機動戦士ガンダムSEED FREEDOMで描かれる「愛」について。その他雑感色々

※本記事は2024/2/12に X(Twitter)@nem_shp のふせったーに投稿したものと同内容です。

今回のSEED映画とTVシリーズでは、ラクス・クライン コンパス総裁の描かれ方、特に内面描写が大きな相違点となっている印象ですので、その点や、作中で語られる「愛」に関連する雑感等々をまとめています。

約20年前にほぼリアルタイムでSEEDを浴び、沼り、拗らせ果てて疲弊し封印したオタクは、劇場版で頭を殴られた結果全ての泥が浄化され、そして超長文をしたためています。

【おことわり】

  • 機動戦士ガンダムSEED FREEDOM 映画の内容と小説版のネタバレを含みます。

  • 映画のパンフレットはようやく入手できたのでこれから読みます!!!

  • 各アニメ誌掲載のインタビューもこれから読みます、すみません!!!

  • TVシリーズを見直す時間を削ってこれを書いており、古の記憶を引っ張っている部分があるため、記憶違いがあれば申し訳ございません。

  • 上記同様の理由で、監督・キャストのインタビュー・舞台挨拶発言等も拾い切れていないため、認識違いがありましたら申し訳ございません。

  • 映画は現時点で4回観ていますが、未だに台詞が覚えきれないので間違い等ご容赦いただけると幸いです。

  • 文中では、TVシリーズSEEDを「無印」TVシリーズDestinyを「種D」と表記しています。

  • 割と言葉を選ばずに書いているのでお気をつけください。直情的な言葉のほうがSEEDっぽいかなと……


約20年知らなかったよそんなこと

完成記念イベントにおける監督の発言で、出会った頃から既にラクスはキラのことが大好きだったということが言及されているようですが(※1)、いや知らなかった……そんなこと約20年知らなかった……
なんかこうもっとふわっとしている印象だったんですが。恋人というよりも聖母ムーブというか。
そして今回の映画の小説版です。ラクスさんキラくんのこと「愛する人」と明確に言ってしまっていますよ(直接言葉を交わす機会すら奪われてるのに!)。
肩書はあっても権力はない、コンパス総裁とはそんな辛いポジションなのに、彼が感じている痛みに比べれば、と彼の身を慮り、帰還に合わせて休暇を捻じ込み好物を作る尽くしっぷり。

いや知らなかったよーーーそんなに好きだったなんてーーーー!!
自分のSEED観がコペルニクス的転回を果たすレベルでの衝撃でした。
TVシリーズにおいても、彼女に対する見方がが全く違ってきてしまう……。

ただ、小説版を踏まえて観た3回目以降の鑑賞でも、映画でのラクスの描写はそこまで重くない(描かれなかった部分が表に出てはいるが、TVシリーズから乖離した感じはない)と感じました。
多分それこそがそれが彼女の不幸な部分のなのだと思います。
抱えた思いの大きさ分、自分の感情を表現することができたなら、相手にも伝わったかも知れないのに。

でも相手を想う余りに、そんな我が儘すら彼女はしないし出来ない。
想い人を救うために彼女が取った行動は、自分の「役割」を果たすこと。つまり、コンパス総裁として事態の早期解決を目指すことであった。
その結果、「役割」を生の目的とするデスティニープラン支持者に嵌められて攫われてしまうとは皮肉なものです。

ただ、大きな想いの分だけの感情を表出しないのも、「役割」を果たす選択をしてしまったことも、元々彼女自身が人々に望まれた偶像であったことが背景にあるのかもしれないと思うと胸に苦しいものがあります。
小説版でも、人々が望む自分と一個人としてのギャップに苦しむ描写がありますし。

また、象徴であり偶像であった前提を踏まえれば、外からは人格が見えにくい存在として描かれるのが当然にも思えて。
TVシリーズ無印は一個人としてあるシーンも比較的多かった(家とか孤児院とか)ので、彼女の私人としての側面が出る余地もあったのですが。アスランには当たりがきついですし。
種Dは……うん……これでもストフリ引き渡すのためらってた気がしますが……。彼女自身がストーリー展開上のデスティニープランに乗っかってしまったというか、力を差し出す「役割」を果たしてしまった結果、人格が見えにくくなった面があり。
種Dは個人というよりは世界を描こうとした物語でもあったので、世界の側から見た彼女(の一側面)というものが強く出てしまった印象です。

