誰もいないポートレート 4

4 誰もいないポートレート

 最後にもう一枚。
 雪原の写真だ。地平線まで広がる雪原で、あるものと言えば、葉をすべて落とし、立ち枯れた、細い木々が点々と写っているだけだ。雪は枝に積もり、朽ちたその木が遠目になんの木であるのか、誰にもわかりはしないだろう。日はなく、画面は薄い膜を通して見るような闇に覆われている。時は薄明のようにも見えるけれど、空は濁った薄灰色で、暁の微かな残光も見えはしない。だからきっと、そこはただたんに暗いだけなのだ。
 あるいは、この風景の空気の中には、細かく砕かれた雪の粒子がまざっているのかもしれない。目に見えない雪の粒子は、光の拡散を拒み、吸収し、凍てつかせて、灰のようにこの雪原に降り積もったのかもしれない。光の墓場――僕はそんな、架空の世界の架空の物理法則をその写真に見ている。
 寒いのだろうか? きっと寒いのだろう。おそらくそこは誰も知らない名前のない山小屋の入り口で、僕はそこから写真を撮ったのだろう。なぜそんな写真を撮ったのかはわからない。ただその写真を撮りたいという衝動だけは理解できる。写真を撮るだけじゃない。ナイフを持って走り出し、死んだ雪たちを深く踏みつけて、わずかに残る細く枯れた木々にナイフで傷をつけて回りたい。僕はその写真の先を理解できる。冬の寒さの中で、あらゆる人間性の物語は死に絶えたのだ。

 僕はそれが、ポートレートであることをなぜか知っている。誰もいないポートレート。それこそが僕自身の自画像ではなかったか、と。

 *

 男三人がカウンター席に並ぶ光景なんてのは、たいていろくなもんじゃない。
 そこはどこにでもある居酒屋チェーンだ。ありきたりな味のビールと没個性的な食い物。店員の目は一様に明るさを失っていて、一挙一動がこちらを不安にさせる。子どものころに聞いたことのある曲ばかり有線から流れていて、「おまえたちの世代はここで酒を飲むんだぞ」と資本主義から指定されているような気持ちになる。なにもかもがろくなもんじゃない。
「仕事はうまくいっている。やりがいもある。この歳で連載枠なんかもらって、物書きの真似事までやれている。ありがたい話だ」
 それが僕の左隣に座っている喜多川の近況。その言いようは、まるで映画に出てくる軽薄な殺し屋がターゲットの経歴を読み上げるようで、投げやりで自嘲的な趣があった。
「いい人生だ」と順風満帆からほど遠い写真家もどきは素直に評した。
「俺は腐りつつある。腐っていっている。腐っている」
「そのこころは?」
 こういう時の喜多川は、相手の(というかたいてい僕の)茶々は無視して自分の語りのペースを崩さない。
「生活が安定すればするほど、情熱の低下を感じるんだ。手際よくこなして、自分がやりたいことを打ち込める時間と環境を作って、すべてが整理整頓し終わった部屋の中で、俺は俺自身が書くべきことがわからなくなった。ただ、俺は本当にこんなものになりたかったのかという呟きだけがある」
「詩的だな。まだまだ書けるじゃないか」
 喜多川はようやく僕の顔を見て、吐き捨てる。
「大喜利でも詩でもねえよ。現実的な課題だ」
「そういうの片付けるのは得意なんだろ?」
「だからこうしてうまくもない酒を飲みに来ている」
 ちょうど通りがかった店員は死んだ目のスマイルのまま通り過ぎた。
「でも飲めば飲むほど、自分がくだらない年寄りに成り下がった気がする。俺はただのおっさんで、日に日に年老いて鈍っていくのを酒で誤魔化している、そういう人間になってしまった気がしてくる。しかもそれは事実なんだ」
「僕もおまえも歳をとる」
「うん」と喜多川は言って僕の言葉を待った。だが僕が一向に続きを口にしないので、喜多川は困った顔をして「で?」と促した。
「ただそれだけ」と僕は言った。「ただそれだけだよ、喜多川。そこには何の留保も物語もない。僕たちは歳をとっていつか死ぬ。ただそれだけだ」
 喜多川は天を仰いだ。喜多川の左隣で静かに話を聞いていた宇和島が、何分かぶりにジョッキに口をつけた。
「たぶんな」
 ビールを一口、僕はまた余計なことを言おうとしているな。
「誰だってそうなんだろう。僕たちの年齢に差し掛かったとき、今よりもまだ若かったころとは同じじゃないんだって、誰だって、そう思って、老いを知識ではなくて実感として知るようになる」
「これはそんな話なのか?」
 その程度の話なのか、という喜多川の反語が僕には聞こえる。
「その程度の話なんじゃないか。そしてその程度っていうのは傍から見ればその程度で、自分のことになると深刻で、誰もがそのように感じているから、自分だけが特別ひどい落胆に陥ってると思い込む」
「よくある話、というやつか」
「そういうことだ」
「だが」
「だが、それがどれだけよくある話でも、その人間にとって深刻なことには変わりない。交通事故の死者数が年間数千件あっても、その一件一件が取り返しのつかない個人史であることに変わりがない」
「さきに言うなよ」
「たまにはな」
「相変わらず仲いいですね」と宇和島が長い沈黙を破ってそう言った。
「そう見えるか? これでも今日は覚悟して、濡れてもいい服で来たんだ」
 喜多川はようやく手を出したお通しを口に含んで「悪かったよ」とまた吐き捨てるように言った。
 宇和島とはたまに酒を飲む機会があったが、喜多川とは、たぶんジンの一件以来だった。どういう風の吹き回しか、喜多川は僕と宇和島を飲みに誘った。特別断る理由がなかった僕は二つ返事で了解したのだけれど、喜多川はなにを思ったか、僕一人で来るように念を押して指定した。言われなくても、彼女を巻き込む気はさらさらないというのに。
「砂川も村山もいなくなった。おまえも辞めた。最初期のメンバーで残ったのは俺たち二人だけだ」
 言って、喜多川はなにかの合図のように宇和島のグラスに自分のグラスを当てた。グラスは鈍く響いた。
「まさかおまえも辞めるとか言わないよな?」
 宇和島は一瞬びくりとしたように、短く息を吸い込んだ。
「俺はここしかありませんから」 
 ひどく寂しそうに、まるで辺境に住む隠者のように宇和島はそう言った。
 広告会社に勤める宇和島は、僕から見ればまっとうで安定した人生を歩んでいるように見えた。本人は、大手の下請けのさらに下っ端みたいなものだと自嘲していたが、宇和島の勤め先は僕らのようなフリーランスにも評判のいい、中堅どころの会社だったし、宇和島自身もその中で堅実に実績を積んでそれなりの評価を得ているのを、仕事先と付き合のある僕は知っていた。宇和島は派手な才能はなかったけれど、たいていのことは過不足なくこなすことができるタイプの人間だった。地頭がいいし、性格も温和、要領も悪くない。僕らが曲がりなりにも組織的に動けることができたのも、宇和島が緩衝材としてうまく立ち回ってくれたところが大きい、と僕は思っている。
「あるいは、宇和島が一番塾を大切にしていたのかもしれない」
 僕がなんとなしにそうつぶやくと、二人とも黙り込んでしまった。喜多川はバツが悪そうに顔をしかめ、宇和島は寂しそうに視線を落とした。
「帰って来いよ」と喜多川は言った。「人が足りないんだ。単純な仕事量の話じゃない。熱量がいるんだ、もっと。あのおまえの講座みたいのなのが、今の俺たちには必要なんだ」
「俺も、正直田村さんには戻ってきてほしいと思います」と宇和島は言った。「もちろん無理強いするつもりはありませんけど、あの、写真の講座みたいなやつ、またやってほしいですよ」
「でも、人は増えるんだろ? ほら、入塾試験みたいなのがあるって前に言ってたじゃないか。僕なんかいなくても、次に新しい人が出てくるさ」
「そのことなんだが」
 喜多川と宇和島の現役塾生組が僕を不安そうに見る。なんだ?
「橋本アミさんのこと、おまえなにか聞いてないか?」
「いや。特別なにも。なにかあったのか?」
「彼女、塾には入らないつもりだってさ」
「そうなのか」
「はい。田村さん、なにか聞いてませんか? 彼女、熱心だったからてっきり来てくれるものだと思って、もうほとんど『試験さえ受けてくれれば入塾してもらう』くらいのつもりだったんですが」
 そいつは縁故採用みたいなもんじゃないか、と思いつつ、
「まったく聞いてない。僕も意外だ」と率直に口にした。
「そうか。なにかおまえが余計なことでも言ったのかと思って、探りを入れるつもりだったんだが、知らないか」
「それを僕に言うのは、探りを入れるとは言わないな」といつものように適当にあしらっておいて、「で、今日わざわざ僕を呼んだ本題は、それか」
「本題というほどじゃない。俺にとっては酒を飲むための口実だ。で、おまえは知らんと来たのでこの話はこれで終わり」
「でも残念ですよ。橋本さんは塾の中核メンバーになる人だと思ってたんで。もしかしたらなにか塾でトラブルでもあったんじゃないかと気になって、二人で田村さんに話を聞いてみようと思ったんです」
 言われてみて、心当たりを思い出す。だがそれが直接の原因かどうか彼女に確認したわけでもないし、ここは憶測でものを言うべきではないだろう。
「まあでも、本人が決めたことなら仕方ないですね。塾の方はいつでも歓迎すると、橋本さんにはお伝えください」
「ああ、伝えておくよ」
「もうひとりの、橋下ちゃんの方も残念がってた。彼女は正式に入塾したよ」
「橋下――サクラさんね」
「おまえ、彼女とやりあったらしいな」
「言うほどのことじゃない。少しすれ違いがあっただけだ」
「ふうん。じゃあまあ、そういうことでいいさ」
 それで二人の用件は終わったらしく、そのあと始まったのはいつもの馬鹿だった。たわいもない、いちいち覚えてられもしない話をしたのを、僕は今も覚えている。長々と馬鹿を積み重ねたあと、
「ねえ田村さん、俺たちは間違ってたんでしょうか?」と宇和島が言った。
 喜多川は興味なさげに皿に残った肴をつついて、ふうんと小さく唸った。
 宇和島が言ったことは、きっと前に話したことの続きだろう。先生は僕たちがなにを成すのか見たいのだろうと。そして、これでよかったのか、と僕に訊きたいのだということはちゃんと伝わった。だから、
「いや」と僕は言った。
 喜多川は行儀悪く皿を箸で軽く叩き、宇和島はなにかを期待するように少しだけ楽しげに表情を崩した。
「そもそも、間違ってるとか、正しいとか、そういう問いの立て方自体が無意味なんじゃないか」
 宇和島は音楽でも聴いているかのように小さく何度か首を縦に揺らした。僕は続けた。
「砂森は結婚して、村山は地元に戻り、宇和島は塾に残った。それは僕らがやってきたことの積み重ねの結果だよ。みんなあの場所でなにかを学んだからこそ、それぞれの道に別れた。そこに正誤や善悪の判定を下せる存在なんてどこにもいない。神様だってやらないだろう」
「でもそれは、少し安直な救いの話のように聞こえます。あまり、その、田村さんがそんなことをいうのは珍しいな、って」
「たしかに気休めみたいな話かもしれない。でも僕はたぶん今けっこう残酷なことを言っているんだ」
「というと」
 いつものように喜多川が促す。
「僕はこの先塾がなくなってしまっても、それはそれで仕方のないことだと思っている。むしろ、たぶんそんなに長く続くことはないさえと考えている」
「嫌な予言だな」
「予言なんてもんじゃない。もっと単純な話だ」と僕は言った。「塾は代替わりするし、先生も高齢に差し掛かってる。人は老いて、やがて死ぬ」
「なんだ、さっきの話じゃないか」
「でも田村さん、代替わりするなら塾は続いていくんじゃないですか」
「たぶん、数年はね」
「それ以降は? たとえば何十年も続くことは」
「ないだろうね。そもそも僕たちは塾を、存続を目的とする場所として形作ってこなかった。最近になってそれがようやくわかるようになった」
 二人は居たたまれないような、申し訳なさそうな、あるいは「言いにくいんだが」と前置きするときのような、気恥ずかしそうな顔をした。僕はどうやらまた失敗したらしい。
「それはおまえだけじゃないか。おまえはなんというか、いつも塾そのものにはあまり興味がなさそうだったからな」
「そういう話じゃない。僕もおまえも、先生も辞めたやつらも、みんな、そうなんだ。僕らは学んでいた。そりゃ確固とした専門知識や、なにか肩書きがもらえるような資格試験じゃなかったかもしれないけれど、あれはたしかに学びだった」
「そりゃそうだ。俺たちは学んでいたし、今も学んでいる」
「だから、さ。学びというのは学んでいる主体そのものが学ぶことで学び自体が変化する運動のことだ。少なくとも僕らがやってきたことはそういう類のことだと僕は思っている」
 僕のややこしい言いように、宇和島は疑問の色を浮かべて僕の言ったことを繰り返そうとした。
「なんとなくわかる気がするんですが、つまり渋滞予測をすると、その予測のせいで人流が変わるから予測にずれがでる、みたいなことですか」
 僕は深く頷いて、「仕組みはそういうことだと思う」と宇和島の理解を助け船に話を続けた。
「子どもは成りたい自分になるために学ぶわけじゃない。学んだ結果成るべき自分を知るんだよ。だってほとんどの場合、なぜ自分がそれに成りたいのか、本人だってちゃんとわかってるわけじゃないからね」
「んで俺たちは学んだ結果変わるんだから、そいつは永続性とか存続とかを目的としていたない、って筋か。でも、どうかねえ。それと塾の存続は別の話じゃないか。変わった結果、やっぱり塾を続けたいとか、続いていく場にしたいとか、そんな風になるかもしれないじゃないか」
 宇和島も僕の話の筋の粗に気づいていたのだろう。喜多川の言いように小気味よく頷いた。
「そいつはまあそうかもしれない。でも、もし塾が続いたとしても、それは僕たちが続けた塾とはまったく別のものだろうさ。名義は同じでも」
「ああ、まあそれならわかるな。俺たちが始めたすじかい塾は、きっとあの一時だけのなにかだったんだろうな」
「でも、俺は最後まで続けますよ」
 宇和島は、彼には珍しくはっきりとした意思を示して、繰り返した。
「どうなるかわからないけど、俺は塾に残ります」
「それならそれでいいさ。僕の馬鹿みたいな予言なんて気にしなくていい」
 僕は一つ下の後輩のその意思に、敬意を示したかった。でも、どんな風にすれば敬意を示したことになるのか、それはわからなかった。たとえなにか言えたところで、一番に塾から手を引いた僕の言葉なんか間抜けな冗談にしかならなかっただろう。
「ところでずっと気になってたんだが」
 喜多川がいつものまぜっかえす口調で楽し気に僕に訊ねた。
「俺とおまえが成るべき風ってなんだ? さっきあえて俺たち二人の名前を外したろ」
 どうでもいいことを気にするやつだな、と僕はちらりと考えて、端的に答えてやった。
「勘定払って、帰って、寝る、だ」
「違いない」と喜多川は小さく笑った。

