3/8 シン・エヴァンゲリオン

・3月8日、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を見た

・「シン・エヴァンゲリオン 劇場版:|| 2021年3月8日 公開決定」という文字が書かれた白くて巨大なポスターを見て、「虚構が現実を浸食している」と思う

・イマジナリーな生と、リアリティのダンス。詩集を読むようにして映画を見たい、周縁を語りながら中心へ行きたい

・〈綾波レイ〉とシンジとの交流を見ていて、「名前をつけること」について考える。名前をつけること、それは対象を規定すること、対象について考えるということ。私たちは大抵、親から名前をつけられるけれど、もちろん「つけてほしい」と頼んだ訳ではなくて、それは現実世界の不自由な構造でもある

・だから、名前のない〈綾波レイ〉が、碇シンジに「名前をつけてほしい」と頼んだとき、それを素敵だと思ったし、自分も誰かに自分の意志で名前をつけてほしいと思った、信じられる誰かに規定されるということ

・アスカが〈綾波レイ〉に、あなたの碇シンジへの好意はNERVによって仕組まれたものだという話をしていたけれど、それはつまりスピノザということで、同じような構造の物語は他にもあるけれど結局、私たちの考えることなんて何らかの外的要因に依存しているんだから、それを自覚しているかどうかの問題である気がする

・「破」で真希波・マリ・イラストリアスというキャラクターが唐突に割り込んできたとき、彼女に対してあまり好感を持てなくて、それは「Q」においても同じだった。悪い言い方をすればある種の「異物」のような印象。だけど、その「異物感」にはたしかな意味があって、それはマリというキャラクターに対する納得感でもある。

・最後の場面、スーツを来て声変わりしたシンジとマリが結ばれ、実写の街がスクリーンに映る。物語の終わりと前へ進んでいく主人公を見て、晴れ晴れしさと寂しさを覚え、エンドロールが流れる。

・真希波・マリ・イラストリアス、レイやアスカという旧来の二項対立を破壊し、現実と向き合いながら前へ進んでいく結末を導くためのキャラクター。それは現実的なものの象徴(私小説的な読み方をするなら庵野秀明の妻である安野モヨコ)であり、庵野秀明の過去としてのレイやアスカとは明確に異なる役割を持って、物語を進めていく

・レイやアスカやシンジが他者を否定する、もしくは消極的であるのに対して、マリは会うたびにシンジの匂いを嗅ぐように、人間に対して積極的、純粋に好きだと思えるキャラクターなのであって、彼女がシンジを幸せにするということは、現実的であるものの勝利とも言えるかもしれない。

・あのラストシーンを見たときの感覚は、浅野いにおの『おやすみプンプン』を読み終えた後の感覚にも近くて、それはあの漫画において世界の終わりが乗り越えられて、運命やここではない場所を志向する愛子ではなく、現実と向き合う南条幸とプンプンが結ばれた、あの一抹の寂しさ。

・現実は虚構に勝てないかもしれないけれど、それでも虚構を信じ続ける生き物として、空を眺める、星座を描く

・エヴァの後ろや上に現れる光輪が好きだ。ぼくたちには人であることをやめてしまいたい、天使へと漸近したいという欲望があるから、人を越えたものたちのもとに現れる光輪を好んでしまう。

・鈴原サクラ、新劇場版で登場した新しいキャラクターだけど、碇シンジへの巨大感情がとてもよかった(ここで少し泣いてしまった)

・大人になったトウジやヒカリには赤ちゃんができていて、日々仕事に追われながら子育てをしていたわけだけど、自分もまた時が立てば、このような風景と出会うことになるのかな、と思うと、これはわたしにとって現実世界の予習なのかもしれない

・他、旧劇のオマージュ的な表現とか、ループ説が確定したとか色々あるけれど、そういう沼には深く踏み込まないで、夕暮れの渚をただ歩いていきたい

・こういうのは論理的な文章と感情的な文章の中間の文体で書きたいけれど、難しいね

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