ソシュールよ


であるからして、ソシュールの一般言語学、及び構造主義と格闘してるんである。筒井康隆のエッセイの書き出しみたいだが。

ソシュール研究の第一人者である丸山圭三郎という偉い先生の本を読んでいる。「言葉とは何か」というタイトルで、私のような凡人は普段そういうことを考えないため、ゲシュタルト崩壊を起こさずに日常を過ごせているんである。「死とは何か」とか「時間とは何か」みたいな観念的なことは、無職の時ぐらいしかゆっくり考えられない。
「あ」とは何か、とか、「あ」という文字を色んな書体で眺めてるうちに「あ」の文字の成り立ち、なぜ「A」という音が「あ」を意味するのか、そもそもの存在意義は何かとか、もうそんなこと考え出したらやってられなくなる。だから普段、哲学は偉い先生に任せて私は仕事に行ってるんである。
色んな書体で、で思い出だしたけど、タイポグラフィというのも大概ゲシュタルト崩壊ものだなあと常々思っている。書道とかね。絵画と文字の合体なのか、そもそもどこから文字なのか?人間の抽象能力ってのは不思議なものだ。

これと同じように<愛>という普遍的観念の代用品は、時に「アイ」であり、時にLoveであり、また時によってはamourLiebeであったりする。代用品であるからには、当然にも本物があるはずで、この存在はア・プリオリに現前(傍点)するものとして一度も疑われることがなかった。
「言葉と無意識」/丸山圭三郎

丸山先生はこのように仰っている。成程確かに、愛をこの目で見た、と自信満々にはなかなか言い切れない。少なくとも私は、愛に相当しそうな、いい感じの何かを便宜上、愛と呼ぶわ、ぐらいの気持でいる。だから本当はそんなもん無いのかもしれない。
最近「かわいい」について、英米人にとっては「下に見ている」ような意味が含まれるのではないか、という意見があったのだが、日本語のkawaiiとcuteは、微妙に意味違うよなー、と思う。それを説明できる英語力はないので、英米人に褒めるつもりでcuteと言わないよう気を付けるしかないのだが。
外国語を身につけると、その国の人の思考回路やメンタリティが身についてしまう、という面白いテーマの映画がある。「メッセージ」というファーストコンタクトもので、サピア=ウォーフの仮説を元にしている。しかしサピア=ウォーフの仮説も仮説というだけあって、本当にそうかは分かってないのだ。もし本当だったら、というフィクションである。
どうも言語学は、みんな仮説で、少しぐらい確定した説はないのかい、と思うが、それほど言語はまだ何も分かってないんだろうな。
その前に心理学をやったんだけど、心理学も仮説ばっかりで、人の心なんて、本当にまだまだ何も分かってないんだと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?