愛とは一体なんだ、わからない……

監督インタビューにありましたが、映画のキーワードは「資格と価値」で、愛はそこから、と(※2)

ここで言う「愛」は個人的なもの、「資格と価値」は社会的なもの、というのが今の自分の解釈です。

婚約者(社会的立場によるもの)がありつつも、一般人に心を寄せていた(個人的な愛情)その事実を踏まえれば、確かに「愛に資格なんかいらない」をラクスこそ体現していたのかも知れない、とも。
あとオルフェの「おやめなさい、ナチュラルのような世迷い事を!」が滅茶苦茶気に入ってます。
お前の目の前にいるのは、命を救って休ませた筈の男がボロボロ泣きながらやっぱり戦うと訴えたために、犯罪者になってまでフリーダムを引き渡した女だぞ……

「愛に資格なんかいらない」については、映画のアグネスとルナマリアの問答でも表に出ていますね。
アグネスの思想はファウンデーションのものに近く、彼女の能力自体は価値あるものだけれども、そこに個人的な「愛」が付いてくるとは限らない、という。
あとルナが思った以上にシンくん大好きでびっくりしました。種D本編ではふたりとも辛い立場でしたしね……。

愛ってなんでしょうね。いや何度でも言いますが、ラクスさんキラくんのことあんなに大好きだなんて知らなかったよ。

愛が個人的なものであることを踏まえた上で、

  • TVシリーズ本編でラクスがした「行動」(感情ではなく)に表れたのは「無私の愛」

  • 映画で描かれたのは「私人の愛」

であるかも知れない、というところが今のところの自分の解釈です。
愛は愛でも出力形式が違っていた、という感じ。

無私の愛

「無私の愛」はあなたがそれを望むのなら、私はそれを認めましょう、そしてあなたを支えましょう、という「相手」が主軸となる性格のもの。
あくまでも相手を尊重して差し出す愛であり、そこに自分の感情は差し挟まない。
(あんなに一緒だったのに的ともいう、何故あんなに~なのかは後述)
これは、本当に良いのか問答しつつも、彼の戦う意志を尊重する、というところなんかに表れているかと。

私人の愛

「私人の愛」とは、相手の意志云々に関わらず、私があなたを愛している、必要としている、という「私」が主軸となる性格のもので、言ってしまえばとても身勝手なもの。
(去り際のロマンティクス的ともいう、これも後述)
相手軸か、私軸か、でその表現のされ方は異なりますが、一個人の想いという点では、確かに根を同じもとする愛なのではないか、という。

ただラクスは、物語中における愛の描き方を難しいものにする要素が多いんですよね。
彼女はこの世界における祈りの象徴でもあるのですが、それは偶像としての「役割」でもあった。
個人的な「無私の愛」すら「役割」であるかのように差し出すところがあるので、愛なのかなんなのか分からなかったんだこの20年間、という……

描写を見れば必ずしも「役割」に殉じている訳でもない(先に書いたフリーダム引き渡しもそうですし、艦出したりなんだりも他人に望まれてやったことではない)んですが、あとに強く残ってしまった印象がそうだったというか。

資格と価値

改めて比較してみると、オルフェの言う「愛」というのはやはり「資格と価値」を意味するのだと思います。
そう生まれたから、世界に望まれたから、彼女を自分のものにする資格があるのだ、という。
「貴方の愛するラクス・クラインはわたくしではありません」という台詞は、その事実を突きつけたもので。この言葉は、自分は「資格と価値」ではなく、一個人としての愛を尊ぶ存在です、という宣言。

もっと言えば、オルフェの台詞中の「愛」については、「ならばその愚鈍な愛と共に散れ」の愛が作中の「愛」の意味に近いのかなと。


それでもやはり、愛って難しいですね。
相手の選択を尊重することも愛の表れで、相手を愛するあまりに一個人の想いに則った行動も取れなくなる。
(そしてラクスが、社会的な「資格と価値」に則った「役割」を遂行しようとした結果が前述のとおり)

