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きつねのはなし

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 その女性はどう見ても人間だった。頭からつま先まで、どう見ても。であればこそ女性は、言いにくそうに、信じてもらえないかもしれないけれど、と切り出した。

「わたし、きつねなんです」
「……ん」

 思考が揺れる。きつね? 僕は深く息を吸い込んで、いつか実家の近所で遭遇した狐の親子を脳裏に浮かべた。彼らは小麦色の毛並みを街灯の明かりに散らつかせながら、とたとたと夜の畦道を歩いていた。ぬるんとしなやかに艶めくその肢体は、暗闇に揺れる松明のように思われた。僕はぼうっと眺めた。親狐は僕と目が合うと、何食わぬ顔でたたたと駆けていった。小狐もついていった。狐。

 彼らの姿を目の奥に焼き付けて、それから改めて女性を見る。頭からつま先まで。やはり記憶の小麦色とは似ても似つかない。

「どう見ても、人間のようですけど」と僕は言う。
「ですよねえ」と女性。

 ◉

 夜の四条西木屋町、高瀬川沿いの喫煙所は老若男女の吐き出す紫煙と高笑いとやるせなさに溢れかえっている。ある人は石段に寝そべり、ある人は通り行く女性を品定め、ある人は恋人と固く手を握る。そうして煙草をくゆらせる。九月半ばまで尾を引いた暑さが通り雨と絡まって、京都の夜は湿ったムードを漂わせていた。

 僕はただのツーリストなのでこの土地の事情をよく知らないが、たぶん、この光景は、昨日も今日も明日も明後日も、そう変わることはないんだろうと思う。毎夜、毎夜、この場所では、人が寝そべったり品定めしたり手を握ったりして煙を吹かし、暑さや寒さは妙な雰囲気を醸し出し、ツーリストがそれをぼんやり眺めていたりする。気がする。

 では狐の女性に話しかけられることはどうか。毎夜?

 ◉

 僕と女性は石段に並んで座って、暗く沈んだ川面をぼんやりと眺めている。女性の歳の頃は二十の半ばと見る。対する僕は三十を跨いで少しが過ぎた。傍から見ればなんでもない二人だろう。誰も僕らを気にしない。すぐ近くの灰皿を囲んだ若い男性たちはスーツ姿で流行りの冗談を試し合っている。向かいでは赤いロングヘアの女性が退屈そうに宙を見ている。となりの女性は引き続きぼんやり。沈黙の頃合いを感じて僕は口を開く。

「えっと」と前置き。「僕はこう見えても、不思議な話には前向きな方です。あなたのような狐がいるかもしれないと、これまでも考えてきたし、今だってそれは変わりません。信じてください。で、だからこそ、そのう、なんと言うのか、証拠? じゃないな、なんと言うのか、なにか、もうひとこえ、あなたが狐だということ、分かるなにか、ありませんか」

 思った以上のしどろもどろに自分でも辟易してしまう。それでも言いたいことは言ってしまって、胸をなでおろそうとして、そうして慌てて付け加える。

「あの、疑ってるわけじゃないですよ」

 女性は切れ長の瞳をゆっくりとしばたく。この場合、相手に失礼なのかどうか、よくはわからないが、たしかに女性のその瞳には、狐めいた冷たい静けさがあった。ふいに女性が口を開く。

「そこの男性、見えますか。川沿いに寝そべっている男性」
「男性?」

 女性の問いに応える僕の視線は、たしかに男性の姿を捉える。四十代くらい。古びたジャージを着て川沿いに寝そべっている。僕は見えますと答える。

「あの男性、少しが経って、川に落ちます」
「落ちる?」

 僕は改めて男性を見る。たしかに川沿いに寝そべってはいるものの、堀からは少し距離がある。落ちるにはそれなりの労力が必要そうだった。僕は、落ちますかね、と聞く。

「落ちますよ」

 するとまもなく、バシャリという音を立てて男性が川に落ちた。川沿いで寝ていた男性は、妙な夢から醒めたように、わあっと言って起き上がると、そのまま川の中へ落ちていったのだ。周囲はぼうっとその経緯を眺めていたが、それはどう見ても、男性が自ら飛び込んだように思われた。男性自ら、それなりの労力を使って。

 高瀬川は浅い運河なので、落ちてもさほどの事件性もなく、男性はすぐに飛び上がり、辺りをキョロキョロと見回した後、とつぜんわっと駆け出して、ずぶ濡れのまま橋の向こうへと去っていった。その後ろ姿を見送ってから、僕は呟いた。

