もういない女
何年も前の夏のこと、僕はもういない女性に出会った。その人は郊外のコンビニのやたらと広い駐車場の隅で、一人ぷかぷかと煙草を燻らせていた——じりりりと照りつける午後の日差しの中で、涼しげにすうっと立って。
薄手のワンピースから剝きだした女性の素肌があんまり白いので、その儚げな姿はなぜだか僕に、子供の頃によく食べた、ホームランバーというアイスを思い起こさせた。
(あの人は、溶けちゃうんじゃなかろうか)
僕はその時21歳で、あらゆることが興味本位で、ホームランバーの冷ややかさを身近に感じるも良しと思い、共有の据え置き灰皿を口実に、女性の隣で煙草を燻らせ始めた。
そばで見ても、女性はやはり白く、そして美しかった。すうっと澄んだ切れ長の瞳は、物憂げに暑さを見据えている。切り揃えた髪は首筋にかかって、さらさらと風に揺れている。
ジリジリと鳴る夏の最中にも、こんな涼やかさがあるものだ、と、僕は妙な風流を感じて、夢見心地に煙を吐いた。
(この人は、溶けかかりのホームランバーだ。白く、夏に溶けゆく、男子の夢の儚さだ)
僕は思いつきの格言を心に諳んじて満足した。
すると、女性が、まるで微かな空気を漏らすみたいに呟いた。
「ホームランバーは、嫌だな。私、そんなにずんぐりだろうか」
僕はハッとして女性を見た。
「僕、いま、なにか喋ったでしょうか」
「いいえ、なんにも」
「あ、そうですか」
僕は首を傾げて煙草を咥えた。不思議だな、聞き違いだろうか。たしかに今、ホームランバーと聞こえたような。すると再び女性が口を開く。
「あなたは喋りませんが、私は喋りました。ホームランバーは嫌だから」
僕はびっくりしてしまった。
「なんで、ホームランバーが分かるんです? 僕、喋ってないですよね」
すると女性は涼しい顔で答える。
「なんでって、なんでも。分かるものは分かるんです。ホームランバーでも、白い夢でも、なんでも」
僕は何が何やら分からなくなってしまって、そのまましばらく黙りこくってしまった。隣の女性は、なんなのだろう。僕の思ったあれこれを、寸分違わず、言い当ててみせた。これは、なかなかに、大層なことだ。僕はそろそろと尋ねた。
「手品ですか」
「え」
「僕の心を言い当てる、それ、手品ですか」
女性は煙草の灰を灰皿に落とす。
「なんなんでしょうね、突然なんです。私、この夏に死のう、この暑さの中に死んでやろう、って、そう決めた時から、突然です。聞こえるんです、あなたとか、あなたじゃない人とか、いろんな人の声」
「……はあ、そうですか」
これはにわかに信じがたかった。とはいえ、女性は、たしかに僕の考えを指摘してみせたのだ。僕は訂正することにした。
「ホームランバーは、たしかにずんぐりですね。あなたはずんぐりじゃありません、むしろほっそりです」
「ありがとう」
女性は、特別ありがたくもなさそうにそう言った。そうして煙草を灰皿に捨てた。このまま去られてしまっては謎が深すぎる。それだけは避けねばなるまいと、僕は話を続けた。
「どうして、死ぬんです」
「どうして?」
「いや、なんで、死ぬのかなあ、って」
女性はまるで1足す1の答えを聞かれたみたいに、所在なくぼんやりと宙を見た。
「なんでって、なんでもです。そう思うこと、ないですか。死のうかなって。季節があればなおさらです。夏に死のう、冬に死のう、そういうこと、ありませんか」
「うーん、どうだろう。よくわかりませんが、そうであれば、人はいつだって死にたいじゃないですか。春でも、秋でも、いつだって季節はありますから」
「そう、だからみんな死んでしまう」
なんだか禅問答のようだった。僕は不思議に思った。死ぬなんて大層なこと、そんなにぼんやりと決められるものだろうか。
すると女性は、薄い唇を微かに開いて呟いた。
「気配も、たしかなきっかけです」
その呟きはいかにも本当に思われて、自然、僕の道徳は反抗した。
「でも、やっぱり、死ぬなんて大層ですよ。季節がどうとか、衣替えとはわけが違うんです。そう簡単に、人は死んじゃいけませんよ」
女性は新しい煙草をソフトケースから取り出した。まだ話が続きそうなことに、僕はなんだかほっとした。女性は煙草に火をつけながら言った。
「衣替え、いいじゃないですか。 私、それはとてもいいと思う」
凛と淀まない女性の声に、僕の所在はぼやけてしまった。この女性はたしかに死ぬんだと思った。すると途端に哀しくなった。もう何年も、何十年も前から、この女性を知っていた気がして、それは不思議とたしかなようで、僕はたまらなく寂しくなった。
「あなたがそんなに死にたいのは、それはもう、結構なことです。それでも、それでも僕は生きますから。そうして、夏の来る度に、あなたを思い出してアイスを食べるんです。もちろん、ずんぐりのやつですよ。あなたは嫌がるかもしれませんが、これもまた、結構なことなんです。なぜって……」
僕の感傷はどこにも漂着せず、ふわふわと口先が踊った。女性はなんでもない顔で、切れ長の瞳を瞬いた。そうして少しが過ぎて、女性はおもむろに言った。
「好きでした、子供の頃」
「え」
「私きっと、嫌がりませんから」
突然、夏が音量を増した。僕の物憂いに呼応して、蝉や飛行機雲やがやんやと騒ぎ立てるのだ。うるさいなあと思ってみても、たしかにこれが夏だものなあと、それにしてもこんなにうるさかったかなあと、空やビルやに記憶を辿って、心は風景を漂った。忘れ去られた僕の煙草が灰と吸い殻に変わった時、女性ははじめて僕を見て、小さく笑った。
「人の心もまた季節ですね。あなたはすぐに衣替えする」
女性はそう言って、それから視線を前に戻した。その瞳が滲んで見えて、僕はハッとして、思ってもないことを口にした。
「あなた、もしかして、もう死んでるんじゃないでしょうね」
女性は答えなかった。ただ静かに細い煙を吐いた。
(2020)
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