あんなに一緒だったのに、と他人への愛

無印の主題歌集の初限盤ブックレットに、See-Sawの御二方へのインタビューが掲載されております。
このインタビュー内で、「あんなに一緒だったのに」という曲に込めた思いは? という問いがあり、これに対し石川さん(See-Saw Vocal / 作詞)は次のように回答しています。

「自分を大切にする以上に、相手を認めてあげること」

つまり、自分と道を違えた相手に対しても、相手とその選択を尊重することなのかと。
共に在れずとも、言葉ひとつ通らなくても。「せめてこの月明かりの下で 静かな眠りを」という切々とした祈りだけはここにある。
自分ではなく相手に対する尊重、そして祈り。それはやはり「無私の愛」の在り方のように思います。

ちなみにレーベルの関係で無印主題歌集通常版には曲の収録すらありません、おのれー!!!(20年経っても消えない怒り)
なお、古の記憶ベースで書いているのでインタの内容間違ってたらすみません……

君は僕に似ている、と世界への対峙

今回の映画の内容を鑑みると、「君は僕に似ている」は願望止まりの曲なのだなと。
いや、むしろ願望で終わるからこそこの曲はこんなにも美しいのですが。

種Dから今回の映画までに流れた時間で、
「二人なら終わらせることが」出来ないまま戦って、戦い続けて摩耗して。
「笑って頷いて」笑うことも笑わせることも出来なくなってしまい。
「最後に心」まで失くしかけて。
……改めて照合してみると現実の非情さを突き付けられます。

それでも、映画の小説版を鑑みれば、議長の思想を否定したのちにコンパスを発足させた当時は、曲に歌われたような願望ありきでキラもラクスも道を選んでいるのです。
しかし世界はそう簡単には変わらない。人は極端な思想に魅せられる。
一個人の願望と現実の世界はどうあろうと乖離する。
あとに残るのは「世界」に対する無力感。
何もできない変えられないと、まるで袋小路に追い詰められたようになり、個人としての願望すら蓋をして……

だけど人生には「それでも」がついてくる!!(突然のアスランパンチ)
「それでも」の先にあったのは……世界への対峙ではなく、個人間の対話!

去り際のロマンティクス、と個人への回帰

先に書いたとおり、「あんなに一緒だったのに」は無私の祈りの曲であると自分は思っていますが、それと比較して「去り際のロマンティクス」は非常にパーソナルな望みの曲であると考えています。

今は共に在れずとも「言葉ひとつ通らない」あなたを想っているという態度から、「あなたへ告白します」「私は告白します」という、明確に相手を求め、相手が目前に居ることを前提とした行動に変わる。
ここに、先述した「無私の愛」から「私人の愛」へ、表出されたものが変わったような印象を受けました。
一個人のもの、愛という根は同じでも。

「去り際のロマンティクス」の歌詞で言うところの「歌う」とは、社会的な「役割」を意味していて、「最後に歌うよ」「誰かのために歌わなくていい」「最後のラストソング」とは「役割」を引き受けて生きるのではなく、個人に立ち戻ることへの示唆なのかなと。

タイトルにある「去り際」とは、人との別れというよりは社会的な意味合いのそれで、役割や立場から(一旦でも)降りることを意味しているのかと考えています。
(一旦でも、と注釈をつけた理由ですが、結局ふたりは役割を降りられないと思うためです。これは後述します)

そもそもキラが戦う「役割」を引き受けたのは、無印では友達を助けるためという個人的動機からであり、世界や立場や資格という観点はそこにはなかったのです。
ラクスはそんな彼を見て、立場をかなぐり捨てて力を与える。
個人に立ち返ったあたり、今回の映画は原点回帰と言えるのかもしれません。
(そして映画での殴り合いの問答も、結局世界とか平和とか云々じゃなくて女が一番大きなファクターなあたりは本当に原点回帰だなと思います)

個人の願望こそが一番強い、ということは

個人、という話で。
「やはりアスラン・ザラが最強か」のシュラの発言、前置きなしで出て来るので毎度笑いを堪えてしまうのですが。
今回アスランが色んな意味でとても活躍していたのは、あの時点において一番個人の願望に(欲望に?)従って、今のポジションを得て生きていたからなんだろうなあと。

親友に問題児の元部下2名を押し付け、元婚約者マウントを取り、一国の首長に遠隔操作させ、そして脳内で脱がせる。これが最強の在り方だ!!
個人の願望が一番強いならなるほどハレンチも攻撃手段になる訳です(?)

