〜生贄論〜

人に何かを「伝える」ということほど、楽しいことはないと感じます(それは、食欲や性欲を満たすこと以上に)。そして、相手がそれをしっかりと「受け止めて」くれた時ほど、嬉しいものはありません。だから、「文章を書くこと」は、突き詰めれば僕にとってコミュニケーションのひとつの形であり、同時に最高のエンターテイメントでもあります。
ではなぜ、「伝えること」に喜びを感じるのか?それは裏を返せば、根底に「伝わらない」ということへの絶望感があるからだと言えます。僕の文学上のテーマは、他ならぬ「他者との断絶」です。この場合の"他者"とは、場合によっては、片思いの相手であったり、キリスト教に纏わる文学を読み解く際は、"神"というものを当て嵌めて捉えられるものです。神とは、人間にとって絶対的な"他者"に他なりません。
ロシアの文豪ドストエフスキーがその創作の着想を得、また一説には「人類史上における文学作品の最高傑作」と評される「ヨブ記」(旧約聖書に収録)もまた、その主題は「神の沈黙」でした。つまり、「他者との断絶」。父なる神に対し、人間の側がたとえどれ程の信仰を注ぎ、どれ程の供物を捧げたとしても。神は文字通り「沈黙」を貫き、祈りに耳を傾けてくれるとは限りません。それでもなお、人間は、祈り続けるにしろ、抗うにしろ、あるいは無視するにしろ、神(=他者)と向き合い続けなければなりません。この圧倒的な不均衡。この命題を自覚して以来、『カラマーゾフの兄弟』を始めとするドストエフスキーの小説や、キリスト教者である遠藤周作の『沈黙』、ベルイマンの同名映画『沈黙』など、それまでは孤立した点に過ぎなかった作品群が、一本の線として繋がった感覚を得ました。ですから、他者に何かを「伝える」ということに対する僕の焦がれるような慕情は、単なる一個人の偏狭な嗜好のみならず、あるいは、あまねく人類普遍に共有し得るのかもしれないと信じ、筆を進めます。


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