8/17 三月ウサギのたましいと、演技する世界

・Mad as a March hare、三月のウサギのように。三月のウサギのように(三月のウサギのたましいだけを取り出して放置していたら、たましいは8月の日差しの底に沈殿したまま動かなくなってしまう)

・「三月ウサギ」という言葉が好きなのだけど、「ウサギ」という言葉をずっと見ていると、ほんとうにこれがあの丸っこくてかわいい「兎(うさぎ)」を表す言葉なのか分からなくなってしまう。「ウサギ」という言葉のその語感が、何だか恐ろしい怪獣やエイリアンのように感じられてしまって、現実世界の「うさぎ」との対応関係が曖昧になる

・だけど、言葉(音)と物(意味内容)の対応関係はどこまでも無根拠で偶発的だから、そういうことが起きるのは当然のことなのかもしれない。もちろん、言葉の語源、みたいなものはあるだろうけど、たとえば「犬」と「イヌ」という音の間には必然的な結びつきなんてなくて。この世界の無根拠さは日常生活の中に小さなひび割れとして存在し続けていて、そのひび割れの下には何もない(あるいは、きらきらとした瞳のまま落ちていくアリス)

・『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』を見た。三島由紀夫は、ユーモアある振る舞いで一定のラポール(信頼関係)を築いた上で議論しているのがいいな、と思った。あと、前衛芸術家の芥正彦という人は赤ちゃんを背負いながら登場してきて、そのまま赤ちゃんを抱いたまま三島と討論するわけだけど、とにかく登場の仕方が完璧だと思った。芥正彦は劇作家であるわけだから、それはある種の演出で、思えば三島も当時は役者としても活躍していたわけなので、あの場所は一つの舞台であり、死んでしまうときまで含めて三島は役者だったのかもしれないと思う

・シェイクスピアが「この世は舞台、人はみな役者」と言っていたように、私たちは日々何かを演じていて。それは、子どもであったり大人であったり会社員であったり警察官であったり、総理大臣だったりアイドルだったり母親だったり父親だったり。すべての役割は与えられた役で、誰もがそれを演じているわけだけど、人は演じているうちにほんとうに自分がそのような存在なんだって思い込んでしまう

・この世は舞台だし、社会のすべては演技の延長線上にあるわけだけど、それは別に虚構だからだめとかそういうことではなくて、何かを演じることのなかで「うそ」と「ほんとう」の境界が曖昧になっていくこと。あなたがある役割を演技するうちにほんとうになっていく感情とか、夢の中にだけある現実とか、そういうものが線香花火の明滅の中にあって、それはたぶん試験管の中に入れてしまうことができない

・むかし、あるフォロワーがギガファイル便で送ってくれた『書淫、或いは失われた夢の物語』を最後まで進めた。ほんとうに、「物語の数だけキミを愛していた」というキャッチフレーズがすべてを体現しているような作品だった。

・主に進めるべき物語は二つあって、罪の物語である「書淫」と、純愛の物語である「失われた夢の物語」を何度も往復し続ける中で、ゲームの後半で二つの物語がある一点へと収束していく、という流れで進んでいく。

・構造としては某〈三大電波ゲー〉の一つに近いけれど、仕掛けとしてはあのゲームよりも複雑だし、物語そのものに対するメタ要素がつよくて、「物語の数だけキミを愛していた」というフレーズの意味に気づいたときのエモーションがほんとうにすごい。

・ノベルゲームは「物語についての物語」みたいなこと(メタ演出)をやりやすい媒体だとは感じていて、そのことを考えるといつもライアーソフトから出ている、星空めておの「Forest」のことを思い出してしまう。
 黒いアリスと影よこたわる新宿、『ナルニア国物語』に『不思議の国のアリス』、『ピーターパン』にシェイクスピアとボルヘスまで、ぜんぶぜんぶを入れ込んで新しい世界を作ってしまった作品。忌むべきものはただ、物語の完成という死だけだから、いつまでも未完成のまま物語を紡いで。

・夜。駅のホームを歩いていたら、前から「IKEA」という文字が書かれたTシャツを着た人がやってきて、「この人を裏返すと家具になるのかな」と思う。そのあと、むかしバイトの面接で落ちたネットカフェにきたら、店員さんは少し声のかすれた女性と、手首にタトゥーのある女性の二人だったから、少し、そのことに物語性を見いだしたくなる

・空洞を潜り抜けるものとしての天使が、あなたの胸の中を通り過ぎて。それが夢だったと気が付いたとき、遠くの国で信号機があかいろに代わって、ほんとうの天使が飛び去ってしまう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?