ハレンチ→遠隔操作判明→「本当に使えないな」→種割れ、「強さは力じゃない、生きる意志だ!(これ張本人がカガリに説教されたやつ!)」スパーン! の一連の流れが何処を切っても面白いのが凄い、やはり最強か。

シュラは戦闘データを研究した上で、戦士としてアスランを認め尊敬している(小説版より)ので、シュラが気の毒になります。いや最強ってなんだろう。

ただアスランに関しては種Dで散々漂流したという背景もあるので、結局その経験ありきで自分軸での生き方を固められたのだと思います。
(そして種Dで個人として描かれる余地があまりなかった人を、今回の映画で殴って吹っ飛ばす)

小説版で、ファウンデーション潜入時に「カガリの疑惑が当たった」と台詞があること、あと監督のTweetより、首長の側近ぽいこともやってるみたいですね?
出向先のターミナルの仕事から派手に逸脱して個人の願望優先しすぎな気も? 本籍はオーブ軍だからいいんでしょうか。

更に余計な話ですが、遠隔操作中の首長の反応が、ハレンチの対象が自分であると理解しているように見えて……つまりそれは、あれ? あれあれ? とよろしくない疑問が。
まあ、あの男は無印時点から裸を見ているので、それを踏まえれば如何様にも、はい。

役割と能力と世界

今回の映画のキラとラクスの話に戻ります。
無印後のように表舞台から去って静かに暮らすのがふたりにとって一番良いことで、お互いにそうあって欲しいと望んでいるんでしょうが。世界はそれを許さない!

自由は勝ち取るもの、というテーマに沿うのであれば、両人ともにお互いのフィールドで戦い続けるしかないのです。
ミレニアムのブリッジで完全に個人の願望ありきの演説打ちましたよね!?
僕は自分の手で未来を選ぶ、って啖呵切りましたよね!?

しかし、能力や立場(社会的要請)と人格、本来の願望(一個人としての側面)が全く一致していないため、社会に求められた仕事をこなすのみでは、そのうち自分の中の歯車が噛み合わなくなってくる。
悲しいことにキラもラクスも。
そのため、ふたりともデスティニープランが実行されて不幸になる人種なんですが、この混迷の中でも矛盾と葛藤にひたすら苦しむしかない。

アスランとカガリのオーブ組は、比較的社会的要請と個人の願望が噛み合っている印象があり。
だから立場と行動に対して、言葉にしがたい歯がゆさやもどかしさ、第三者から見たときの納得できなさが薄い(今は、ですが)。これはどこまでもまっすぐな首長の性格ありきのものと思います。

能力という話では、アグネスの言葉を耳にして、戦場にキラを送り出す自分は異常なのかと今更思ったり、止めてくださいとか言いつつ死ぬわけないと信じている(どちらも小説版より)、そんなラクスの無自覚の矛盾がとても良いなと思います。
結局彼女も彼の圧倒的な能力を信じてしまっているのです。それが彼を苦しめるものと分かっていても。早く自由にしたいと願っていても。

願望と現実の狭間で摩耗し、願う内面にすら実は矛盾を抱えている。
どう生きても苦しくなるふたりは、これからどうすればよいのでしょうか。
これに対する答え、というよりは苦しみとの付き合い方のような話になりますが、ひとつの解がエンディングでのラクスのモノローグの中にあると思います。(次項に続きます)

結局争いはなくならないし人はすれ違い続けるが

キラもラクスも、戦うと決めた以上は何かしらの役割から降りることは出来ず。片方だけ降りるなんてことはそれこそ不可能で。相手が戦っている以上、逃げた自分を許せないでしょう。

