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膀胱が柔らかい

「膀胱が柔らかいんだね」

 と友人に言われたのは気候の穏やかな五月末の深夜のことで、僕はテレビモニターに映し出されたお笑い番組をそっちのけにして驚いてしまった。

「膀胱が柔らかい?」

 僕が聞くと、友人はこくりと頷いて答える。

「うん、そう」
「それってどういうこと?」
「いや、ぜんぜんトイレに行かないから」

 ぼんやり考えてみると、たしかにその日の僕は、友人と合流した夕方から実に10時間以上、一度もトイレに行っていなかった。

「なんだろう、行かない時はあんま行かないんだよね、多分」
「ふうん、膀胱炎になるよ」
「どうかな、なったことないけど」
「やっぱ柔らかいんだな、膀胱」そう言って友人はうんうんと頷いて、お笑い番組に視線を戻した。

 膀胱が柔らかい? 僕はこれまで一度も膀胱に硬軟があるなんてことを考えたことがなかった。それは本当だろうか? 膀胱が柔らかい?

 詳細を訊ねようと思ったが、友人はテレビモニターを見ながらケラケラ笑っていて、もう僕の膀胱のことなんて忘れている様子だった。そんな時に僕は僕の膀胱のことなんて蒸し返す気になれない。

 膀胱が柔らかい。そのことで人生に損得はあるだろうか。有益なことは? あまりない気がする。なぜって、僕は僕の人生が何かしらの得を持っていると思ったことがなかったから。損の方が多い気もするが、それも誰かや何かと比較することは難しいし、仮に損や得があったとしても、恐らくそれは膀胱の柔らかさに起因するものではないだろう。

 僕の膀胱は柔らかい。それが仮に確かだとして、きっとそれ以上でも以下でもない。あまりトイレに行かない人生。ぞっともしないし楽しそうでもない。どうせならたくさんトイレに行く人生の方が楽しそうにも思える。でもこれも確認は難しい。たくさんトイレに行く人生は楽しいですか? なんて、誰かに聞く気にもならない。ならないけれど、ふと思い立って友人に聞いてみる。

「たくさんトイレに行く人生は楽しいかな?」

 友人はテレビモニターから視線を動かさずに口を捻って、うーんと唸って答える。

「人それぞれじゃない?」

 たしかに、と僕は思って頷いた。たしかに、人それぞれだな。

 僕はなぜだかほっとして、すると幼少期になかなか治らなかった寝小便のことを思い出し、あるいはあの頃に僕の膀胱は小便を出しすぎて軟化してしまったのではあるまいかと仮説を立てたが、さすがに馬鹿馬鹿しいと思い直し、ようやく友人の切り替わりに追いついて、お笑い番組に目をやってケラケラと笑った。

 それから少ししてトイレで小便をしたが、長くもなく短くもない、ごく平均的で損も得もなさそうな小便だった。僕はふと、微かにがっかりしている自分に気づいたが、何にがっかりしているのか思い当たる間も無く、小便は便器の奥に流されていき、そしておそらく、あいも変わらず僕の膀胱は柔らかいのだ。

 数分の遅延を経て、僕の心は突然のほのかな満足を感じたが、それも何に起因しているのかはよくわからなかった。

(2021.5.23)

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