12/28

・日記を書くことは難しい、といつも思う。それは何かを書くこと(あるいは言葉)に意味なんてないことを初めから知ってしまっているからで、だからこそ、一秒ごとに失われ、崩れていく意味(今日降ったあのはつゆきのひとつが溶けていく速さ)を上回る速度で文章を書かない限り、そこにはたった一つの言葉さえ現れることがなくて。

・最近は本を読みたい、ということをほんとうに思う。11月くらいから、(金銭的に少しまずかったので)バイトを掛け持ちしてみたところ、週六くらいで労働をしては荒廃した部屋で気を失うようにして眠ってぼんやりとした意識のまま授業を受ける、という生活になり、無数の本(バタイユ「青空」、サド「悪徳の栄え」、穂村弘「短歌の友人」、ドゥルーズ「意味の論理学」、笙野頼子「金毘羅」、大江健三郎「個人的な体験」など)が読みかけのまま放置され、見たかった映画(「ひらいて」、「ラストナイト・イン・ソーホー」など)も見れないままになっているから。

・(その人のキャパシティにとって)過度な労働は、確実に、そして物理的に、精神的に、その人を文化から遠ざけていく。

・12月23日に終電の車両の中で財布をなくしたので24日に電話をして、駅まで取りに行ったところ、その帰り道で携帯をなくし、25日になってから忘れ物センターに携帯を取りに行ったら、忘れ物センターに忘れ物をして、また忘れ物センターへと物を取りに行くことになり、認知能力が終わっていることを実感し、そのあとラブホテルの清掃のバイトに行った。

・出勤して最初に入った部屋を見ると、12月25日だからなのか、浴槽にかなりデカい(ちょっとした軽自動車くらいの大きさがある)エアーマットが置いてあったのでウケてしまった。「面白い」というのがどういうことなのかは本屋さんでベルクソンの『笑い』を流し読みしてもよく分からなかったけれど、「デカい」というのはかなり根本的に面白いことだと思う。だからこそ、アリスは不思議なケーキを食べて大きくなるし、もしくは逆に不思議な小瓶の中身を飲んで小さくなる、過剰であること、欠如すること

・私は、大きくなりたいし、小さくなりたい。もっともっとたくさんのことを知りたいし、何も知りたくない。すべてになりたいし、この世界にあるものの内どれにもなりたくない。無限に「私」が大きくなったのなら、「私」は宇宙とか世界とかそういうものと全く同じ大きさになってしまうだろうし、無限に「私」が小さくなったのなら、「私」は限りなく消滅に近い瞬間を永遠に生きることになっちゃうかもね、と笑う

・最近は速さや時間について考えることが多い。花びらが落ちていく時の速度、落ちていくアリスの速度、屋上から落花したあの子が落ちていくまでの時間を無限に分割すること(あるいは地面に落下していく身体が壊れる前の1秒と壊れたあとの1秒)、生きていく速度、死んでいく速度、あの夏が終わるまでの速度、3秒間のうちに通り過ぎて消えてしまった感情。

・いつも自己を紹介することが不毛だと思うのは、自己の中のAという要素を紹介したのなら、Bという要素も同時に紹介しないとバランスが取れないし、さらにCという要素も紹介しないと……、というようにして無限に終わることがない。だからこそ、いつからかある一つの要素だけを引き伸ばして紹介するということ、存在しない私を紹介するということが唯一の方法になったし、それでいいんだと思う、きっと

・大槻ケンヂの「香奈、頭をよくしてあげよう」を久しぶりに聴いていて泣きそうになる。他にはずっと、睡眠の足りない頭でメランコリック写楽の「地球でねむらせて」とかリリイ・シュシュの「呼吸」、Radio headの「There,There」や相対性理論の「シフォン主義」、100回も再生されていないような誰かがおしまいのラップをしている曲を聴いたりした。

・ふと、「ジサツのための101の方法」や「さよならを教えて」と自分が同い年(2001年生まれ)であることに気づいて少しだけ嬉しくなる。2000年に至るまでの終末への近さからほんの少しだけあぶれてしまったこと、終末が終わってしまったあとに終末を欲望すること、過ぎ去ってしまったもののこと、ビニール袋に包んだ猫を高所から落とすことで生を実感している少女のこと。大槻ケンヂの「くるぐる使い」の「キラキラと輝くもの」に出てくるあの妹の胸元に取り付けられているはずの精神器具のこと。

・シオランの『生誕の災厄』の、「自己の最深部で、どうか神と同じくらい所有権を剥奪されたい、神と並ぶほどの悲境に落ちたいと切願する」という文章がずっと頭のなかに残っているし、「すべての時間がもうすでに過ぎ去っていて現在が存在しない」みたいなことを言っていたのも印象的で、時間ということについて考えないといけないような気がしてくる。でも、時間について考えている間にも時間が過ぎ去ってしまうから、今すぐ真っ暗な多目的トイレとかに行ってその中で花火をしたりした方がいいのかもしれないとも思う。

・(これはいま現在のことなのだけど)ほんとうに自分一人しかいない深夜(今はもう早朝)のマクドナルドの中で、もう何時間もworld's end girlfriendとかを聴きながら江川隆男の「スピノザ『エチカ』講義」を読み続けているし、朝になってから帰宅して少し眠って起きたらたぶん夕方で、そこから夜になったらすぐにバイトに行かないといけないことを思うと嫌になるし、またブロンをお守りみたいに飲んではバイトに行く生活になるかもしれない、と思う。でももう年末だからもう少ししたらいくらか安らぎのある日々を送れるのかもしれない。今年って終わるのかな、と思っては現実感がないな、と思うけど、もちろん現実というのは無数のフィクションをつなぎ合わせただけのものだから、それは当たり前なんだって

・神様はあの雲の上にいるんじゃなくて、私達一人一人、あの街灯とか音楽とか通り過ぎていく飛行機とか繁華街の光とか四条河原町の駅に咲いていた誰かの嘔吐物とかあの子が屋上から落ちていくときの空気力学とかそういうものの中にあって、すべての祈りが神様を駆動する、かみさまは駆動される、声はたぶん法則でしかなくて

・日記を書くということ、それは絶えずほどけていく時間そのものに対する、生きていく中でかつて大切だった何かが失われていくということへの抵抗でもあるから、多少は無理してでも続けたいと思う。

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