 その日、仕事のない日の多くをそうするように、僕と彼女は写真を撮りに近所の散策に出かけた。休日には電車で遠出して、いつもと違うものを撮りに行くこともあったけれど、平日は彼女の学業があるので近所の写真を撮るというのが、暗黙の了解、というかなんとなくの習慣になってしまっていた。このころになると、彼女は僕の部屋にいないことの方が少なくて、ほとんど同棲生活のようになっていて、本当になにをやっているだろうと思いながら、毎日のように朝食のあとに「今日は外を撮りに行くけど君も来るかい?」「はい、行きます」なんて茶番を繰り返していた。
 二人いつもの疎水沿いを歩く。僕はカメラをぶら下げるだけで、彼女は僕の後ろを歩きながら、ときどき立ち止まって被写体にカメラを向けていた。彼女のカメラが止まると、僕は立ち止まって、彼女の撮影の動きを眺めた。出会ったころのたどたどしさはとうに消え、厳しさと緩さ、冷酷と温和を同時に対象に向ける、熟達した漁師のようなシャープさを、僕は彼女から感じ取ることができた。それは人が見惚れるに値する「なにか」だった。「なにか」に代入すべき言葉を僕にはうまく扱えないけれど、そいつは、そう悪くないなにかだ。彼女が立ちあがると僕もゆっくりと歩き出す。眺めていたことの気恥ずかしさを誤魔化すように、前を向いて彼女を見ない。
 いつもそんな風に、ペースは写真を撮る彼女に合わせて、僕自身は頭の中で撮れない架空の写真ばかり撮っていた。
 そのとき彼女が撮ったのは、疎水の橋の下に集まっていた鴨の群れだった。橋の下に他の水路からの合流口があって、その上の少し平たくなったコンクリートの出っ張りに十匹弱の鴨たちが身を寄せ合って縮こまっていた。その場所が歩道より低い位置にあったせいで、彼女は疎水の歩道で屈み込んで地面に膝をつけて、低い姿勢でカメラを構えていた。年の瀬近づく12月の歩道は、鴨たちの群れる橋の下のコンクリートよりよほど冷たいに違いなかった。
 僕は写真を撮り終えて立ちあがった彼女に、
「少し訊いてもいいかな」
 と話しかけた。
 僕がそんな風に彼女の撮影のあとに話しかけるのは珍しかったからだろう、彼女は少し驚いたように目を見開いて、僕の目をまっすぐに見た。彼女はベージュ色をした厚手のダッフルコートに身体を包んで、まるで頭だけひょっこり巣穴から出てきたようで、僕は広い雪原の中に隠れ住むなにかの動物をイメージしそうになったのだけれど、具体的な動物の形をとる前に、イメージは消えてしまった。そういえば、最近彼女がなにか帽子を被ることが少なくなったな。
「すじかい塾の入塾試験受けなかったって」
 彼女は僕から半瞬だけ目を逸らし、そしてもう一度僕の目を見た。「はい」と彼女は言った。いたずらのばれた子どもが、しかし恐れたり竦んだりせずに、ただ残念そうにするように、短く「はい」と。
「理由を訊いてもいいかな」
 彼女は考える時間そのものを撫でるように、自分のカメラに指を這わせた。
「自分でも、うまく言葉にできないんですけど」
 そう言って彼女は言葉を止めて、またなんどもカメラを指の先で撫でた。
「いいんだ。べつに無理に訊きたいわけじゃない」
 僕はそう言って歩き始めようとしたけれど、彼女の動く気配を感じられなかったから僕はやむを得ずその場にとどまって彼女の言葉の続きを待った。
「すじかい塾にはずっと入りたいと思ってました」
「うん」
「実際、もぐりで参加してみて、すごく楽しかったです」
「そりゃよかった」
「でも、そこは私が入りたかった、ずっと本で読んでいたすじかい塾じゃないんです」
 僕はそう言われて、困って、あたりを見回した。歩道の端に据えられた12月のベンチは、冷たそうで、落ち葉が溜まって、あんまり居心地の良さそうなものではなかったけれど、僕は「座ろうか」と言って、落ち葉を軽く払って座った。彼女も隣に座った。お互い目を合わせることはなく、疎水の流れを眺めていた。こういうときはいつも彼女と流れていくものばかり見ている気がする。
「塾はそんなに変わったかな」と僕は訊ねた。
「田村さんの知っているすじかい塾が変わったのかどうか、本の中の塾しか知らない私にはわからないです。反対に私が訊きたいです。すじかい塾は変わったんですか?」
「どうだろう。たしかに変わった部分はある。僕が在籍してたころにも大小の変化はあった。でも、今年塾に講師として顔を出してみて、そこまで本質的、というか、核になる部分の変化があったようには感じられなかった」
 みな飢えていて、その飢えを誠実に癒そうとしていた。あの橋下サクラでさえそうだったのだ。以前宇和島が言っていたような、俗化や変質を僕はそれほど感じてはいなかった。
「じゃあきっと、私の方が間違ってたんです」
 彼女は、表情一つも変えずにそう言ってのけたけれど、でも僕はとても痛そうだな、と思った。小さな針で指先の一番敏感なところを刺してしまったような、そんな光景を目の前で見たように、痛かった。そいつは、大切な宝物が急につまらなくなってしまったときの少年の顔だよ、と僕は言わなかった。
「私が求めていたものは、田村さんたちのいる塾だったんだなって。それに気づいたとき自分はここにいちゃいけないんだなって。なんだか年上の子が下の子の遊びグループに紛れ込んじゃったみたいな、申し訳ない気持ちになったんです」
「そうかな。君はまだ学生なんだし、そんな風に、遠慮というのかな、引け目みたいなものを感じなくてもいいんじゃないか」
「もういいんです。実は初めからそうじゃないかと思ってたことなんです」
「初めから?」
「田村さんに初めて話しかけたときから。もしかしたら、それよりずっと前からかもしれません」
「それは、なにを?」
 彼女はまた言いにくそうにして、カメラを触ったり、ベンチから伸ばした足を軽く上下に動かしたり、時間をかけて、言葉を考えていた。
「うまく説明できないかもしれないけど」と彼女はようやく口にした。
「私がいたかった場所は、私がいることで、私がいたかった場所じゃなくなる、そんな感じ、です。言ってること、わかります?」
「たしか文化人類学者のクロード・レヴィ=ストロースが言ってたっけな。文化人類学ってのは因果な仕事で、近代文明の入っていない部族に分け入ってその文化を調べるわけだけど、入っていくことでそこはもう未開の文化じゃなくなってしまうってね」
 僕は自分の知識の中から近そうな話を引き出してみる。まるで、衣替えの時期に、たしかここにあったはずだけど、と衣装ケースの抽斗を開けるみたいに。
「あるいは、未来予測のパラドックスかな」
 ついで宇和島が言っていたことを思い出す。
「対象に対して観察者が影響してしまうから、その対象をそのまま観察することができない、そういう類のことかな」
「……たぶん。そういうこと、かな」
 彼女は慎重に自分の言葉と僕の知識のすり合わせを行っているようだった。数秒間彼女は沈黙して、それから納得したように軽く頷いた。
「私はわがままな人間なんです。私がなにかを欲しがると、欲しかったものが壊れてしまう。きっと弟か妹がいたら仲が悪かっただろうなって時々思います」
 それについて僕はなにも言えなかった。なんせ一人っ子だったから。
 僕らはそれから長いあいだ口を閉じていた。なにかを考えていたような気もするし、なにも考えずにただ冬の重く透明な空気と、冷え切った鴨を眺めていただけのような気もする。なにか気の利いたことでも言えればよかったのかもしれないし、ただ二人並んで座っているのが一番の正解だったような気もする。しかしそんな寒いだけの時間は、僕にとっては悪くない時間だった。こんな風にあいまいで長いだけの沈黙を彼女と一緒に過ごせるのなら、それは誰かのファインダー越しに見れば幸福なことのように思えた。彼女にとってはどうだったのか、いまだアミに訊いてみたことはない。
「ならいいさ。君が決めたことなら。塾でトラブルがあったわけじゃないんだよね?」
「え、あ……はい」
 と僕が言うと、なにか思い出したように彼女が調子の外れた高い声を出した。僕が少し驚いて彼女を見ると、彼女も同時に僕の方を見た。僕と彼女は見つめ合った。
「橋下サクラ……さん?」
 僕がその人名を口に出すと、さっきまでの慎重そうな賢い光が彼女の瞳から消え、当番を忘れて遊び惚けていた子どものような、気まずそうな、恥ずかしそうな細目を作った。ほぼ間違いなく、なにかあったようだ。
「それが原因ということ?」
「いえ、その、原因というか、きっかけ、にはなったかもしれません」
 言いながら彼女はなにかを思い出したのだろう、少しずつだが口元を苦々しく歪ませていった。唇に力を込めて、自分の中になにかを閉じ込めようと、彼女は躍起になっていた。「思い出し笑い」ならぬ「思い出し怒り」なるものがあるとすれば、それはこういったものだろう。
「あの人とは、はっきり、関わらないことに、しました」
 彼女はたまった空気を少しずつ抜くように、そう言った。
「関わらないと決めたことは、私はもうぜったい関わらないようにしています」
 彼女がそんな風に誰かやなにかにあからさまな怒りを露にすることは珍しいことだった。
「君がそこまで怒るようなことって、ちょっと想像できないな。僕に話せることなら聞くよ。もしなにか法に触れるようなことなら……」
 なにか大きなトラブルなら、塾に紹介した手前僕にも少なからず責任がある。万一のことを考えて、打てそうな手をいくつか頭の中に挙げていると、
「すみません」
 彼女は慌てたように自分の怒りの色を抑えた。
「あんまり言いたくないことなんです。それに法律に触れるような深刻なことでもないんで、だいじょうぶです」
「じゃあ、聞かない。この件には触れないでおくよ」
「はい、田村さんにはそうしていただけると、ありがたい、です」
 彼女にはそう答えたのだけれど、橋下サクラの悪評を知っている僕としては、塾のことは気にしておく方がよさそうだと考えていた。場合によっては先生や喜多川を動かしてもいいだろう。僕が少し剣呑な想像にまで手を伸ばしたところで、彼女が急に声を出した。
「ああそうだ」
 まるで今思いついたようにそう彼女は言ったけれど、でもそれはそんな風を装っただけだと、僕には何となく予想がついた。そういう目をしていたのだ。
「一つだけ、田村さんがいた時と今の塾とで、ぜったいに違うことがあるんですけど、わかりますか?」
 僕は橋下サクラに関するトラブルの件を考えるのを止めて、視線を疎水の流れに戻した。たぶんそれこそが彼女が本当に僕に言いたかったことなんだろうな、と僕は流れていく一匹の鴨を見ながらそう考えた。あいつはなんで群れを離れて寒い流れの中でとどまっているのだろう。疎水じゃたいした餌もなかろうに。見た目にはただ川面に静止しているようにしか見えない運動を、鴨はずっと無為に続けていた。あんなものレンズを向ける気にもなれない。
「それは……どういう意味だかよくわからないな。そりゃ違うことくらいいくらでもあるだろうし、たいした変化じゃないと言ってしまえば、変わってないとも言える」
「いいえ、それはとても大きな変化です。たぶん誰にでもわかるような大きな変化ですよ」
 僕は少しの間真剣に考えたが、彼女が言うほどの変化について心当たりがなかった。
「すまない。そこまで言われるほど大きな変化は、わからなかったな。塾か、先生になにかあったのかな」
 このあいだ三人で飲んだときも、そんな話はなかったように思う。喜多川や宇和島が僕に言ってないとなると、僕とは関係のないことか、気を遣わせないように黙っているか、どちらかだろう。それともさっきの話に関わることだろうか。しかしどのような変化にしろ、僕に答えられる類のものではなさそうだ。
「田村さんがわからないなら、秘密にします」
 彼女の声には、ほんのわずかに震えの色があった。きっと寒かったのだろう。

