花嫁の誘拐は、無印における艱難辛苦ありきでなされたものなのです。


また、種D全体の話の流れとして、デュランダル議長がデスティニープランを提唱するよりも前に政略結婚の経過が描かれています。
デスティニープランで達成される『もの』化のなんたるか、それを引き受けてしまう苦難を、追い詰められてゆくカガリの描写で前もって示していたとも捉えられると思います。

加えて、プラントの婚姻統制もまた究極的な『もの』化であると思います。C.E.世界にはデスティニープランが提唱される下地が元々あったと言えます。


「役割」は自分で選び取るもの

ただ生きる「存在」の側面だけではない。「役割」は人間にとって重要。
であるからこそ、
  「役割」が本当に自分の望んだものなのか? 
  他人や状況に「させられている」ものなのか?

という問いかけが常に必要なものと思います。

無印の物語が示すとおり……
生きるために全く望まない「役割」を課せられてしまったキラが示す通り、望まぬ「役割」はその人の「存在」を追いやってしまう。
元々は守るために戦う「役割」を選んだ筈なのに、その内実が悲劇を生むものと知ったアスランは、自分の「存在」の無意味さを問うてしまう。

痛ましい悲劇の先、偶然の出会い、問いかけ、対話……等々を経て、本当に欲しいもの、今なすべきことを定めて戦った結果、無印における最初の大戦は最悪の事態を免れました。

「役割」は自分の意志をもって選び取り、それを為すもの。
望まぬことを「させられ」ては、『もの』化の路に入ってしまう。
『もの』化されては、抱いた意志は通し得ないのです。

実は『もの』化の末に、種Dでその結末まで描かれた人物がミーアでありました。
ミーアは、デュランダル議長が手駒とするために探し当てた人物です。
整形し(=身体と「役割」の同一化)、アイドルとしての立場、アスランに言い寄る「資格と価値」を手に入れました。
結末は言うまでもないですが、ラクスがその死に責任を感じ、映画FREEDOM前半の通り、彼女は他人の望んだ「役割」に殉じてしまいます。
ミーアからラクスへ、『もの』化の連鎖が起こってしまったのです。

自分の中にある筈の意志や望みは果たして何なのか。
自分のものなのか。他人のものだったのか。
自分の「役割」は果たして自分の望んだものなのか。
それを振り返ること、貫き通すことの難しさを考えてしまいます。


自分自身を巡る戦いの物語

種Dにおいてアスランとカガリは非常につらい漂流の道を辿ります。

力と立場を持ち「役割」を与えられた筈のアスランを待っていたのは、分かり合った筈なのに分からなくなった友、愛する者との対峙、デュランダル議長の陰謀。

自分自身を放棄した結果、国に「いる」ことができなくなったカガリは、受け継いだ理念、自分の「存在」の意味、課すべき「役割」を問い直しながら、自国が理念を放棄した結果を目の当たりにして泣き叫びます。

自分が本当にしたい「役割」とは何なのか。
自分が守りたい・貫きたい信念とはなんだったのか。

それは、自分自身を尊重する姿勢から生まれる自問自答です。
自分自身を尊重しなければ、真に納得のいく答えは出せない問いでもあります。

以下は、映画FREEDOMの小説版下巻、ミレニアムで演説するシーンにおけるラクスの述懐です。

これは自分自身を消されるかどうかの戦いなのだ。

無印においてはキラ。
種Dにおいてはアスランとカガリ。
映画においてはラクス。
ガンダムSEEDの物語は、自分自身を巡る戦いを描き続けてきたのです。

戦争とはそれ自体が人権侵害です。
戦いのなくならない世界の中でどう生きてゆくか、どう生きたいか。
自分はどんな人間なのか。
侵害される自分自身を守るためには、自己の自覚と尊重が必要であると考えています。


また余談ですが、命自体は生まれ方を選べない、その命が下す選択や意志は生まれ方には関係ないと示している点で、キラとカガリの双子設定は重要な意味を持つものと思います。


人間として他人を/自分を尊重すること

種Dでの苦い経験は、その後のアスランとカガリに絶大な成長をもたらすことになりました。
  水面下で暗躍する最強の(面白)男!
  自ら前線指揮を執り国難を乗り切った最強の女!
迷いの路で苦しんだからこそ、映画FREEDOMの二人の姿があります。

国民の絶大な人気を得た最強首長になり、結果的に国際社会でも力を持つことになってしまったので、アスハ代表の行く末が不安だと勝手に考えてもいましたが……

降りるときは自分の決めた通りにすっぱりと降りる。
今のカガリは迷いなくそれが出来てしまうでしょう。
自分を『もの』にしてはいけないのだと、彼女はもう知っています。
だから彼女はもう自分を棄てない。理念を曲げない。
ウズミ様の言葉の通りに、彼女は意志を受け継いだ。そして彼女も、意志を継ぐ者を育てています。
愛する国のため、そして彼女自身のため。

アスランはアスランで、自分が自分であるために「役割」が必要なことを自覚しており、だからこそ常に彼女の傍に「いる」のではなく、オーブ軍所属でターミナル出向という「役割」を担っているものと思います。
アスラン・ザラとして「存在」できて、今の「役割」に対する迷いや疑念がないから、今の彼は強い。

自分自身も相手も人間として尊重する。それが出来ているのが今の二人の在り方です。だからこそ、お互い物理的に離れていても問題ない。
映画FREEDOMのキャラクターアーカイブに掲載されている監督インタビューで、この二人は 「心で繋がっている」と言及されていましたが、その強い繋がりありきで今の姿があるのでしょう。

また、月間ホビージャパン2024年4月号の監督インタビューで、首長を降りたあとはカガリからアスランのところに行く、という内容の記載があって初読時は大変驚いたのですが……
カガリは自分自身の望みを尊重出来るようになったため、自分のために決断が出来る。そして、アスランは社会的立場、「役割」が必要な人間であるのだと彼女は理解している。だから彼女のほうから行くことを決めているのかも知れません。

自分自身と、お互いの在り方を尊重することが、今の二人の「愛」の形であると思います。