11/22 おはようエーテル

・11月23日(つまり明日)の文学フリマ東京セ-14で頒布される、四流色夜空さん主催の合同誌「おはようエーテル」に『酸欠、ひこうき、飛べない翼』という短編小説(ポエトリー)を寄稿しています。

・最近は朝に家を出ては深夜に家に帰る、という生活が続いていてギターを弾くことも日記を書くこともできなくなっていたけれど、朝、家を出る前に大森靖子(単語を登録するのが面倒くさくて、ずっと「靖国」+「子」で入力している)の「ナナちゃんの再生講座」を感情になって弾き語っていたらやめられなくなって、そのまま遅刻してしまった。

・大物靖子は色々なこと(それは恋愛、女の子であること、かわいいということ、音楽のこと、あの街のこと、汚されてしまったもののこと)を歌っているけれど、自分が大物靖子を聴き続けているのは、彼女が「偽物であること」を否定せず、むしろ肯定してくれているからなのかもしれないと思う

・バイトの休憩時間の、みんながまだ動いていたりして手持ち無沙汰な時に、特に意味もなく荷物を触るなどしてやり過ごしていると、そのたびに大槻ケンヂの「新興宗教オモイデ教」の主人公が休み時間にひたすら水道で手を洗い続けていたことを思い出す。

・最近はなぜか複数のバイトをすることになって、労働に押しつぶされかけているような気がする。押しつぶされること、それは内部と外部という区別を失ってすべてが一つの外部(あるいは内部)になってしまうことだから、私は私の内部に息を吹き込み続ける、矛盾することを決してやめないこと、ねじれながら巻かれるひとつの二重らせんであること、虚構と現実が絶えず混じり合うこと。

・一年近く前に作った、「私はあなたになりたかった」というタイトルの個人誌のことを、宝物だと言ってくれる方がいて、どこかから光が差し込んできているような感情になった。

・文章というのは書いている最中だけは私のものだけど、書かれてしまったその瞬間から客体化され、少しずつ離れてしまっていくもので、そこでは、というかそもそもすべての感情と時間は一秒ごとに流産していく。でも、一つの小説を(短歌を、詩を、音楽を)書くことで、絶えず、ほどけていってしまう瞬間を、感情を、少しだけ留めさせることができるはずだから。

・今回の文学フリマでは欲しいものが色々売っているので、今日の11時くらいには京都駅とかいう謎の方舟に立ち寄って、夜行バスに乗らなければいけないのだけど、ほんとうに11時間で合っているのかよく分からなくて怖いし、なぜかメールを見ないまま何時間も経ってしまっていて(夜行バスは目的地に着かないまま座礁して化石になり、3千年後にはきっとすべてが快楽だけになる)

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