いろいろあった10年③|留学決めた

いろいろあった10年といってまだ中学の話をしてるので15年っていうべきです…中学といえばで思い出したけど、ついったでも言ってたこれ、この前母が見つけたこの作品。

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中学二年の頃に作った10年後の私というテーマの作品「映画に関わる美術の仕事がしたい」うますぎる。細部がすごい。そして15年後に映画に関わる仕事はしてないけど、美術館で美術に関わる仕事をして、結婚したパートナーくんはふぉっく すで映画を作っていて、それをすぐそばで応援できている。なんかこうほんんんんんっとここまで道長かったし、これからもどんどんキャリアを積んでいくつもりなのでなんもおわってないんですけど、これを見てそれでもここまでよくやったなって気持ちになった。

脱線したけどこのころに留学したいと思ったはいいもののまず考えたのは高校留学。これはさくっと消えた。学費高すぎたし、まわりにせめて高校までは自分の国で基礎的な知識はあったほうがいいよと言われたから。まあ確かに。地元の公立の進学校に通った。高校は日本でよかった。大好きなお友達と出会えたから。

進学した時この学校がいい!!!!って気持ちはなかった。これでも生徒会長だったのでなんかこう、いいとこいけやみたいなプレッシャーがあったし…いや、一応理由あった。グローバルな学校とかを売りしてたんや、今思い出した。特にグローバルでもなんでもなかったからすっかり忘れてた。英語のクラスが多少他より多かった?んか???

進学校にいった方はわかるかもしれないけど、むっちゃ当初から大学希望を聞かれる。いや、日本の大学行く気ないんでっていうとは???っていわれる。ちはやちゃんみたいに職員室呼ばれた。それは卒業するまで続いた。3年生の担任がいいひとで「せとがしっかり考えてるんですから学校がとやかく言うことじゃないですよ」と何度も庇ってくれた。今でもその先生とは連絡を取って日本に帰った時はごはんにいってる。

高校生活が楽しかったかといえばうん~~~な気持ち。良い人たちが多く、学生たちもいいこばかりだった、と思う。はっきり言って私は微妙に元気な鬱だった。原因は結構簡単で、進路希望の時に父が「脳みその真ん中に石があって手術もできない。せとがお医者さんになってくれたらな」といったことがきっかけで一度医者の道を目指したから。はっきりいっておつむ足りなさすぎ問題だった。でもでもでもな私が勉強いっぱいしなきゃというプレッシャーからご飯食べれなくなって常に気分が悪かった。起きてる間は常に気持ち悪いみたいな。食べても全部同じ味がした。たぶんそのころのせいで今も私の味覚はちょっとくるってる(これ)ちなみ父は私に無理なプレッシャー与えたと理解して後悔はしてたらしい。
理系から文科系に変えてお医者さんむりです!って挫折し、んま~~~~~~そんな感じで保健室いったり~病院通ったり~しながら友達には恵まれてたので学校にはいってた。正直授業が受験の事しか考えてないので私が疑問に思うとこは大抵「受験にはいらないから知らなくていい」とか言われる感じだったので、えっなら受験しないので受験の事しか教えないクラスは必要ないですよねって好きな世界史と英語ばかり勉強して満点近くても数学では15点みたいな世界だった…一方で学校行事は率先として出るほうだったのでやりま~~す!とかいろいろしてたので、進路で呼び出し食らう割には先生たちとは仲がいいほうな生徒だったと思う。

留学に関して親のスタンスは外の世界を見に行けと漠然と許容してたし、当時、姉1ももうアメリカに来ていた。

三姉妹のうち2人が留学なんてお金あるねって言われたんですが、うちの簡単な経済状況ですが、当時貯金はなかったとこの前母はいっていた。「よくわからんけど口座にお金ないのに心配してなかった…当時の自分が怖い(母談)」ほんとだよ…びっくりだよ。高校でもあしながおじさん奨学金が頼りで、高校入学した瞬間うちは本当にお金ないからせとはバイトしてくれって言われた時はそ、そんなになんかとは思ってたけどもそこまでとは知らなかった(姉たちはそんなにすぐバイトしてなかったし、お小遣いもあったのにと不満をこぼして父にむっちゃ切れられた記憶はある。いや、気持ちはわかるけど理不尽だな...)そして大人になって気づいたけど父が長いことピラミッド系のビジネスをしてた。そこから抜けた後も自営業で保険屋だったのでお給料が無い月とかざらにあった。今だからそこ突っ込みどころはあるけどよく海外にやろうと考えてくれたと思う。背中を押してくれて好きにしろとさせてくれたのは感謝してる。

米の学校もコミュニティカレッジとか学校によっては日本の公立より少し高く、私立よりは安いところがあって私も姉もそこに行ってから結果的に4年制に3年生から編入ルートだった(アメリカでも学費をセーブする方法としてよくあるルート)そんな流れで姉が電話代80万事件とか学費確認しないで超学費あほ高4年制大学に編入し(そんなことある?????????)入学してから年に何百万もかかると判明事件があり、当時じいちゃんが助けてくれたと言っていた。日本の大学に行った姉2はじいちゃんが助けて、一部返済が必要な奨学金を得ていた。云年後に私が大学生になった直後に父もじいちゃんも亡くなって、私は学費ほぼ自分で負担して今もローンまみれ…いやまあもう考えてもね、ぐるぐるするだけなんで仕方ない。

まあそんなぐだぐだ経済状況でも留学の話はすすみ、実際に行動したぞ!という話として真っ先に「お姉ちゃんの時に学校手続きとかVISAとかエージェント使ってお金かかったし、せとは全部自分でして」と言われたので本当に全部自分で一人でしました。まじかよ。まじだよ。17歳の私ほんとよくしたよ。学校調べるのも、申請するのも、学生VISA申請の方法調査も実際の申請も面接の手続きも全部英語でひとりでした。さすがにVISAの法的手続きの時つまって助け求めたら「英語わかんないから助けらんないよ(鼻ほじ」って言われた時はそんな殺生な………ってちょっときれた。でも全部自分でした。あとになってはこういう全部自分でするっていうのがいい経験だったなと思うんですが。でもね、ほんとうによくやったと思うよ…自分で…本当にえらい。よくやった。

次はもうちょっと具体的に留学の初期になにしたか思い出せたら書きたい。


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