「落ちましたね」

 女性は静かに答える。

「ええ」

 僕は感心してしまって鼻から深く息を吸った。

 ◉

「不思議なもんです。ほんとうに落ちた」と僕。
「狐ですから、わかります」と狐。
「狐は予知ができますか」
「できます。狐でなくてもできます。狐の予知は、予知というより、知らせです。予感」
「ふうん」

 僕はなんだか満足していた。となりにいるのはきっと狐だ。容姿はどう見たって人間だが、当人がそう言うのだから狐なのだ。

「聞きたいことがたくさんあるのですが」と僕が言うと、狐は何でもない顔で「なんでしょう」と答える。

「どうして、僕に声をかけたんです? 狐にもきっといろいろあって、きっといろいろ忙しいでしょうに」

 狐は静かに首を振る。

「その反対です。とても退屈なんです。だれも狐なんて相手にしない」

 僕は首をかしげる。

「そうでしょうか。ほら、あれ、ここから南に下ったところの伏見稲荷、あれは狐の総本社でしょう。みんなが寄ってたかると聞きますよ」

 すると狐はふうと息を吐いて呟く。

「あれは石の狐でしょう。あそこの狐は石ばかり。わたし、石じゃないんですよ」

 僕はまた妙に感心してしまった。たしかにこの狐は石じゃないのだ。人間。

「では、その、あなたのような狐は、ふだん、どう過ごすんです?」
「どうって」
「いや、何を食べて、とか、どこに住んで、とか」

 狐はきもち視線を持ち上げて答える。

「変わりませんよ、別段、あなたと。二条にアパートを借りています。スーパーで食材を買って自炊します。仕事は印刷関係です。月給から数万円を貯金に回して、たまに遠くへ旅行に行ったり。贅沢はそれくらいで、慎ましやかに暮らしています」

 そうですか、と言って、僕はぼんやり宙を見た。狐の暮らしといっても、そう目新しいものではないのだ。なにやら感慨深かった。すると狐は寂しそうに足元を見て呟く。

「狐の暮らしといっても、そう目新しいものではないですよね」
「えっ」
「そう思われているだろうなって。自分でもそう思いますから」
「……はあ、すみません」
「いいんですよ。慣れっこなんです」

 狐はやはり寂しそうだった。僕はかける言葉を探すけれど見つからない。これまでの人生で、狐を慰めたことなど一度もないのだ。僕には言葉がない。——などとやっていたら、狐は勝手に立ち直り、視線を持ち上げて話し出す。

「それでも、狐にも、狐なりの得意気があるんですよ」
「得意気?」

 狐は頬を上気させて、艶やかに、にっと笑う。そうして僕を見る。

「わたし、あなたの寿命が分かります」
「……寿命、ですか」

 それはそれなりにショッキングな内容ではあった。寿命。

 けれど僕の心には、誰かの寿命より、それを口にする狐の笑顔の方が強く焼き付いてしまっていた。にっと持ち上がる口角と、何も見ていないような切れ長い瞳の静けさが、薄ぼんやりとした宵闇に浮かんでいた。いつかの小麦色が目の奥をたたたと駆けていった。彼女らはふと立ち止まり、振り返って僕を見た。口に何かをくわえていた。なんだろう? 僕は、僕の寿命などには構っていられず、引き続く狐の話もふんふんと聞き流してしまった。

 狐の笑顔は、夜雨上がりの湿る京都と絡まる艷、生温い人間の体温を感じさせた。その口に何かをくわえて、相変わらずこちらをじっと見つめていた。

 ◉

 長くなってしまったので以下、割愛。以下、概要。狐は齢四百を下らず、その長寿と若さは人間の心臓を食べることに秘訣があるという。そのために狐は人の寿命を知る。僕の寿命は残すところ数えで二十八年だという。狐は僕の心臓が欲しいと申し出て、僕は喜んでそれを差し出すと答える。それは末永い契約で、僕の寿命が尽きるまさにその瞬間まで持ち越す。それまでは、狐は最大の神通力で僕の生涯を加護するという。これは狐の宿命と大黒天の慈悲とが交わした約束らしい。リスクもある。僕がその契約を反故にすれば、狐は容赦なく僕の首を搔き切る。僕は反故などあり得ないと言い、実際そういう性質であった。そうして僕は死ぬまで豊かに暮らし、死ぬその時に狐に心臓を喰べられる。享年は五十八だった。狐の見た寿命は本当か。偶然か。本当に狐か。人か。どうであれ、僕の世界で僕は死に、狐はさらに生きる。本当かどうかなんてわからない。狐に喰われなくても人は死ぬ。不思議な話。荼枳尼天。もっと違うパターンもある。少し昔なら普通の話。狐は心ない人々に狩られた。もうほとんどが死に絶えた。

(2020.10.1)

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