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ダニー・ボーイの話

 ダニー・ボーイは彼によく言った。ダニー・ボーイは彼の友人だった。そしてよく言った。

「俺の親父がよく言った。人生はさながら大海原を行く小さなイカダのようなものだ、なんて。おそらく、それは親父の言葉なんかじゃないだろうね、どこかで読んだか聞いたかしたんだろう。親父は読書家ではなかったし話す相手も少なかったけれど、そんな言葉ならそこら中に転がってる。"人生はさながら大海原を行く小さなイカダのようなものだ"、なんてさ。俺だってどこかで読んだしどこかで聞いたよ。それでも、まぁ、親父はよく言ったんだ。それしか言うことがなかったってのもあるんだろうけど、まぁ、とにかく」

  ダニー・ボーイが彼にその話をするのは、大抵が深夜のファミリーレストランでだった。ダニー・ボーイが吸ったマルボロは、インディアンの焚き火のように灰皿にうず高く積もる。

「ところでだ、どういう意味なんだ、つまり? "人生はさながら大海原を行く小さなイカダのようなもの"、だとして、仮にそれをぼんやりと理解したとして、それで、なんなんだ? それが例えばよく言い当てた比喩だとして、賛美したとして、一人の男が息子によく言う事態が起こったとして、それがなんなんだよ? 教訓なのか、これは? なるほど、俺は小さなイカダに乗って人生という大海原を行く……、行って、どうする? 俺が聞きたいのは俺の置かれた状況じゃない、結論だよ! それで、俺は、そのイカダで、どうすればいい?」
「君は、お父さんのことが嫌いなの?」彼は静かに口を開く。
「そんなわけないだろう、嫌いだったらこんな話はしない。大好きだよ」

  彼はダニー・ボーイにあまり理解を示さなかった。いつものことだ。けれど彼らが友人であることに疑いはない。特別、友人同士が理解し合っている必要もない。

  ダニー・ボーイはそれからカップに注いだドリンクバーの珈琲を宙に浮かべた。黒い液体がふらふら浮かぶ。彼は静かに口を開く。

「その小さなイカダで、陸に向かえばいいんじゃないかな、とりあえず」

  するとダニー・ボーイは激昂して、

「じゃあ、それは、なにか、親父はつまり、俺にコロンブスになれと? 俺はコロンブスか? なるほど、クリストファー、大した男だろうよ、名の残った男だ、素敵だよ。俺は子供の頃、奴の伝記を読んでいたく感動したものさ。クリストファー。大海原に乗り出して、アメリカ大陸で卵を発見したとかなんとかな。誰にもできないことをした。なるほど、クリストファー、大した男だよ、でもな」それから浮いた珈琲をスプーンで細かく千切って「奴の傲慢なアメリカの卵の発見が、その後の歴史をどれだけ暗澹たるものにしたんだ? ネイティヴ・インディアンの大量虐殺、黒人蔑視、全部あいつが始めたことだ。そんなこと、伝記は教えてくれなかった。あいつさえいなければマックィーンの夜はわざわざ明けたり明けなかったりする必要もなかったんだよ。俺は映画館であれを見て、ひどい気持ちになった。それはひどい気持ちだ。一応言っておくが」ダニー・ボーイは取り出したマルボロに火をつけながら「俺の偽善については今は問題じゃない」

  彼は静かに珈琲をすすった。彼にはいつもダニー・ボーイの話すことの意味がよくわからなかった。彼は寓話には頓着が無かったし、人生の意味もあまり深く考えなかった。ダニー・ボーイがなぜ激昂するほどこの問題を気にするのか、彼の経験知からは察することが出来なかったのだ。それでも何も言わずにいられるほど、沈黙への免疫も無かった。だからいつもぼんやりと浮かんだ言葉を口にした。

「別に君のお父さんは、君をコロンブスにしたいわけではなかったんじゃないかな。君は陸に上がってから小説家にだってなれるし、サラリーマンにだってなれるのだし……」
「そう、そこがミソさね」ダニー・ボーイはそれきたといった風に続ける。「俺はなんにだってなれるだろうし、なんにだってなれないとも言える。考えてもみろ、大海原を行くイカダだ、アメリカ大陸に着くかもしれんが、太平洋のど真ん中で沈むことだってある。運良くアラブにも辿り着けるかもな、でもそれは運が良ければだ。お前は言ったな、陸に上がってからマジシャンにもなれるって? そんなのは、着いた陸が何処かによるんだよ、つまりだ、俺がオーストラリアに着いてみろ、俺は動物園でコアラの飼育をするしかない」
「オーストラリアにはコアラ以外にもたくさんの物事があるよ」
「わかってないな、いいか、俺の言ってることは全部が例えだ」

 こういった話は彼にはどう扱ったものか見当もつかなかった。ダニー・ボーイの話はまさに大海原を行くイカダのように、どこへ漂着するやら判然としないのだ。

  彼はダニー・ボーイが千切ってふわふわと浮かべるがままにした珈琲をぼんやり眺めながら、次に話を切り出すのは自分だという事実に心を痛めた。とにかく彼は何かを切り出さなくてはならなかった。

「君のお父さんはきっと、君に夢を持って欲しかったんじゃないかな」彼はぼそぼそと話し始めた。それから少し間を空けて「君の言ったように、君は大海原から何処へだって行ける。もちろん、運も左右するかもしれない。それにしても、何処へ向かうべきかなんて、人に聞いても教えてくれないよ。コンパスだって、方角を教えてくれるだけだ。北を選ぶか南を選ぶかは僕らの勝手だ。もちろん、君の言うように、僕らはわざわざコロンブスになる必要なんてない。でも、僕らはいつだって何処かに向かわなければならない。何処かへ向かって、辿り着いた先で、君みたいな誠意があるなら、例えば原住民に敬意を払えばいい。そうすれば、マックィーンに夜なんて必要ない。地球にはもう未開の地なんてないと言うなら、それなら場所を宇宙に変えたらいい。仮に地球人の宇宙探測が遥かな大海原へ旅立って、その小さなイカダがアンドロメダの人類に出くわしたって、それだけでは虐殺も蔑視も生まれない。それは宇宙のコロンブスの心持ち次第だろう。輝かしい遭遇があるかもしれない。アンドロメダのマックィーンは晴れやかな昼下がりを映画にするかもしれない。それは一つの夢だし、希望でもあるだろう。(もちろん、地球人の方が虐殺される可能性の方が高いかもしれないのだけど……)とにかく……、僕は例え話は得意ではないけど、とにかくそういうことじゃないかな」

  彼は自分の口から思いの外すらすらと言葉が飛び出したことに驚いた。彼が自分で考えたことなのかも怪しいほどに彼の言葉は次の言葉へと繋がった。そんなことがたまにあって、その度に彼は驚く。

  ダニー・ボーイはしばらく沈黙した。咥えたマルボロがチリチリと音を立てた。それから煙をふっと吐き出して、言った。

「宇宙の話は出すな。宇宙は大きすぎる」

  それでこの夜の話は終わった。彼は思った。そうだ、確かに宇宙は大きすぎる。

(2014.12.3)

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