2023.11.29 銀杏BOYZと大森靖子、少女の偶像について

 銀杏BOYZの歌う「女の子」というのは、一方的な偶像。それも、到達不可能な幻想、願望、理念みたいなものをすべて結晶させた偶像で、だからこそ『あの娘に1ミリでもちょっかい出したら殺す』では「僕にとって君は セーラー服を着た天使 色白で無口で どこか淋しそうな女の子」と歌われる。

 しかし、そんな偶像としての「天使のような」あの娘は「淫乱」で、「どこかの誰かと援助交際」をしているし、綾波レイが好きなあの娘は、「ハウスのDJ」につかまって、「便所でセックス最高さ」と歌われる。

 つまり、銀杏BOYZの歌っていることって、偶像としての少女のためにいまこの瞬間と、これからの人生のすべてを懸けようとするディオニュソス的な力そのもので、しかもそれは、その「不可能性」や「偶像の自壊」によってこそ膨張し、破裂していく。

 不可能というのはたとえば、「夢で逢えたら」がそうであるような、「君に彼氏がいたら悲しいけど「君が好き」だというそれだけで僕は嬉しいのさ」という不可能性。「偶像の自壊」とは、一方的に膨張して作り上げられた「天使のような女の子」という偶像が、「あの娘は綾波レイが好き」や「援助交際」によって破壊されていくということで、銀杏BOYZにおいては、一方的な偶像の形成と、その破壊がペアになるように運命付けられている。

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 これに対して、大森靖子はどうなのだろう。
 たとえば、『さっちゃんのセクシーカレー』では、「成長しないで さっちゃん」「茶髪にしないで さっちゃん」「彼氏つくらないで さっちゃん」「最強でいてよ 僕の特別」と、さっちゃんに「僕」の思うような姿でいてほしいという願いを吐露する。

 「さっちゃん」が東京に行って、「東京で髪の長い男とばっかつるんでいること」や、彼氏をつくること、髪を茶髪にすること、さっちゃんに関するそれらすべてが、「僕」にとっては理想のさっちゃんが殺されていくということそのもので、悲しみというよりも嫉妬に近いような感情が、ここでは歌われる。

 このとき、(あえてそういう曲を選んだというのはあるにせよ)、「さっちゃんのセクシーカレー」で歌われていることと、銀杏ボーイズにおいて歌われていることが、思っていたほどには遠くないかもしれない、と思う。

 むしろ、自分が他者に与えてしまった偶像が破壊されていくことに苦しむということは、銀杏BOYZの「援助交際」や大森靖子の「さっちゃんのセクシーカレー」に共通しているテーマだと思う。

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 けれど、もちろん相違点もあって、そもそも自分はずっと「さっちゃんのセクシーカレー」における「僕」を女性だと思っていて、女友達の間で、親友だったさっちゃんが東京に行って茶髪にしたり彼氏を作ったりしていることに対する複雑な感情を歌っているのだと思っていた、ずっと。

 ただ、いま銀杏BOYZと並べて聴いてみると、曲中の「僕」を文字通りに「僕」として読むことも可能だと気が付いてしまって、そうであるのなら、「天使のような女の子(これは銀杏BOYZだけど)」だったはずのさっちゃんが東京に行って成長して、茶髪にして、彼氏を作っていることに対して「僕」が、その恋に苦しみを感じるという曲として聴くことも可能で、大森靖子にもある種の「偶像」があるということだけは、たしかだって言ってみたりもできる。

 でも、それは、その「偶像」は、「かわいい」というピンク色の、色とりどりのラメで飾り付けられたかわいいと少女と天使の箱で、しかしその箱の中は「かわいい」の内圧で破裂寸前で、箱の中からは絶えず血が垂れ流されているような、そんな偶像だと思う。

 だから、銀杏BOYZと大森靖子の、打ち立てられる偶像の在り方は、とても異なっていると思う(ある意味では同じものを描いているのかもしれないけど、銀杏BOYZが外側から、その内側へと向かっていくように描くとすれば、大森靖子は一番内側の内臓の中のピンクから、外側へ外側へと向けて描いていく、歌っていくようなイメージ)

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