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個人的な絵って芸術になるのかな

考えごとメモ

芸術として讃えられる作品とそうでない作品の違いってなんだろうか。

他者に見られることを意識しているかどうか、が一つの線引きになりそう〜って思ってる。
作品を他者に見せたいということは、見せることによって何か起こしたいアクションがあるって解釈してる。例えば大衆に訴えたい主題があるとか、造形の工夫を見て楽しんでほしいとか。

アウトサイダーアートが美術史上で取り上げられないのは、作品は作者の自己満足で制作されてることが多いので、他者とのコミュニケーションが意識されていないからかな。他者とのコミュニケーションを図っている場合でもその範囲が身近な人だけだったりとか。おしゃべりを言葉じゃなくて絵でやってるような感覚?
「アウトサイダーアート史」を作りづらいのも、他の人の作品から発展させようという意識を持って制作しているわけでないというか、作者ごとに作品が孤立してるからかもしれない。アウトサイダーアート史というよりアウトサイダーアート図鑑の方が作りやすそう。
あとアウトサイダーアートは作者が主体として発表する作品よりも、作者の生活を助けている人が作品に価値を見出してアートとして発信している、という特徴もあるよね。でもフェルメールみたいに一旦は忘れられたけど後の時代の評論家に再発見されて美術史に組み込まれる巨匠もいる。
美術史を紡ぐのは作品の新規性を評価する側なので、本人主体で作品を発表しているかはそんな重要じゃないのかな…。

造形言語を意図的に操っているか、ということも芸術か否かの線引だと思う。ピカソはある意味アウトサイダーなアフリカ美術から着想を得てキュビズムの様式を完成させたそうですが、引用元がプリなんとかティブ…でも、意図的に活用すれば美術になるのか。
精神科などで実施される描画テストは医者の指示に従って取り組むため自発的に描かない&意図的に造形の美しさをコントロールしてないため、完成した絵は芸術作品として扱われないと思う。でも絵の解釈は精神医学のみならず芸術にも関心がある人じゃないと厳しそうだと思った。

芸術の質を評価する際の観点の一つとして、作者が意図的に造形言語を操っていたり主題に対する理解の深さだったり…なのかな。意図的にコントロールして編み出した技、というのが重要。
でも直感で書きました✌みたいな絵ほど崇高なものとして扱われるとこが多い気がする。直感の中にも作者が気づいていないだけで理性的なコントロールはあるのだろうけど。

絵画活動の始まりは自分の好きなように描いた自己満足な絵だと思っていますが、それを芸術として認めさせるために必要な要件が何なのかすごく気になる。鑑賞者側の認識の話じゃなくて、作品自体の振る舞いといいますか…。
よそ行きのワンピースとか、履歴書の下書きをペンでなぞるとか、ぶりっ子の語尾とか、そんな感じの何か芸術作品にもあるんだと思う。
原始的な態度から芸術の枠組みにはまろうとする態度の境目を見つけたいと思った。


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