 *

 先生が入院したという知らせを受けたのは、年明けの1月13日のことだった。僕は今でもその日付を覚えている。たいした理由があるわけじゃない。自分の端末の日付表示を見ていたとき、ちょうどその連絡があったというだけだ。だが、ただそれだけだというのに、先生と病院と1月13日のディスプレイの表示が、僕の中で視覚イメージと意味の組み合わせとして関連付けられたまま、ずいぶん経った今でも消えずに残っている。人の死なんてそんなものなのかもしれない。脈絡もない日常のイメージと勝手に結びついて、焼き付いた像のようにいつまでも残ってしまう。
 その日、僕は仕事上がりの夕方に、先生の入院するその地域の中央病院へ見舞いに訪れた。面会時間終了前の十数分程度だったけれど、僕は先生と話をする機会を持つことができた。
 ノックをして病室の戸を開けると、先生が窓からこちらに首を動かす動作が見えた。狭い個室に他に人はなく、私物もなく、ベッドわきの花瓶に誰かが持ってきたのだろう見舞いの花がさしてあるだけだった。最初先生は誰が病室を訪れたのかはっきりとわかっていないようだった。五秒ほどして、意識の焦点があったのだろう、「やあ」と僕に話しかけた。
「入院したというから、見舞いに来ましたよ。はい、お土産です」
 僕はそう言って、小さな菓子の包みをベッドのサイドテーブルに置いた。先生の病名は知らなかったけれど、病人でも食べられそうな一口カステラの詰め合わせだ。先生が食べなければ塾の誰かが見舞いに来た時につまめばいい。
「わざわざ、ありがとう」
「いえいえ。たいしたものじゃないです」
 先生はすっかり病人の顔になっていた。入院したのは2、3日前だと聞いたけれど、ついこの間まで普通に日常生活を送っていたとは思えないほど、頬の肉が削げ落ちていた。身体の動きも緩慢で、腕をベッドから出す動作さえ、錆びた蝶番を無理やり動かすように痛々しかった。
 僕が予想していたより、先生の容体は悪かった。今すぐどうというものなのかはわからなかったが、今まで僕の人生の中で見たことのある、死に近い人間の動作に、それは近かった。
 二言三言、ベッドの傍で言葉を交わして、先生は僕に「まあ座りなよ」と言った。僕は近くにあった簡易な丸椅子に腰かけた。僕の表情や目の動きで、だいたい僕の考えたことを悟ったのだろう、彼は柔らかい口調で話し始めた。
「君はもう部外者だから、言ってしまおうかな」
「逆じゃないですか?」と僕は言った。
「いや。これでいいんだ」と先生は言った。
 二人とも、次になにが話されるのか、よく理解していたのだ。
 先生は、軽く、笑うように息を吐き出すと、
「いわゆるガン家系でね」と楽しそう言ってのけた。「祖母も父もこれで死んだよ。実は医者にかかるのもこれが初めてじゃない。一度は寛解と言われてたんだが、まあやっぱりね」
「今はガンも治る時代でしょう?」
「どうかな。私ももう歳だしね。もし今回はそうじゃなくても、それほど長生きはしないだろうね」
「先生」僕は窘めるようにそう声に出した。
「すまないね。べつに悲観的になってるわけじゃないんだ。むしろ、自分が当事者として死に近づいていくというのを実感できて、元哲学者としてはちょっと興奮してるくらいさ」
「塾の誰かには言ってないんですか?」
「もう少し黙っていようと思う」
 まるでクリスマスプレゼントを隠す父親みたいな茶目っ気で、先生は言ってしまった。
「なんでまた、そんな」
「私がいなくても塾は進んでいく。むしろ私がいなくなったとき彼らがどうするのかそれに興味がある」
「死んでしまったら見れないです」
「なあに、私の代わりに誰かが見ててくれるさ。あるいは歴史が、かな」
「せめて喜多川や宇和島には伝えたらどうです。本当に、万一のことがあったとき、あいつらが中心になるんですから」
「いや、むしろ彼らには最後まで知らせないつもりなんだ。とくに喜多川君にはね」
「それは、なぜ?」
 僕の声は非難の色を帯びて病室に鋭く響いた。そんな義理はないはずなのにな、と自分でも思うけれど、僕は少し怒っているようだった。悪意はないだろうが、実質的に一番弟子のようなあいつに知らせないのは、先生にしては不誠実が過ぎた。しばらくの間、僕らは冷蔵庫のモーター音だけを聞いていた。
「彼はね。若いころの私によく似ているんだ」と観念したように先生は言った。
「そうなんですか?」
「うん。リーダーでね。自分の言葉をみんなが聞いてくれて、それで、ああ、ダメだな、やっぱり、この話はまた今度」
「はい」
「なんにせよ。君を信頼して話したんだ。彼らには秘密にしておいてくれ。君も知らなかったことにしてくれたらいい」
「はい」
「わがまま言ってすまない」
「いいえ、こんなのいつもの先生のおふざけじゃないですか」
「そうだね」
 と言った先生の顔は、いつもの少年のような輝きを失って、年相応の老人の核がむき出しになっていた。僕はそのことを特に指摘もしなかったし、表情にも出さなかった。
「まあ、私が死んだ後のあれこれは、なんとかなるようにしてあるつもりだ。葬式もできればしないでもらうつもりだし、引継ぎに関する法的な手続きも弁護士に頼んである。あとのことは生きてる人間が決めればいい」
「先生、そんな言い方は」
「まあ意外と長生きするかもしれないけれどね」
 少しだけ生気を取り戻した声で老人はなんとかそう言ってのけた。
「こんな話をすると、君のことだ、先回りして世話を焼いてくれそうだけど、本当に実務上のことで困ることはそうないと思う。だから心配しないでくれ。そう言いたかっただけだよ」
 僕はそう言われて仕方なしに曖昧に首を振った。そして頭の中で考えていたいくつかの連絡先を黒く塗りつぶしておいた。
 先生は深く息を吸って、それから吐き出した。当たり前の動作なのに、どこかぎこちなくて、まるで壇上に上がらなければならなくなった、いたいけな小学生の深呼吸のようだった。それから覚悟を決めたように、先生は口を開いた。
「君が塾を離れたとき、本音を言うと少し寂しかった。君が塾を引き継いで、盛り立ててくれるんじゃないかと、少しだけ期待していたんだ」
「それは、すみません」
「でも同時にほっとしたんだ。君が私から離れたこと、私の仕事を引き継がなかったことに、ほっとした」
「?」
「わからないだろうね、私もこういう気持ちをあのとき初めて知ったよ。きっとこれは父親のような気持ちなんだろうね。自分と同じ道を進んでくれることを心のどこかで期待しているんだけれど、自分と違う道を自分の力で進んでほしいとも思っている。矛盾なようで、まっとうな、悪くない気持ちだったよ」

