12/8 終点のないまぼろし

・ラブホテルの清掃をするバイト、複数人で客室の清掃をしていたら、テレビの大画面のモニターに突然アダルトビデオが表示されて誰にも止めることができなくなり、これは資本主義(あるいは生そのもの)の隠喩なのかな、と思いながらゴミを捨てて、濡れた浴槽を拭く。喘ぎ声、は電車が軋むときの音と区別がつかないし、私たちの瞳はひとつのスクリーンになる。


メリーゴーランドを止めるスイッチはどこですかそれともありませんか/中澤系


回り続けるメリーゴーランド、終点はどこにもないし、チャンネルのどこを押せば映像が止まるのかを私たちは知らない(そのスイッチは銃口ではないし、天国は大脳皮質のもっと奥の方にある)

・現実感がない、ということについて思う。それは、生が一回生を失い、すべてが再現可能な記号と表象の群れになった(と感じられるようになった)からかもしれないし、あなたや私の頭が少しだけ壊れているからなのかもしれない。でも、現実感がないのは何も特殊なことではなくて、むしろ私たちは生まれてきたその瞬間、いちばん最初から現実感なんてなかったはずだし、むしろ現実感なんてものがあるとすれば、それはあるひとつのまぼろしに付属する錯覚なのかもしれないと思う。私たちの意識なんて、ある精巧な機械から生み出されたまぼろし、スクリーンに投射された虚像なのだから。

・たとえば、私たちは「離人症」という言葉をあの湖から取り出してみることができる。それは解離性障害であり、いくつもの精神障害の症状でもあり、脳のある部分の神経細胞やセロトニンなんかの働きに還元することができる。だけど、それは何も説明していない気がする。離人症という言葉がいつできたのかを私は知らないけれど、恐らくそれは比較的最近できた言葉であるはずだし、脳のある部分の神経のその状態に「現実感の喪失」という意味づけをしたからそれは離人症になったはずで、症状は時代と絶えず結びついていて、絡まった電気コードが視界の端に見える。

・死にたい、と絶えず呟き続ける現代人と同じように、何百年も前の人たちだって、死にたいという感情を書き残していたことを私たちは知っているけれど「現実感がない」と言っていた近代以前の人をあまり知らない。そこには現実感があった、というより、現実感、なんて言葉が必要なかったのかもしれない。

・(退勤して、最終の列車の中でtaboo1、志人の「禁断の惑星」を聴く、ヒロネちゃんの「わたし、フィクション」を聴く、Momの「Momのデイキャッチ」を聴く。最近は忙しくて、ネイルを塗ることも本を読むこともできていないことに気づく、存在そのものの重さによって祈るための言葉はやがてほどけていき、遠くの国で、誰かの肌に触れた雪が溶ける)

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