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A'  【33】

 高校を卒業したあとは目まぐるしかった。七海はすでに採用が決まっていた介護施設に勤め始めていた。最終目標は介護福祉士だ。専門学校へ進学するという選択肢もあるが、この道をゆくと決めたのが少し遅かったし、学費を知って目が飛び出そうになった。両親がいないことを恨んだりはしない。むしろこれでよかったと思っている。七海が選んだのは、実務経験を積みながら介護福祉士を目指すというルートである。働きながら――給与を得ながら学び成長できるなんて最高! 七海にとってやる気のみなぎる条件だった。
 
 がむしゃらに働き、学び、とうに成人を過ぎた。介護の現場に正直くじけそうになる時期もあったが、それも今となっては思い出でしかない。高校を卒業後ずっと現場で働いてきた七海は介護福祉士の受験資格をとっくに得ていたが、一方で祖父の施設入所や祖母の認知症の進行など、日々の変化に追われ機会を逃し続けてしまった。
 夏樹とは、週に三度は電話やメールなど何某かの連絡を取り合っている。とは言え、いつも連絡をよこすのは夏樹のほうだ。家族の猛反対を受けながら獣医師の道を選んだ夏樹もまた、高校を出たあとは遠方の大学へ進学し、初めての一人暮らしに悪戦苦闘しながらも、今や獣医師免許を取得して動物病院に勤めている。お互い忙しいのだから、たまに返信ができなくたって仕方ない。
 だがそんな時、夏樹の不機嫌は電波に乗って届くのだった。どうして返事してくれないの、私のことが嫌になったの? きっと新しい友達ができて、私のことなんかどうでもよくなったのね……。まるで遠距離恋愛だ。もちろん二人は恋人同士ではない。
 