 先生の病室を出て、エレベーターに向かう途中、その階の待合ホールで知人を見かけた。ホールの窓辺のソファに腰かけて、その女は外を見ていた。八階の窓の外は夕暮れの市街地で、人々の営みを憐れむように淡い光の粉が街に降り注いでいた。女の顔は、いくらかその粉に濡れたように、輪郭をぼやけさせていた。そのせいだろうか、僕は女が知人であることに、八割程度の自信しかもてなかった。もしかしたら違う人間かもしれない、程度に。
 それもあって、僕は女に気づかなかった風をしてホールを通り過ぎようかと思ったのだけれど、女はなぜか僕が通り過ぎようとする直前に、振り返って僕を見た。もしかしたら窓ガラスに通り過ぎようとする僕の姿が写ってしまったのかもしれない。あるいはただなんとなく、運命的に振り返ってしまっただけなのかもしれない。ただ、女の首が動いた瞬間に、僕はいろいろなことを諦めて、ついでに覚悟もしておいた。つまり、面倒ごとに対する心構えというやつだ。
「こんにちは」とソファから立ち上がって、橋下サクラは言った。「先生のお見舞いですか?」
「ええ。元気そうで安心しました」
「そうですか。先生、だいぶ痩せていらしたから、少し心配だったんです」
 と言うからには、橋下サクラも面会はしたのだろう。なぜ今もこのホールに留まっていたのかはわからないが。
「病人なんてあんなものですよ。本人は病人の心理の考察が面白いなんて言ってたくらいですから、心配するほどのことじゃありません」
 僕がそういうと、橋下サクラは警戒の度合いを少しだけ緩めて相好を崩した。
「西町先生らしいですね。私たちよりだいぶ年上なのに、どこか少年みたい」
 橋下サクラのその言は、単純な好意に満ちたものだった。敬愛と親しみを両立させ、けっして笑いものにしたり、軽んじたりしているわけではない。それは橋下サクラが塾に入った理由に不純さがないことの証左でもある。
「この前のこと」
 と橋下サクラが口にした。西町先生の話題は糸口で、本題はやはりそれだったのだろう。僕は先回りして遮るように出来合いの言葉を間に挟んだ。
「ああ、すみません。僕が感情的になりすぎましたね」
「いえ、私の方こそ、です」
 橋下サクラが口にしようとした言葉は、無思慮な妨害のせいで夕方の病院のやぼったい、あのおしまいの中に消えてしまった。橋下サクラの、覚悟を決めたベクトルは、行く当てをなくし、しばらくさまよったあと、べつの話題に形を変えた。
「アミちゃんは元気ですか?」
「元気にしてるみたいですよ。仕事場でも優秀で、とても助かっています」
 白々しいなと自分でも思うけれど、僕は平然とそんなことが言えてしまう。
「塾にもあまり顔を出さなくなって、最近接点がなくて。私は、なんだか避けられてるみたいで、何度か誘っても断られてしまって」
「そういう時期なんじゃないですか。他からの干渉を受けずに独りで静かにしていたいっていう」
 僕がそう言ったのは、もちろん当たり障りのない着地地点に会話を落っことすためのもので、まったくもって誠実さとはかけ離れた言葉だったのだけれど、それを聞いた橋下サクラは深く自分を掘り返すような神妙な顔を作って、
「私にもそういう時期がありましたから、それはよくわかります」
 と言った。僕は自分の不誠実さに嫌気がさしてきた。
 面会時間終了間際の入院病棟に人気はなく、僕と橋下サクラだけが点呼に遅れた囚人のように夕方の中に留まっていた。僕はよほどさっさと会話を切り上げて、この場を去ろうと思っていたのだけれど、黙り込む橋下サクラの中に捨て置けない、あの小さな、切実な、その、彼女の核のようなものを見てしまって――見間違いならよかったのに!――僕は橋下サクラがなにか言おうとする、淋しい時間を待った。
「変なことを訊いてもいいですか?」
 と橋下サクラは言った。僕はなにも返事をしなかった。
「人はなぜ生きていると思いますか」
 ひどく抽象的な問いかけだった。橋下サクラは、目を開いて、僕を見ていた。その目を僕はよく知っていた。誠実な、獣の目だ。僕らの瞳だ。僕は痛みの中で酒が飲みたかった。
「答える前に、その質問に対してこちらからいくつか質問してもかまいませんか?」
 僕は自分の痛みも、思いも、飲酒に対する欲望も無視して、そうやって質問を質問で返した。
「はい」
「つまり『なぜ』というのは、人間の生きる理由とか、価値とか、意味性とかそういうことへの問いかけということですか?」
「はい」
「どうして『今』『私』に訊こうと思ったのですか? 答えたくなければそう言ってもらってかまいません」
 橋下サクラは考え込むこともなく即答した。
「なぜ田村さんかといえば、こういう質問に真剣に答えてくれそうだったからです」
 橋下サクラは視線を一度たりとも逸らさなかった。
「そしてなぜ今かと言えば――」
 病棟の待合室を見渡してから、橋下サクラは続けた。
「父が死んだときのことを思い出したからです。父もこういう大きな病院に入院して、そのまま亡くなりましたから。病気をして、長くはないからどこか家から近い小さな病院でケアしようかと家族で相談している最中でした。もう何年も前の話ですけど」
 それが嘘でも虚飾でもないことを僕は知らなければならなかった。きっと家族で相談している最中だったという、時期に対する記憶違いや物語における無理な整合すら、この話には無いのだ。
「そうですか」と僕は水を差しだすバーテンダーのようにそう言った。そして、できるだけ誠実に答えるために(そうできればの話だが)、考え、いくつかの穴を埋めるための質問をした。
「もしよければ、ご家族の話を詳しく聞いてもいいですか?」
 橋下サクラは意外そうな顔をした。
「もちろん、無理にではありません。話してみたければでかまいません」
 橋下サクラはすこしの逡巡のあと、
「つまらない話になるかもしれませんが」と断ってから話し始めた。ひどく無表情に、痛みを痛みと見せないように、僕がよく知る人たちがそうしてきたように。

 橋下サクラは三人兄弟の末っ子に生まれた。歳が少し離れた兄が二人だ。
 父は温和だが賢い人ではなく、価値観は保守的で、ところどころに女性に対する前時代的な錯誤を感じることがあった。母は、性格は快活ではあったが印象の薄い人だった。よくいる元気な中年女性、という以上の感想を橋下サクラは語れなかった。兄二人は秀才で、現代的。保守的な父をときに宥めときに諭し、ときに毅然と対立し、ときにともに酒を飲んだ。価値観は違えども家族としてはうまくやっている、そんな男たちのホモソーシャルを、橋下サクラは傍で見て育った。
 橋下サクラは、末の娘としてとても可愛がられて育った。それはいくぶんスポイルの色を孕むようなものだったのかもしれないが、とにかく、橋下サクラは成人した後も家族からの愛情を疑ったりはしなかった。父は末の娘をことあるごとに優遇したし、兄二人とも歳が離れていたので赤ん坊のころから面倒を見てもらっていた。兄たちの優秀さに傷つけられたときは父が慰め、父の前時代的な女性観に傷ついたときは兄たちが守ってくれた。家庭内での最優先被保護対象、それが橋下サクラの立ち位置だった。
 幼少期ならいざ知らず、思春期以降の橋下サクラにとって、その境遇は言い表せない不快感に満ちたものだった。母はその環境を言葉にもできずに諦めていた。そういうものだという現状追認こそが、その年代の女性の主流の生き方だったのだ。