あの超早口ハインライン大尉を御せるのもふたりと館長しかいなかった……
ラクスのほうは自分が降りた結果を見せつけられて、今のポジションを選んだところもあります(小説版より)

そのため、キラとラクスのふたりは戦い続ける限り、何度だってすれ違いを繰り返すでしょう。
学習するしないとかそういう話ではなく、社会的要請と個人の内面が一致しない以上、「そんなふうにしか生きれない」んだと。
「笑って受け止めてくれるだろう」は望み過ぎ。だって「ふたりなら終わらせることができ」ないから苦しい訳で。

「それでも」はい、人生には「それでも」がついてくるんです。
言葉にして伝えないと分からないと、アスランに上から言われると若干カチンと来るけれども!
すれ違いを埋めるのはコミュニケーション。

話します。わたくしの中にある、沢山のちいさなことを」
話してください。あなたの中にある、沢山のちいさなことを」

「そんなふうにしか生きれない」ならせめて、これからのふたりがそう出来ることを祈ってしまいます。

ちいさなことを話す、とは、実は世界の在り方を変えることと共通したところがあります。

生きる上でのつまづきを取り除くのは小さな声と草の根的な動きで、良い変革は手の届くところから、地道に続く活動でしか達成し得ないのです。そうして少しずつ、社会全体が変わっていきます。
この20年、本当に色んなことが変わりましたが、良い変化をもたらしたものは結局地道なものの積み重ねの先にあったなと。

「ちいさなこと」という言葉こそが、彼らが望む自由、未来への道筋なのかなと思います。
(エンディングの情報量が多すぎて最後のモノローグがいつまでも覚えきれないので、誤記はご容赦ください……)

どうして地球に帰るんですか

中の人が言うようにエンゲージというかなんというか(※3)、殲滅後に迷うことなく地球を目指して砂浜に降り立つフリーダム、というあたりがツッコミどころに溢れてて笑えますが。

監督が言うようにプラントでの住居はキラとラクスの身の丈に合わない家だったんだろうと。資格とか立場ではなく、心情的な問題で。
居たかったのはふたり静かに過ごせる場所で、短い間ではあったけれどそう出来たのが無印後の海辺の住処だった。

個人としての願望に立ち戻った物語の先、ふたりの望みを象徴した場所がラストシーンになったのではないかと思います。

社会的立場を鑑みると、一組織の長と隊長が独断専行で艦に帰らない訳でギャグですけどね。逃避行かな……?

砂浜と言えば、殴り合いの前、キラが砂浜だったり教会を逍遥する描写、ただの現実逃避感も半端ないんですが、(捨てられたと思ってる)彼女の面影を探しているん……ですかね……?
ラクスは感情をおくびにも出さないところがありますが、キラも(よく泣く割にはそれほど、今は)顔に出ないので外から見てても扱いきれないだろうなとも。なんとかしてくださいよカガリおねえちゃん……。

まああんなに好きなのに、直球な言葉を使うことなく「わたくしの中にあなたはいます」の言葉を選ぶあたりがなんかこう、歯がゆいような思いもあり。
「去り際のロマンティクス」の歌詞を鑑みれば、ラストの「淡い安らぎ」ではなく「このもどかしさとこれから二人で生きる」の歌詞のほうが真実のように思えます。
それでも、お互いに私人として言葉を交わす間は淡くても安らぎが訪れるといいな、と。
少なくともラストシーンはふたりの望んだ安らぎの中にあったのではないのでしょうか。

その他色々細かい所感など

20年経ってSEEDは今この瞬間にこそ必要な物語になってしまった

「あなたを愛してもいない人に、決してあなたの価値を決めさせてはいけません」というミレニアムでのラクスの演説の言葉は、我々が今相対する現実の中で、個人がどう生きるべきかを端的に示しているようにも思えます。

