2022-02-06 完璧なフィクション、新しい天使

・はやく完璧なフィクションになりたいな、と思う。ついコンタクトレンズを付けたまま眠ってしまうこととか、お風呂に入る気力がいつもないこととか、通信が制限されていていつもノイズばかりを発しているスマートフォン(普通に自分が病気なのでブラウザのタブの数が500個くらいあっておしまいになっている)が応答しない数十秒とか、そういうことではなくてただ完璧なフィクションに、なれたらいいな。

・バイトが終わって気が付いたら早朝の4時とかになっていて、そこからいつの間にか意識を失って、起きたら時計の針がお昼の2時のところを指しているのが分かる。昨日の朝から外していない、つけっぱなしのままのコンタクトレンズの感覚が気持ち悪いけれど、今から外したって何も変わらないだろうから、目をつむる。

・布団の中に潜って、胎児のような姿勢をして眠る。目をつむっている間は世界が存在しないことをきみは知っている、布団の奥にはヤツメウナギの死体があって、私はそれをクライメイトや先生にバレてしまわないように教室の机の奥の方にしまう。
 そういえば小学生の頃、同じクラスの生徒の机の中に生魚が入っているという事件があったのだけど、あれは誰が入れたものだったのだろう、と思う。でも、もう今となってはあれがほんとうにあったことなのかも分からない。 
 あかしっく・れこーどに0.5mmのシャーペンですべてを記録していたあの少女はもういなくなってしまった、パウル・クレーの新しい天使はもうすぐ飛び立ってしまうし、歴史が進歩するほどに私たちの生活がよくなる、なんていうこともない。欲望と差異は無限に作られ続けるのだから科学は永久に進歩し続けるけれど、歴史とは絶望の積み重ねであって、それが極点に達したとき完全な静止が訪れる、静止画、みたいになりたい、でも、それはユートピアではなくて夕焼け空のあかいろ、あなたは忘れっぽい天使。

・なんてことを布団の奥で考えていたら(これは嘘で、ただぼうっとしていただけ)もう一時間くらい経っていて、時計の針が3時を指していたから、起きて、顔を洗う。ここにいては何もできない、と思って外に出る。頭の中には躁うつ病の資本主義社会と一回性を失って繰り返される空虚な祝祭、やわらかい幼児の爪が浮かぶ。

・喫茶店とかファストフード店にはよく一人で居座って、本を読んだり何かを書いたり、進めなくてはいけないものを進めたりしているけれど、営業時間が短縮されてしまって8時とかで閉まってしまうから、何も進めることができなくなる。誰が悪い、みたいな話ではないものの、この辺り、夜型の人間は損をしていると思う。

・高橋源一郎の『大人にはわからない日本文学史』を読んで、比喩について考えないといけない、という気持ちになる。高橋源一郎はまず、綿矢りさの『You can keep it』に出てくる「南の国の美味しい果物や世の中の楽しいことを全部集めてから木陰で昼寝を始めたような、幸福なレモン色」という比喩を挙げて、これをリアリズムを突き詰めたようでありながら、結果として空虚な領域(何かを言っているようで何も言っていない)に達していると指摘し、それは同時に何らかの意味を持っていると評価する。

・そして、同じく綿矢りさの「太陽を集めて元気の象徴のように膨らんでいる(綾香の)たんこぶ」という比喩を挙げながら、これも視覚的なリアリズムとしての機能はもう失われている「ありえない」比喩でありながら、その過剰な、「ありえない」比喩によって表現される「綾香」のみが、誰にも似ていない完全なオリジナルであり得る、という主張をする(正確には、綿矢りさの『You can keep it』をそのようにして読む)。

・つまり、私たちの生の一回性が失われ、オリジナルがどこにも存在しなくなってしまった社会(このことはたぶん、高橋源一郎が解説を書いている穂村弘『短歌の友人』で述べられているような、近代短歌から現代短歌へ、そして言葉の「モノ」化、あるいは玩具化と対応していて、その意味では近代短歌および近代文学はオリジナルの「私」を作り出そうとする装置だったのかもしれない)において、比喩だけがその対象を、「私」をオリジナルにすることができる(そして、その先にはいったい何があるのだろう)。

わたしは、いつもとても眠くて、眠気のない晴れきった意識の状態なんて、ずっと味わっていなくて、そんなものはとっくに忘れてしまっていて、もう何年ものあいだ、スイッチが落ちるぎりぎり手前で起きているような感じの周辺にだけしか、わたしはいたことがなくて、もはやそういう状態が、すっかりわたしの体にとってデフォルトなのたった。

・これは同じく『大人にはわからない日本文学史』からの孫引きで、岡田利規の『わたしたちに許された特別な時間の終わり』に収録されている『わたしの場所の複数』という小説の一部だけど、自分のことかと思ってしまった。
 たぶん自分自身のADHDと、マーク・フィッシャーの『資本主義リアリズム』で言われていた過剰接続的なものが相まって、常に晴れきっていない曖昧な意識の中にいて、薬を飲むと少しはクリアになるけど完全に澄み切った状態にはいつまでもなれない。
 そんな意識を音楽やラジオを聴き続けることで何とか持続させていくだけの毎日で、ほんとうに稀に、深夜にものを書いているときなんかにちょっとした躁みたいな状態になって、晴れた意識に出会うことができるのが唯一の祝祭になる。
 自分が外に出て喫茶店とかファストフード店で作業をするのは、一度停止してしまったらもう二度と動けなくなってしまう、ということへの恐怖なのかもしれない。

・バイトを終えて、電車の窓の向こうを通り過ぎていく光をぼうっと眺めていたら、今日(正確には昨日なので2月5日)で自分が21歳になったことを思い出し、その瞬間にすべての光がひとつの直線になって通り過ぎていってしまった。
 ある人から欲しいものを聞かれたので、欲しいものについて考えてみたけれど、自分が何を欲望しているのかよく分からない。とにかく、訳の分からないものになって解体されたい、みたいな気持ちだけがあるし、一方ではただ甘いものを食べたい、パフェを食べたい。すべてを欲望しているような気がするけれど、ほんとうは何も欲望していないような気もする。生活のために必要なものがたくさん欠けていることには目をそらして、床一面に散乱した本が視界に入る。
 あるひとつの空白を埋めるために無限に続いていくものが欲望であって、それはその構造上、永久に満たされることがないという事実を前にして、ショーペンハウアーや仏教みたいに生への意思を否定して欲望することそのものをやめてしまうのか、もしくはニーチェみたいに、それでも無限に続いていく欲望を肯定し続けるのか、どっちがいいんだろうね。
 
・これは欲望のサイクルを進めていくための、たくさんのお話を見届けるためのリスト(ねぇ、お話を聞かせて)https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/1POPZW185JUPF?ref_=wl_share

・ハハノシキュウの「セカンドフィナーレ」を親の声とかよりも多く聴いているので、街を歩いているときにふと歌詞を呟いてしまう。

名前が付いてない星は星だけど名前が付いてない病気は病気じゃないんだ。孤独なシックだ。この暮らしすら傷だ。静かなリスカ。

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