「あえて言えば、ないがしろにされている、と思ったんです」と橋下サクラは言った。「家族からは好かれていたし、父や兄たちは私を大切にしようとしていたのはわかるんです。でも、それは対等でないからこそ与えられる類の愛情でした」
 その言葉には愛情と、それと等量の憎悪が込められていた。だからだろう、橋下サクラの声は、その内容に似つかわしくないくらい平板に響いた。両側からローラーにかけられた哀れなカトゥーンキャラクターのように、それは傍から見れば滑稽さすら覚える平板さだった。
「でもそういう気持ちも言えないまま、父は亡くなってしまいました。兄たちは自分たちの家庭を持って家を出て、今ではあまり会っていません」
 僕は橋下サクラが話しているあいだに、一度も声を挟まなかった。ただ、誰かが聞かざるを得ないものを聞くだけだった。
「私には父の、そして兄たちの生き方が、あまりにも愚かなものに思えます。そんなものは、もう時代遅れの、錆びだらけの、前時代的で、不合理なものでしかない。なにより、本人たちが自覚しないうちにひどく他人を傷つけている、その無思慮さが不健全ですし、不快でした」
 橋下サクラは、言うべきではない最後の分別だけはもっている人間だった。つまり、そこに「私こそが正しいのだ」という言葉は――本人がどれほど口にしたかったのだとしても――差し込まれなかった。
「私は、どんな人生にも意味はあると思います」
 断言するように橋下サクラは言った。
「どれほどひどい人間でも、どれほどつまらない価値観でも、それはそれとして学ぶべきものがあるし、もちろん私とは違う価値観があることだって理解できます」
 そういう語り口を僕はいろいろなところで見かけたことがある。生について語るとき、それを否定的に語らないための当たり障りのない着地点。その手のことを突き詰めて考えたことのない優等生が、なにかを語っている風に採用する妥協策。
「でも父親たちのような人間を見ると、この程度のものなのか、と呆れてしまうこともあります。この程度でなぜ私に知ったようなことを上から教えようとするのだろう、と。でもそれもまた意味のあることだと思います。おかげで私はいろいろな不合理を知ることができましたから」
 それは優等生的な克己性。どんな困難も、どんな不合理も、自己拡大のための供物であれば納得できるという、平板な自我が採用する物語。――僕はとても無思慮なことを考えている。
 僕は話の続きを少しの間待っていたが、そこで橋下サクラの話は終わっていた。橋下サクラの語りは、語りの終え方は、自信に満ちていた。エースのスリーカード。メンタンピンドラドラ。最高ではなくとも最善の手札を晒し終えたプレイヤーのように、橋下サクラは眼球に力を入れて僕を見た。僕は、やれやれ、ゲームなんかしていない。ひどく宙ぶらりんな気持ちで、こんな状態でまともに話なんかできるのかと自分でも思うのだけれど、言葉だけは僕の気持ちを待たなくても先に出る。
「なぜ、人は生きているのか、という問いですが」
 僕は少年のころに読んだ小説のページをめくるような、懐かしい気持ちをなんとか思い出しながら、そう話し始めた。
「理由はありません。生きることそのものには、意味性はありません。だから『なぜ』という問いかけ自体がそもそも成立しない。もちろん、個々の価値観に寄り添えば、いくらでもその『なぜ』を埋める答えはあるのでしょう。でも最も前の地点、根源的な地平で言えば、生きることは常に無根拠です」
 橋下サクラはつまらなそうに僕を見ていた。侮蔑はしないがべつに興味もない、そういう顔だ。ここで話すことは何一つ無駄なんだぞ、どうせまともに聞かれやしないんだぞ、と僕の中の底に残ったケチャップのこびりつきのような親切心はがなり立てるのだけれど、僕は耐えて続ける。
「でも勘違いしないでほしいのは、それは生きることに価値がないとか意味がないとかいうことを、シニカルに、わかったように語っているわけではありません」
 僕は、冷ややかな学生を前にした新任講師のように、どこまで惨めでも最後まで話し切るしかなかった。
「生に理由がないことは、結論ではなく、始まりです。われわれは無意味な生に意味を積み上げる作業の最中を人生と呼んでいます。それがなんであるのか、どういう価値があるのかは、誰も知りません。ただ、そういうあり方が、人間であることの前提条件である、ということです。価値とか意味とかいうものは、生のあとに事後的に発生するものです。それを生そのものに問うこと自体が論理の順番としてナンセンスだと、僕は考えます。
 だから原理的に『正しい生き方』とか『間違った人生』とかいうのは存在しません。もし、誰の人生にも意味はあるというのなら、それはそうでしょう。でもそれは、なにか大きなもの――たとえば神とか父とかからアプリオリに与えられたからではなく、人間がただそういうものである、ということです。ただ単に、意味とか価値とかいうものは、そうあるものだと、ただそれだけ。
 それが、僕なりの『人はなぜ生きているのか』という問いに対する答え――答え方です」
 興味の無い必修単位の講義を聞き終えた学生のように、無表情に橋下サクラは僕に言った。
「本当に、ちゃんと答えてくれるんですね」
 それから、
「正直に言うとあなたの説には共感できませんでした。でも、こういう質問に答えてくれる人を、私は信用しますよ」
 と付け足した。それはまるで授業評価アンケートの自由記入欄の安っぽいフォローのように感動的な名句だった。僕は早く酒が飲みたい。
「なんとなく、塾の人たちが、あなたのことをよく話す理由がわかります。たしかに、あなたは塾に必要な人だったんでしょうね」
 酒が、飲みたい。
「でもあなたがいなくても塾はもっと大きくなるし、たくさんの才能を育むでしょうね。宇和島さんたちも、塾を次の段階に進めるつもりで計画しています。近々外へ向けての大きなコンテンツを発表しますよ」
 その固有名詞を聞いて、僕はようやく意識のピントを合わせることができた。
「宇和島? 喜多川じゃなくて?」
「喜多川さんは本業がお忙しいみたいで、今実質的に塾のリーダーになっているのは宇和島さんですよ。最近は宇和島さんが座長で企画運営をしています」
「あまり想像できませんね」 
 僕が見ていた宇和島は、決して矢面に立たない補佐役だった。サブリーダーや有能な副官といった体で、リーダーよりもよほど有能だとしても、決して陣頭にはたたない類の男だった。宇和島自身は塾の変化を僕に再三嘆いていたけれど、宇和島自身の方がよほど変化していたのかもしれない。あるいは、その宇和島の自分自身の変化に対して否認が、塾の変化という認識に転化されていたのかもしれない。あるいは……
 宇和島のことに意識を割かれていたせいだろう、僕は橋下サクラが表情を変えていたのに気がつかなかった。夕暮れの病院の窓を背にして立つ女は、まるで棺桶の中を見るような憐憫を僕に向けていた。親しくもない親戚の葬儀でするような、あの顔だ。
「誠実に答えてくれたから、私も一つだけ誠実に話します。私があなたに話した理由」
 橋下サクラが侮蔑と憐れみを僕に対して抱いているのはよくわかっていた。だが、そのときの橋下サクラの表情は、終わったものに対するそれだった。見つめても自身に戻ってくるものがない視線だった。
「あなたはまるで暗くて深い孔のよう。話しても消えていく井戸のようで、だから私はあなたに話したんです」
 もはやこの女は僕を見てすらいないのだろうと理解しながら、僕は最後までこの女の一方的な視線を、甘んじて受け入れた。
「きっとあなたとアミちゃんはあまり長く続かないでしょうね。彼女は自分の才能のために生きるべき人だから」
 僕はなにも言わずに、一礼だけしてその場を立ち去った。橋下サクラを否定する言葉を、僕はとくに持っていなかったから。

 それ以後、橋下サクラと邂逅したのは、先生の葬儀で挨拶した一度きりだった。僕と橋下サクラの人生は交わることなく、別の国、別の文化のような、互いを知らない文脈になって今も続いているらしかった。
 残念なことに(と言うべきだろう)、橋下サクラの予想は外れ、すじかい塾は今はもう無くなってしまい、僕はいまだアミと生活をともにしている。
 あれから数年ののちには、橋下サクラの名前を僕の近辺で聞くことは無くなっていた。最後に名前を聞いたのは、噂話程度の、はっきりしない情報だった。橋下サクラはあののちに誰かと結婚して子どもも生まれたが、その後すぐに離婚して独りになったらしいという、ただそれだけ。誰でも代入できそうなその話は、もしかしたら本当は別の人間の話だったのかもしれない。その程度の話だ。
 その話は、アミがどこかで聞いて家で僕に話したものだ。そのとき僕は、たしか居間で一歳の娘と一緒にNHKの幼児番組を見ていた。テレビの中の着ぐるみの動きをじっと見つめる娘を見ながら、僕はあの病院の会話を思い出して、ただ「そうか」と返した。それ以外に付け加えるべき言葉を、僕は思い付かなかった。