 そうして更に時間は流れ、介護福祉士という夢を叶えた七海は、三十代を目前にして次の目標を胸に抱いていた。長く介護の世界を見てきた七海は、現場の抱える問題やもどかしい思いを募らせてきた。やがてそれは緊張感を伴う胸の高鳴りへと進化した――そうだ、私が新しい事業所を作ろう。
 独立への準備は着々と進んでいた。たまに足がふわりと宙に浮きそうな感覚になりながら、七海はしかし、光の方角を見ることに努めた。今年だ。今年中に、動くんだ。
 木々は新緑が眩しく、葛の葉が茂り、近所では草刈り機の音が耐えない。そんなありふれた日だった。
 夜勤の明けた七海はその足でスーパーやドラッグストアに立ち寄り、自転車に積めるだけの荷物を抱え自宅に帰る。あくびが出た。ああ、眠い。でもまずはばあばを看てくれている訪問介護のヘルパーさんにご挨拶だ。同じ介護職同士、ヘルパーの女性は七海に対して親身だった。だから夜勤明けのこんな日は、身内の七海が帰宅した後もまだしばらくは仕事をしてくれる。介護保険と年金制度について、これほどありがたいと思う日が来るなんて、この道を志した十代の頃は想像もしなかった。
 自転車を停め、大きく背伸びをした時だ。
「七海……」
 あれ、と声が出た。それから次に「しまった」と思った。ずいぶん前に届いていたメールに返信していなかったのだ。
「ど、どうしたの夏樹。久しぶりじゃん」
 会うのは何か月、いや何年ぶりだろう。
 今回忘れていた返信についても、七海はほんの二、三日前には気付いていた。けれど思ったのだ。まあ、いいや、と。夏樹からの不機嫌な攻撃もなかった。そう、もはや攻撃だ。だからそれが止んだのなら、いっそこのまま疎遠になればいい。そう思った。なのに、なぜ。
「なに……その恰好、夏樹」
 なぜ目の前の夏樹は黒づくめで、手袋をした手にはナイフを握っているのか。
 なぜ家にいるはずのヘルパーさんの車ではなく、見慣れない車が停まっているのか。
「あのおばさんには帰ってもらったわ。大丈夫、親戚だって言ったの」
「な、なに言ってんの」
「大丈夫よ七海、私顔を見られたりしてないわ」
 じりじりと夏樹が近付いて来る。風が吹き、木々が揺れ、うごめく木洩れ日がナイフをきらめかせる。七海は後ずさりをした。
「あ、怪しいって夏樹。そんな、なんか強盗みたいな……」
 なにを愛想笑いなんかしているのだろう。ばあばはどうなったんだろう。「もう手遅れ」という言葉が脳裏を通り過ぎた。夏樹がクスリと笑う。サングラスを外した。
「嬉しい、七海。声だけで私だって分かってくれたのね」
 唖然だった。マスクで口許を覆ったままのその顔は、七海の知る夏樹とはまるで別人だった。七海と違って夏樹は、高校生の頃には一切化粧をしなかった。だからつまり、これは化粧のせいなのか。違う。日頃からメイクが好きだった七海だから分かる、日常的なメイクでここまで変わるものか?
「七海、お化粧してないのね」
 悲しそうな目付きになって夏樹が言う。夏樹、夏樹じゃない。この顔は夏樹じゃない。でも、夏樹なのだ。まるで別人のような顔、けれど知っている。七海はこの顔をよく知っている。
「せっかくたくさん練習したのに。七海と同じ顔になれるように」
 眩暈がした。周囲の音が聞こえない。夏樹の声しか聞こえない。夏樹から目が離せない。言葉を発することができない。動けない。それは圧倒的な恐怖だった。
「助けてあげるわ、七海。ここからあなたを連れだしてあげる」
 鏡のような目元がにいっと笑んだ。彼女が手にしているナイフの使い道など、考える余裕もなかった。ただ、刺されるのだろうと思った。
 ――なあんだ。こんな時、走馬燈なんか見えないじゃん。
 目を開けているのも億劫になった、次の瞬間だった。
「見いちゃった」
 低い声だった。しかし男のそれとは違った。目を開ける。視界がぼやけ、こんなに汗をかいていたのかと気付く。目の前の夏樹が振り返ったその背後には、制服姿の女生徒が立っている。よく知る地元の高校だ。誰だ、あれは。
 ――三島亜紀。
 両腕を組み、肩幅に足を開いた仁王立ちのような立ち姿で、三島亜紀はそこにいた。七海はその場に崩れ落ちる。もう限界だった。
「亜紀ちゃん……だめだ」
 それでも声を出した。しかし三島亜紀は近寄って来る。堂々とした姿だった。
「小町……?」
 その名前は届いただろうか。三島亜紀は夏樹を見据えたまま、どんどん距離を詰めてゆく。不敵な、挑発的な表情だった。
「誰……あんた」
 張り詰めていた空気がビュッ、と動いた。七海の目の前で両者が掴み合っていた。邪魔をしないで、と夏樹が言う。その声は震えていた。互いに力を緩めない様子で、ナイフを握った者とその腕を掴む者が一触即発の睨み合いをしているのだ。
「な、なにやってんだ、夏樹、だめだって」
 夏樹が反応した。目だけが動き、こちらを見るや悲鳴が上がりナイフが落ちた。ぽたっ、ぽたぽたっ、と地面に血が滴る。身を屈めているのは夏樹だった。三島亜紀が笑うように息を吐く。「こわい、こわい」小馬鹿にした言い方だった。
「さて、おいとまするよ。スカートを履くシュミはないんでね」
 七海の知る三島亜紀ではなかった。しかし今この状況で、もうしばらく会っていない三島亜紀がどのように成長したのかなど、考える余裕はない。夏樹が顔を上げる。獣のような息遣いになり三島亜紀を睨み上げ、血だらけの右手で落ちたナイフを掴み咆哮さながらに叫びそれを振り上げる――七海は目を閉じた。ごめん、ごめんなさい。誰にともなく心で叫ぶ。
「お、お、お化け……」
 時間が止まった。そろりと目を開けると、ナイフを振り上げた状態で夏樹が静止している。その右手からはぼたぼたと血が流れ、三島亜紀は――ぐるんと白目を剥いて倒れてしまった。そして七海の時間は動き出す。一緒にままごと遊びをした小さな亜紀ちゃんが、お化けを見ることのある亜紀ちゃんが、気を失って小町と交代してしまう亜紀ちゃんが蘇ってくる。亜紀ちゃん! 喉がひりつくほどの声で呼んだ。地面を這ったその手をガン、と踏み付けられ、目の前が真っ暗になった。そして火花が見え、次にようやく痛みに叫ぶ。
「ごめんなさい、ごめんなさい七海ごめんなさい」
 踏み付ける足をどかさないままに夏樹は泣き始めた。七海ごめんなさい、許して、こんなことしたくないの。でも嫌なの、あの子や老人のところへ行かないで、七海、七海、七海。そう繰り返す。
「分かった……分かったから……お願い、夏樹、どいて、許して」
 まるで奴隷の契約だった。夏樹が足をどかし、滑りこむようにして血濡れの手を絡めてくる。踏まれた手はもはや痛いのかどうかも分からなかった。されるがままに七海は立ち上がり、ふらふらと車に乗った。ドアが閉まる直前、三島亜紀を見る。未だ起き上がらず、しかし目を開いていた。無表情で空を見つめる彼女に、声には出さず名を呼んだ。
 ――小町。
 小町の目が動き、視線が合った。ドアが閉まる。
 異様な上機嫌で今後の生活についてお喋りをする夏樹の隣で、七海が全てを捨てた瞬間だった。 


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