老老介護のエッセイを読んで
婦人公論webの林久美子さん「オーマイ・ダッド!」というエッセイを読んだ。林さんは65歳で夫はおらず、母と弟は若くして亡くなり、父が93歳で40年やもめの一人暮らしをしている。
昭和の男は、料理はせず食事はスーパーで買う。掃除洗濯はせず、娘のサポートでこれまで暮らしてきた。同居をすすめても断られ、90歳をすぎても車の運転をした。
『今思えば80歳を境に、人に対する配慮のなさが増え、自分自慢が顕著になり、都合の悪いことは忘れるという兆候が現れていた。それを個性だと思って目をつむっていたことが、良かったのか悪かったのかわからない。』
『私はインターネットで認知症の症状を調べてみた。忘れてしまっていることを覚えているかのように言ったり、振るまったりするのは「とりつくろい反応」というもので、かなりよくあるらしい。』
家事代行や配食サービスの利用は拒否され、家の中に他人が入るのを嫌がる。汚れていても俺は気にならない、気になるならお前が掃除をすればいいと言う。足の爪が自分で切れなくなり、仏壇の母へコーヒーをあげるのを忘れ、どんどん父が壊れていく。
ついには、車庫入れに失敗して廃車にし、いよいよ免許返納できると思ったら、ディラーで車を買おうとする。それは、娘を頼らず自力で生きていきたいという心の現れであった。
介護認定をしても要支援1にしかならず、筆者の介護は始まったばかりで本格的な支援が必要になるその日まで、通い続けると結んでいる。
もう90歳を超えたら、施設利用させてあげてもいいんじゃないかと思った。親しい人は亡くなり話し相手が減る。物はなくしたら再発行してもらえばいいと言う。再発行する側は手間ばかりかかる。
自分では、今までどおり何でもできていると思って暮らしているが、実際は人に頼っていることを素直に認められないプライドの高さがあだになっているように思う。できないことは、お願いと言ってくれたら手伝ってあげられるのに、なかなかうまくいかないものだ。