 それは二月も中旬に入ったころだった。
 期末試験も終わり、面倒で気が滅入る、彼女の大学生活後半がとうとう始まろうとしていた。彼女は、ひがな一日僕のベッドを占領し、あーとかぐーとか、すり鉢の底でゴリゴリとこねられるような叫びをあげる毎日を送っていた。実に良い傾向だと僕は思う。そうやって悩む元気があるうちは、きっと大丈夫なのだから。
 誰もが陥るのだろうありきたりで憂鬱な日々のある朝、彼女はさらに輪をかけておかしかった。僕をじーっとにらみつけて口だけ動かすわ、と思ったら洗面所の鏡の前であーとかぐぅーとか唸り声を上げるわ。というか、まあ、僕に言いたいことがあるのにうまく切り出せないでいるのが僕にもわかっているのだと彼女自身わかっている、というただそれだけのことだったのだけれど。そんな茶番を朝から二時間程度繰り広げたあと、今日の仕事に取り掛かる直前になってようやく彼女は「あのー」と話を切り出した。
「はい、なんでしょう」と僕は言った。できる限りの営業スマイルで。
「これを、見てくれませんか」
 まるでデキの悪いテストの答案でも見せるように、彼女が差し出したのは、自分の端末に表示されたメールだった。僕はその文面を一通り読んでから、認識違いがないようもう一度読み直して、
「おめでとう」
 と言った。
 そいつは、受賞通知だった。有名な芸術賞で、主催自体は地方自治体のものだが、審査員もスポンサーも有名どころの、全国的にも注目されているレベルの高い賞だ。プロアマ問わず、力作の集まる芸術賞の写真部門で、彼女は大賞に選ばれていた。
 僕がなにかお祝いでもしようかな、と考えていると、彼女は、まるで小学生になってもいまだにベビーチェアに座らされているような、窮屈そうな顔で僕を見ていた。
「どうした?」
「なんだか変な感じなんです。居心地が悪いというか、うまくバランスがとれないというか、なにかの間違いなんじゃないかって。うれしくないっていうと嘘になるけど、でも単純にうれしいっていうのも違うような、うまく落ち着けないんです」
「すぐになれる」
「そんな、ひとことで」
 ふあ、と空気が抜けたような音がして、彼女は僕のベッドの上に背中から落ちていった。
「これから私どうしたらいいんでしょう?」
「賞をもらって、大学を出て、プロになる」
「えぇ……」
 しなびたベビーキャロットみたいな声を出して、彼女は潰れた。
「授賞式には写真家や出版社の人たちがいるはずだから、たくさん話しておいで。もしかしたら仕事の話とか取材の話とかになるかもしれない。若い、学生の、才女と来たら話題性もあるしね」
「いやですよ。そんなバカみたいなの。着ていく服もないし」
「どのみちリクルートスーツとかいるんじゃないの。今のうちにそろえておけばいい」
 彼女の深く長いため息。口からところてんでも出てきたような、形の見えるため息だった。
「がんばれ。応援してる」
「他人事じゃないですか」
「そりゃ他人事だからね」
 ぶー、とやる気のない抗議の音がベッドから鳴っていた。
「でもせっかくの機会だから、やるだけやって来たらいい。そもそも大学辞めてまでプロになりたかったんだろ? 肩書は写真家やカメラマンといっても、この業界はカメラ持ってりゃカメラマンってくらいのピンキリの世界だ。賞を取るような人間はごく一部で、賞から入って仕事になるような人間はめったにいない。君にとってはいいチャンスじゃないか」
「私は、そういう風になりたかったわけじゃないんです」
「じゃあどうなりたかったのさ」
 ベッドから上体だけ起こして、非難がましく僕を見る。
「でも、もう『なりたかった』だろ」
 彼女がなにか言いたそうに唇を開けたり開いたりしているが、残念、僕に読唇術はない。ないことにしておこう。
「諦めて行っておいで」
「めんどうくさい。あぁあ、めんどうくさい。いやだいやだ。きらいだきらいだ」
 怒ったように、でもどこか恥ずかしそうに、楽しげに、彼女はどこに向かうとも知れない呪詛を吐き続けた、 
 こりゃお祝いの話は当分先だな、とか考えながら、僕は日々の泡沫のような仕事に取り掛かるのだった。

 彼女には伝えなかったけれど、実は僕もその賞に応募していた。結果は一次予選にもかからないという体だったが。いろいろなことを考えたけれど、独り出た言葉は、よかった、だった。主な理由は二つある。
 一つは、彼女なら僕が同じ賞に応募していたことを知ったなら、きっと気を遣っただろうから。
 もう一つは、僕にはやはり人に評価されるべき才能や能力などというものはなかったのだろうと知れたから。
 ……それはともかくとして、もしかしたら面倒なことになるかもしれない、と僕は考える。
 彼女は若く、才能もある、女性だ。その手の属性は安っぽいお茶の間の消費物としてはなかなかに魅力的だ。さいわいというか、写真に関係する業界というのは、文壇や芸能界と比べればそれほど社会的注目を浴びる世界ではないのだが……
 問題は『西町博』だ。
 彼は左派系の言論人として、社会に一定の影響を持っている。彼女はその私塾に一時出入りしていたし、元門下生の僕とは親しい関係だ。まさかとは思うが、火種になる可能性は少しでも排除しておいて方がいいだろう。なにより、彼女の独力がそういった諸般の力学でねじ曲げられることは防がなければならない。
 今後について彼女と話し合わなくてはならない、と理解すると同時に暗澹とした予測が成り立ってしまう。彼女が怒るというのはわかっているのに、そうしなければならないという筋目を、僕という人間は捨てられないのだ。

 *

 喜多川の連載を初めて読んだのはちょうどそのころだった。普段は電子版の社会記事くらいしか読まないようにしているものだから、地方紙の小さな文化面の連載記事なんて目に入らないのだけれど、その日はたまたま、残念なことに、そいつを読む機会と時間にめぐまれてしまったのだ。
 それは、地元の新聞社から依頼された、小さな仕事の打ち合わせの日だった。近場だし、わざわざ外で場所代を払ってやることもないだろうと、ご立派な本社ビルに出向いたのが間違いだった。打ち合わせは無難に終わって、さっさと帰ろうとしていると、新聞社側の担当者がにこやかに話しかけてきた。黒縁眼鏡をかけた、明るい丸顔の中年女性だった。文系出身の、楽しんで本を読むタイプの女性が、よくこういう笑顔をする。二三言その女性と言葉を交わしたあと、
「そういえば田村さん、うちの喜多川良樹さんって知ってます?」
 なんて言うものだから、
「ああ、大学の同期ですよ」
 なんて言ってしまったのが運の尽き。『こいつは失敗だぞ』と僕の中の悪魔がささやくのが二秒ほど遅すぎる。
「彼の連載、けっこう話題になってるんですよ。あの歳でよく落ち着いた文章が書けるもんだと、社内でも評判でして――読まれました?」
「ああ、いや。ちゃんとは読んでないんですけど」
 くそ。そういうときは、『ああよく読んでますよ。良い文章ですよね。まったく同期の誉ですよ』ってさらさら口に出して切り上げるんだよ! このド腐れ社会不適合者が!
「よかったら読んでみてください。入り口のとこのラウンジにバックナンバーありますから」
「はあ」
 と曖昧に返事をして、さてどうしたかというと、時間もあったものだから(暇な写真屋なのだ)、言われたままに(人の善意に弱いのだ)、新聞社ビルの入り口のラウンジ(というより受付前の待合といった風だったけど)で、新聞ラックに固定具できれいに揃えられた新聞の中から適当に(はずれを願って)一部手に取り来客用のソファに座って(柔らかくて上等なソファだった)、文化面を広げる(もうこれ以上先延ばしはできないぞ)。
 そうして、売れないフリーのカメラマンが不釣り合いに小ぎれいなラウンジにてタダで新聞を読んでいる、物悲しい光景ができあがった。世界のどこかに悲惨さを求めて飛び回っているカメラマンがもしいるのなら、ぜひこの光景を写真に切り取って、僕の悲惨さを世界に向けて訴えてほしい。ついでに言えば、文化面にはちゃんと喜多川の連載記事があった。
 喜多川が担当しているのは、地域で活動する若者に焦点を当てた連載らしく、その記事は大学卒業後に古書店の経営を始めた若店主へのインタビュー記事だった。若店主は、経歴を見るかぎり僕たちの後輩にあたる人物だったが、塾の関係者でもなく、僕には面識もなかった。記事は、彼の経歴を丁寧に掘り返しながら、古書店経営に至った経緯や現状を若店主との対話を交えて言葉にし、最後に申し訳程度に現代の若年層についての考察を述べていた。
 僕の知っている喜多川良樹はそんな文章を書く人間ではなかった。いきおい、はみだし、いきすぎて、素人臭い粗さと、自己主張の強い一人称が急に飛び出してくるのだけれど、それでも絶妙なバランスを保って文章として成立している、そういうアクロバティックな文章を書くタイプだった。
 だが、その記事は、ただひたすらに穏やかだった。一人称を極力排除し、相手の言葉をいかに引き出すかに注力しているのが、一読してわかった。鮮烈な個性は鳴りを潜め、対象に対する労わりと慈愛が行間から垣間見える。言葉少なく、ときにうまく言葉にならない想いに詰まる若者に、忍耐強く向き合い、ときに少し言葉を補う、そういう情景を容易に想像することができた。
 まさか、喜多川が、ね。
 僕は記事を読みながら自分が少しだけ笑っているのに気がついた。だって、そうだろう? まるで少し力を込めるだけでコップを砕いてしまうような怪力の男が、おっかなびっくりしながら新芽に水を注いでいるようなものなのだから。ひどく不格好なのに、妙に腑に落ちる。僕は試しに喜多川の他の記事も読んでみたのだけれど、どれもこれもかつての若書きの色はなく、おちつき、いたわり、我慢強く対象に向き合って、そいつはまるで――おまえ、本当に。
 いくつか読んだところで、僕に喜多川の記事を読むように勧めてくれた女性がやってきて、「どうですか」と僕に訊ねた。僕の様子を楽しそうに眺めて「いいでしょう」と。
「同期の成長ぶりが見れておもしろかったです」
「喜多川さん、たぶんもうすぐ本社に戻ってくると思いますけど、お会いになられます?」
 それは本心からの善意だったのだと思う。ひどく楽しそうに、まるで楽しい物語を目の前にした無邪気な読者のように、その眼鏡をかけた女性は僕を見ていた。まったく、なんて恐ろしいことを言うんだろうか、と内心思って、しかし僕は笑っていた。
「やめておきます。仕事の邪魔しちゃ悪いですからね」
 僕はこれで失礼する旨をその女性に伝えて、手元に広げていた数部をきれいに畳み、元のラックに立てかけておく。ビルの外に出ると昼食前のオフィス街、冬の寒空がまだどっしりと居座っているけれど、陽光はようやく温かみを取り戻し始めていた。人々はみんなそわそわしていて、なにか次に来る季節を、あるいは今日のランチの定食メニューを、楽しみにしているように見えた。僕は帰り道ずっと笑っていた。
 なあ、なんでなんだ、喜多川? なあ?