言葉のリンチで人を死に至らしめるような、本当に悲しい出来事が現実では起きています。
それでもやっぱり死を選んでは欲しくない。あなたはあなたに心無い言葉を投げかける人ではない、他の人に愛されている筈なのだから、と。
しかし現実は残酷で、社会に生きる限りは誰がいつどんな形で排斥されるか分からないような、そんな世界になってしまっています。

我々が純粋にただ生きるために必要な言葉が、時を経て再会した物語から出てきた事実に、深い感慨と、そして現実への痛みの両方を感じてしまいます。

重すぎる肩書

総裁と准将、ふたりの個人的な面を掘り下げた映画において、この肩書だけが不格好に物々しい感じが個人的に良いなと思ってしまいます。准将については小説版でも言及ありましたね。
もう戦場を引っ掻き回す逸般人にはなれない。

プラウドディフェンダー

「ちいさなことを話す」というエンディングでの言葉は、地に足のついた結論で個人的にとても気に入っています。
残業理由が自分が乗ったプラウドディフェンダーの調整だと知ったら多分喜んでくれそうですね総裁。
いや、小説版では「開発中の追加装備の調整作業が遅れて」って残業理由伝えてましたね……。
すれ違いの残業が報われる瞬間! みたいなMeteor 、とても好きです(矮小化しすぎた感想)

相変わらず高機能すぎるペットロボット

トリィとブルーの2羽に量子ネットワーク仕込んでるの、これ絶対本人に言ってないですよね……
近付けば場所が分かるといっても補足範囲広すぎないか。
ラクス救出時、泣いてうずくまる青い子の方を2羽とも振り返ってて、それはやめてさしあげろぉ!!!

指輪どうしたんですか、捨てたんですか

エンディング、フリーダムが地球を目指す中、ラクスの指輪が宇宙空間に浮いてる描写あったけどあれどうしたんでしょうね。
預けた指輪をキラが返してくれて更に大切なものになったって小説版にあったじゃないですか。
いや、指輪の言葉をなぞって、わたくしは世界のものではなくわたくし自身のものなのですから、(母から)与えられたものではなく、選んだもので彼と大切な思い出を作るのです、という決意表明でしょうか。

コンパスの組織形態

シン、ルナ、アグネスはザフトからの出向でコンパスに所属しているようですが(小説版より)、縦割り横断系の組織が出向者で成り立っているあたり、なんか某省とか庁とか現実に思い当たる節があり過ぎるなあ、というどうしようもない感想もあります。
あと本所属の人が少なすぎるせいで負担が偏るのもあるあるですね。
「誰かがやらなきゃいけないんだー!!」
総裁の心痛や如何に。

オーブと教育

今回の映画で、カガリは秘書のトーヤに教育を施していますが、地球の島国であるオーブが中立と政治力を維持して国の危機を免れているのは、こうした教育ありきだと思うと面白いですね。教育も、地道な積み重ね、未来への道筋のひとつとして描かれているのだなあと。
また、帝王教育を興味深く見つめている(小説版より)あたり、やっぱり個人の能力依存のコーディネイターですね総裁、という感想もあったりします。

去り際のロマンティクスの歌詞について

映画の感想から思い切り外れてしまうのですが。
See-SawのVocal 石川さんは、個人としての音楽表現はSee-Saw活動時ではなく石川智晶ソロ活動以降に始めた、と話しておりますが(2019Liveパンフ、その他ライブ関連インタビュー等)今回の歌詞は今の石川さんとして書いた歌詞であるな、というのがファン目線での印象です。
歌詞内のキーワードを拾っても、石川さんソロ曲で出てきた表現が数多く登場していて興味深いです。
 (キーワード:主な楽曲名)
  本: my book
  水(水源):砂の上のドルフィン
  椅子: vermillion ロストイノセント
  (人の喩えとしての)花:  美しければそれでいい もう何も怖くない、怖くはない
  菩提樹:  涙腺
  鳥:  little bird
  もどかしさ:  TW
  私は~する:  私は想像する(楽曲提供曲)

※1
https://www.oricon.co.jp/news/2310027/full/
※2
https://mantan-web.jp/article/20240202dog00m200000000c.html
※3
https://www.gundam-seed.net/freedom/news/item.php?id=21233&offset=12&category_id=