 *

 それは外のスタジオでの撮影の依頼に出向いたときのこと。
 地元企業のイメージ広告の撮影で、間に入っていた広告会社は宇和島のところだった。といっても、担当者は違う人間で、だからはじめスタジオの隅の壁に寄りかかって難しい顔をしている男が、自分のよく知る後輩だとは思わなかったのだ。そのスタジオは広告写真を撮るようなよくある中規模のレンタルスタジオで、撮影ブースにライティングが集中していて、スタッフの待機場所は似たような雰囲気の業界人の影ばかりならんでいた。だからきっとそんな照明の加減や、スタジオ独特の雰囲気が、僕の認知に不具合を起こしたのだろう。
――いや、それは言い訳で、僕は単純にその男が宇和島だとすぐに認識できなかったのだ。やや小太り気味で眼鏡をかけた丸顔の温和な男を、僕は、もっと歳をとった、頬がこけ相応に皺の刻まれた、年上の誰かだと思った。
 五秒ほどだろう、僕は戸惑って、持ち込んだ機材を抱えたまま、スタジオの入り口で立ち止まっていた。すると僕に気づいたい宇和島が、いつもの穏やかな丸顔で、
「あ、田村さん」
 と安堵したように僕に声をかけた。まるで気乗りしないパーティ会場でようやく知人を見つけたような声だった。それから、
「すみません。いいです?」
 と、とても申し訳なさそうにして、名刺を差し出してきたものだから、なんだ会社の番号でも変わったのかなと受け取ると、宇和島の肩書に大層な横文字が加わっていた。
「おや、こいつは昇進かな? おめでとう」
「やめてくださいよ」と宇和島は力なく笑った。「そんなたいそうなもんじゃないんです。実体はこんな風に雑用仕事が増えて、給料はほとんど変わらないとか、そんなもんです」
「そんなもんかな」
「俺もフリーで飯が食える人間だったらよかったんですが」 
「やめとけよ。フリーランスなんてたいてい、預金と将来を考えるだけで飯と酒が全部不味くなる惨めな生き物だから」
 宇和島のそれは照れや遠慮のようなものだろうと僕は笑い話で流して、宇和島もそれに合わせるように照れ笑いのような顔を作ったのだけれど、もしかしたら、とだいぶあとの今になって、僕は思っている。宇和島は本気でそういう生き方がしたかったのかもしれない。宇和島については『ああ、思い返してみればそういうことだったのかもしれない』と、たびたびそう思うことがある。

 傍目から見れば、彼にとってそれが一番充実した時期だったように思える。
 彼がそう望んだことなのかはついぞわからないけれど、社内では若手のエース、塾では実質的な指導者という立場に、彼は置かれた。人に頼られ、リーダーとして率先して動かなければならない。今までずっと他人の補佐に回っていた男は、しかし人の上に立ったとたん、精力的に活動し始めた。水を得た魚のように、とは使い古されたクリシェだけれど、でも当時の彼を表現するのにそれ以上の言葉はないように思える。今まで陸上で無理をしていたけれど、彼は水の中でこそ自由に呼吸できる人間だったのだろう。
 当時の彼の担当する広告は好評で、企業の広告賞に入選したこともあった。親会社への覚えもめでたく、都心へ出向することも一度や二度のことではなかった。塾の活動範囲と塾生数の最盛期は、彼がのちに塾の代表になったころだった。彼が率先すればするほど、彼の周りの世界はうまく回り、人々は幸福を享受し、彼を誉めた。個人史上の黄金期というものがもしあるとするなら、当時の彼はまさにそれだった。
 ……それがたとえ本人にとって不本意だったとしても。それがどれほど本人を傷つけていたとしても。それがどれほど、本人からすれば寒々しい世界だったとしても。
 
 撮影がひと段落した休憩中、二人壁際で並んで味気ないコーヒーの入った紙コップを持ちながら、宇和島は不服そうに漏らした。
「なんだか嫌な感じですよ。次から次へと仕事が増えちまうんです」
 いつもの酒を飲むときのような調子で、宇和島はぼやいた。
「今は何とかまぐれこなしているけど、いつかやらかして、全部ダメになるんじゃないかって。ほんと、たまにそういう夢見て、冷や汗かいて起きるんです」
 僕は、できることならこの気の毒な後輩に酒の一杯でも奢ってやりたかった。
「そうやって、いい意味で臆病なうちは大丈夫、大ごとにはならないさ。ほんとにダメになるのは、いけるなって思い始めてからだな」
「そうですかねえ」
「喜多川なんかの方がよほど危なっかし……かったんだけどな」
「?」
「いや。おまえは大丈夫だって話さ」
「田村さん、ほんとに戻って来ません?」
「そう誘ってくれるのはありがたいと思うけど、僕はもう……」
 先生は僕を部外者だと言って、だから信じて話してくれた。僕はその恩義とか義理とか言うものを無下にするつもりはない。
「僕がいなくても、塾はちゃんと回る。優秀な後輩が残ってくれたおかげで心残りもない。やっぱりおまえが一番熱心だったんだよ」
「俺はただ……」
 宇和島はそこで言葉を区切った。それから少しだけ紙コップの縁に口をつけて、強く紙コップの縁を噛んだ。その様子は、まるで今から自分が言おうとすることに困惑しているかのように、僕には見えた。
「ただ、誰かがやらなきゃいけないことだと思って、やってるだけなんですけどね」
 力なく、弱々しく、水底に沈んで死を待つだけの魚のように、宇和島はそう口にした。

 *

 ローカルニュース番組で彼女の受賞の様子が放映されるというから、久しぶりにテレビをつけた。二分ほどの枠だったが、ちゃんと彼女のインタビューも放映されていた。授賞式の彼女は、真新しいレディーススーツに身を包み、インタビューに力強い口調で答えていた。まるで若くて野心的な女流クリエーターがビジネス番組で話すような調子で。僕の前では駄々をこねていたが、そこは元優等生、外面についてはほぼ完ぺきと言っていい。
――あるいは、僕の前にいるときの方が外面だったのかもしれないけれど。
 テレビを消すと、ここは僕の部屋で、僕は独りだった。あと数時間すると彼女が帰ってくる。いちおう週に一、二度自分の下宿に戻ってはいるのだけれど、もはやほとんど同棲と言っていい状態だった。彼女の私物も増えてきたし、僕も別に異を唱えるつもりはなかった。なんだったら洗濯も僕がやっているくらいだ。二人分の調理も慣れたものだし、朝のゴミ出しも苦ではない。
 それはたぶん、「正しい」ことではない。橋下サクラなら嫌悪感のあまり卒倒するかもしれない。でも僕はその正しくなさを僕なりに気に入っていた。悪くない生活だった。いや、たぶん、もし僕にこう言ってもいい資格があるのなら「愛していた」。
 僕は仕事用のPCを立ち上げて、軽く彼女の名前をネット上に探してみる。さっきのニュースの電子版のほか、塾生や元塾生のSNSアカウントがちらほら彼女の活躍を呟いていた。
――びっくり! お友達の学生さんが大賞でした! おめでとう、アミちゃん!
 ありきたりな顔文字を添えて彼女との関係を吹聴しているアカウントは、もちろん橋下サクラのものだった。僕はPCをシャットダウンした。
 僕は部屋で独りだった。ずっと独りだった。なにかを求めることの少ない人生だった。手にしたのはカメラと他人の風景だった。どうしてそんな生き方をする羽目になったのか、実のところ察しはついている。誰にも口にはしないけど、僕だって誰にだってあるような『それ』があるのだ。あなたにだってあるだろう?
 誰でもないどこかの誰かに向けて視線を投げてみるけれど、そいつはただ僕の小さな天井で、そう、どうせ僕はどこにも行けやしない。無力感とは違う、僕の宿業――あるいは悪癖。
 やめよう。気が滅入る。僕はいくつかの家事と今できる雑務の一覧を頭の中に広げ、優先順位の高い上から三つ四つのタスクを確認すると、そいつらをこなすために立ちあがる。なんにせよ、目の前にやるべきことがあるというのは、幸せなことだ。

 *

「それはもういい。俺がやる」
「貸してごらん。こうするの? わかる?」
 はい、わかっていますよ。どうぞ、どうぞ。

「な? 見てみ。すごいだろ」
「ね、これ見て、いいでしょう?」
 はい、すごいですね。よくできましたね。

 そのような訓練を経て、熱情の無い善性は形作られた。

 *

「君を助手として雇うのをやめようかと思う」
 彼女と向かい合っていたのは、たまたまそういう作業をしていたからで、別段タイミングを計っていたわけではないのだけど、でも言うならいまだろうと切り出すより他なかったのだ。彼女は、顔をしかめた。ひどい苦痛をこらえるようだった。子どもを感情的に叱り飛ばしてしまった後味の悪さを、僕はまだ知らなかったけれど、たぶんそういう感情だ、これは。
「それは、その……もし田村さんがそうおっしゃるなら……でも、理由は聞きたいです」
 僕は用意していた言葉の束を落っことしてしまったみたいになにも言えなかった。順序だてて、丁寧に、ちゃんと説明するつもりだったのだ、本当に。まず……まずはそうだ、大学三年でこれからの進路――
「このあいだの賞のせいですか?」
 完全に、僕が遅きに失した。順番が狂う。なし崩し的に僕は話し始める。
「このまま君を助手として連れて行けば、僕と君とすじかい塾の関係というのは広く知られることになる。そうすると君の力量は正当に評価されなくなるかもしれない。あるいは、君の人生、君の才能を、物語的に消費する人たちも現れるかもしれない」
「田村さん」
 彼女は怒っていた。その怒りはもっともだと思うけれど、はたして僕は彼女がなにに対して怒っているのか理解しているのだろうか。
「ちょうどいいと思うんだ、君が自立するタイミングとしては。君ももう大学卒業が見えてきたわけだし、僕の助手なんかに時間を割くより、やるべきことがあると思うんだ」
「田村さん」
「なんだい?」
「そういう気の回しかた、やめてください。うざいです」
「うん、ごめん」
 強い言葉に、僕は素直にたじろいだ。彼女の前なら、僕は情けなくたじろいだってかまわない。
「だいたい、ちょっと写真で賞とったくらいで、そんな大ごとになるわけないじゃないですか。もしそうなってもなにか問題です? 言いたい人たちには言わせておけばいいんです」
 まったくもって彼女の言う通りだった。
 彼女は音を立てて大きく息を吐いた。ひどく苛立っているのだということを言葉や暴力を使わずに周りに示す仕草だ。他人のこういう仕草を見るのは何度目だろう。彼女はそうやったあと、息を切らして何度か小刻みに口で呼吸を繰り返した。
「邪魔ですか、私?」
「いいや」
「このままここで一緒に仕事しちゃだめですか?」
「いいや。君が望むならかまやしないさ。僕もその方がうれしいしね」
「なんであなたはいつもそうなんですか!」
 僕は彼女の怒りを、その苛立ちを、正面から受け止めた。受け止めて、でもなにも言えなかった。ただ彼女の目を見つめた。初めて出会った時の不格好さはすっかり影を潜めて、彼女は自分なりのスタイルを確立しつつあった。あといくつかピースが埋まれば完成するジグソーパズルのようで、僕はそいつを穏やかな目で見ることができた。少し手を伸ばせばすべてがうまく行くような、でもそいつは巧くないような。
 
――先生は僕になにを伝えたかったんだろう?

 急にそんなことを考えた。なにか、僕は致命的な思い違いをしていて、先生はそれに気づいていたのかもしれない。もっと耳を澄ませて彼の話を聞いておくべきだったのかもしれない。
 彼は自分のために教えてもいいと言った。
 女は幸せになれと、僕に言った。
 僕は手を伸ばしていいのだろうか。
 僕と彼女は見つめ合っていた。
 最初に会った時、彼女はあまり巧くない服を着ていた。僕と出会ってからしばらく、彼女は自分を縛り付けるような窮屈そうな服装を選んでいた。でも今、大学三年の春先に、彼女が選んでいる服装は、特別巧いわけでもないし、特段痛々しいわけでもなく、ただそうあるような装いだった。
 上のボタンを外して緩く着こなした白いカッターシャツの上に、ワインレッドの薄手のⅤネックのセーターを着込み、着古して少しよれたベージュのワイドパンツ。髪は少し伸ばしていくらかの房を目立たない程度にブラウンに染めていた。
 僕は彼女の服装に、なんの異議もなかった。それは普通だった。自分の家で自分の服を着ている一人の女性だった。
 きっと彼女からはもうなにも言わないだろう。だから僕がまずなにか言うべきなのだろうけれど、でも、なにを? 宥める。謝る。怒る。どれも違う。考えながら、でも考える時間なんてほとんどありはしなくて、言うべきことは先にあって、僕は言葉を追いかけるように考えていて、そうして僕は言った。
「結婚しようか」
「はい」
 言ってしまってから、僕は自分の頭をかくように額に手を伸ばして、困って、中指で額を二度小突いた。まあ、馬鹿だな。
「君が大学を出て、気が変わらなかったらね」
 恥ずかしさを誤魔化すための言い訳だと、僕も知っている。
「今からでもいいですよ」
「学生結婚は……おすすめしないな」
 そんなのだから、言ってから両手で頭を抱える羽目になるのだ。

 さて、そいつは悪くない人生のように思えた。二人、小さな暮らし、当たり前に飯を食い、当たり前に働き、当たり前に眠る。
 だが、僕が? 
 その風景を仮構することも、具体的な経済状況をシミュレートすることもできるけれど、それはどこか他人事のように思えた。あるいは、写真に写った遠い国の風景のように、僕には思えた。

 *

「……この手紙を君が受け取ってくれたということは、つまりそういうことだ。もしかしたら先に連絡がいっているかもしれないね。
 この手紙は私の死後に送ってもらうよう手配しているものだ。もちろん、君のほかにも幾人か、とても世話になった人たちにそれぞれ送ってもらうようにしている。なあに、こういうの、なにかの小説みたいで洒落てるかな、と思ってね。ま、いつもの老人のお遊びさ。

 すまない。あまりうまくない書き出しだな。
 君にはちゃんと伝えなければならないことがあるのだけれど、私も考えがまとまらなくてね。なんとか書き出してみたものの、うまくいくかどうかはわからない。でも書いているうちになにかいい具合にいくかもしない。いかないかもしれない。とにもかくにも、まず書き始めてみることにするよ。私は、けっきょくのところ、まず言葉にしないと何も始まらない側の人間なのだから。

 とりあえず、私の昔の話から始めてみよう。興味がなければ読み飛ばしてくれてかまわない。どちらかというと、これは書き手側に必要な助走ゾーンみたいなものだから。

 私は、つまらない人間なんだ。
 幼いころから誰も私に興味を抱いていなかった(と私は今でもそう思っている)。私はたいていのことを自分一人で完結させられる人間だった。勉強も運動も身の回りの些事も。もちろん天才性とかじゃなくて、ただ要領がよくて手がかからなかった、というだけのことだ。そんな私を親も教師も放任気味に育てたし、同年代の人間からは頼られこそすれ、私が誰かを頼るということはなかった。自分が薄情な人間だったとは思わないけれど、人間関係は希薄で、特別に親しい友人もいない。客観的に見ても特段人の目を惹くような人間じゃなかったことは間違いない。
 私がそういう人間に育った理由には、実は察しが付いている。でもここでは書くまい。そいつは、よくある再生産の形なのだろうから。
 とにもかくにも、つまらない私は大学生になった。そして大学生になって初めて分かったことがある。――私は人より賢かった。
 私が前で話せばみんなが注目したし、人と討議すれば二つ三つ先を見越して論述が展開できた。学生自治組織に参加して、私が音頭を取って効率化すると、活動内容は大幅に広がった。他大学の同じような組織と連携して、全国的な活動にまで盛り上げた。全国の学生の前で初めてスピーチをしたとき、私は人の前に立つべき人間なんだと本気でそう思えた。
 
 もちろん、言うまでもないけれどそれは思い違いだ。私は別に賢い人間じゃなかった。ただそんなつもりで、そんな風にふるまっていただけの、ただの人だ。そしてこの手の人間が陥る場所というのは決まっている。私は手痛いしっぺがえしをいただくことになる。

 やがて私たちの運動は政治団体と関わりあいを持つようになる。政党と政策協定を結んでメディアに発表したり、若者受けのいい、新しいスタイルの街宣活動を模索したりしてね。そうやって保守的な社会の澱みを駆逐して、私たちが時代を動かすことができると、ほとんどそう信じていた。まあ、政治業者からすれば都合の良い客寄せパンダだったのだろうけれど。
 でもそうやっていくうちに一人、また一人、活動から離れていったよ。彼らはスーツを着込んで、頭を小ぎれい刈り上げて、社会の中の自分の居場所に収まっていった。当時はそのことに思い悩んだものだけど、まあ、今思えば当然のことだと思う。それこそが正しく我々が目指したものだったのだから。でも私はそれに気づくのが遅れてしまった。椅子取りゲームみたいなもので、私は最後の一人になってから、座る椅子もないまま、けっきょく大学に残って学問を続けることになった。情けないことに、あれだけ社会だなんだと言っていたのに、けっきょく自分自身の居場所すら社会の中に満足に見いだせなかったわけだ。
 研究稼業は嫌いじゃなかったし、なんなら性にも合っていた。これだって立派な社会参加だと自分に言い聞かせて、研究者としてはなんとかやっていけた。でも、教育者としての私は酷いものだった。学生たちに哲学入門の話をすることに、私はなんの熱意も見出すことができなかった。学生とまともに視線を合わすのも億劫だった。学生たちだって、哲学なんて時代遅れの学問だと思っているのだろうと、端から諦めていた。できることなら教壇の前になんか立ちたくなかった。私はそんな資格のある人間じゃない。自分一人で完結していれば手痛い思いをしなくていいと、靴箱のなかでうずくまっていたかった。

 すまないね。だいぶ私の話をしてしまった。それにあまり具体的でない、要領を得ない話かもしれない。それもすまない。あまり具体的な話や固有名を出すと、生者に迷惑が掛かるかもしれないからね。

 ああ、なんだ、つまり、私は基本的に落伍者だし、あまり賢い人間でもなかった、ということなんだ。つまらない人間で、なににも成れない人間で、本当は君たちに『先生』なんて言ってもらえるような人間じゃなかったって、ただそれだけのことさ。知ってたかもしれないけれど。

 そう、だから、けっきょく、君に感謝を伝えたかったんだ、私は。私が『先生』なんて君たちから呼ばれるようになったのは、君と出会ったからだ。カメラを持った君と出会って、私のつまらない話を聞いてくれて、それで君とおしゃべりしてるうちに周りに人が集まって、私はいつのまにか『先生』に成っていた。ああ、君たちと、君と出会えて、私は初めて人の『先生』になったんだ。優れたものが師に成るのではない。優れた人間が師として人に教えるのではない。教え子がいて、はじめて人は誰かの『先生』になることができるのだと、あのとき初めて知った。

 それ以降のことは君も知っての通りさ。いつのまにか作家になって、私塾なんか作って、いっちょ前に言論人みたいな風になってしまった。講演会にインタビューにコメンテーターの真似事なんかもやったっけな。昔取った杵柄かといやつだろうけど、私はそういうのをうまくやれてしまうみたいだ。
 でも、内心では、ずっと、少しばかり怖かったんだ。
 君たちと出会って、先生に成ったあとでも、私は自分が値しない人間だと、つまらない人間だと、身体の隅の方ではそう思い続けていた。今だってそうさ。本当はどこかで君たちの先生にふさわしい人間じゃないと思っている。もっと君たちの才能を広げてあげられる人間が別のどこかにいて、私は傲慢にもその役を横から盗み取ったんじゃないかってね。

 そう、つまり『そんなもんさ』と君に伝えたかったんだ。
 私はいい『先生』じゃなかったかもしれない。数年後には私のことなんか誰も覚えていないかもしれない。君や彼らを自己憐憫のために都合よく利用していただけの、つまらない人間だったのかもしれない。そのことでもし君が私を軽蔑するのなら、それは仕方のないことだ。
 でもそれはそれとして、君たちと学ぶ日々は、私にとってとても楽しかった。たぶん、人生の中で一番幸福と呼べる日々だった。ああ、こんな私にも価値があるのだと、次の世代になにかを贈ることができるのだと、そう信じられる日々だった。君たちに教えられた。君たちに与えられた。君たちに、もしこう言ってもよければ、救われたんだ、私は。情けないかもしれないけどね、私は、『そんなもんさ』。

 だから、そう、私が君に言いたかったのは、それさ。『そんなもんさ』。君の痛みも、君の逡巡も、君の、そう、哀しみも、私にはわからないかもしれないけれど、それでも、君はそんなに思い悩まなくていい。そんなもんさ。誰だって、そんなもんなんだ。ああ、ありがとう、それだけ君に伝えたかったと、今わかった。そんなもんさ。ああ、そんなもんさ。

――最後に一つだけ、本当なら君の前で膝をついて、頭を下げて訊くことがある。
 私はちゃんと君の先生であれただろうか?
 君の前ではひどい失敗ばかりして、失望させてばかりじゃなかっただろうか?
 君に、与えてもらったもの少しでも、一つでも、返せただろうか?
 答えは君の中で持っていてくれ。それがたぶん今を生きる人間の権利なのだから。もしかしたら義務なのかもしれないけれど、どちらにせよ、同じことだ。だったら権利だと思った方が気が楽だろう?

 それじゃ、さようなら。親愛なる田村■■君」

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