「素のあなた」ってなに?


今朝、家を出る時おばあちゃんに「おじいちゃんとよく言ってるのよ、素の猫ちゃんが一番可愛いわ」と何処か悲しそうな表情で言われた。
おそらく「すっぴんで髪も染めないそのままの私が一番可愛い」とメイクの濃い私に向けて言ったのだと思う。
年寄りに向かって大人気ないのだが、私は鼻で笑って話す気にもなれず部屋を出た。

おばあちゃんと私の間にあるこれまでの文脈を説明しよう。
彼女は私に向かって何度もその髪色が派手すぎるだのメイクが濃すぎるだの言ってきた。価値観も年代も違うのだからはいはいと聞き流しておけば良いのだが流石に腹の立つ耐え難い一言もあった。私の今のカラフルな髪色はファッションフリー雑誌に行きつけの美容室が掲載されると言うことで偶然暇だった私がヘアモデルをさせていただくことになり、その時に染めていただいたものだ。芸大卒で広告社で働いていたおじいは気にしていないようだったがおばあちゃんには受け入れ難い見た目だったようで、わざとらしく驚いて「宇宙人がいるのかと思った」と言ったり、私が撮影に向けてシェイプアップをしていたら「そんなプロのモデルになるわけでもないのに」と言ったり、「やっぱりその色見慣れないわあ」と言ったり。撮影日に「本当は勉強一筋で頑張らなあかんとこなんやけどね!!」と言われたのはあまりに耐え難く、もやもやした気持ちが1週間は続いた。おばあちゃんに詳細を理解してもらうのが難しいために話を避けているだけで大学ではきちんと勉強して卒論の執筆も進めている。家に22時まで帰ってこないのは二人が爆音でテレビを見ていて私の部屋までその音が聞こえてくるのに耐えられないと言うことと、老人二人のスローな生活は大学での空気とはまるで別世界で、そこにいては勉強もレポートも捗らないからだ。私は大学を一年留年してしまった身ではあるが、今年度に入り授業を受けながら就職先を見つけ、教員免許に必要な単位のため履修限界まで授業を履修しながら卒論に熱を上げている。できれば授業で興味深かったことを家でも共有したいし卒論の話も聞いてほしいが、新しいことを理解することが大変難しくなっている祖父母とそんな話ができるわけがない。特に卒論のテーマがセックスワーク研究に関わる問題と言うことは彼らの年代の価値観からしたら意味がわからないだろうし、なぜそんなテーマを選んだんだ何かあるんじゃないかとか聞かれるかもしれない。おじいもお婆も、今の私にとって話し相手として厳しい部分があるのだ。それはどうしようもないことだし、大学での私と家での私を切り替えてうまくやろうとしているが、老人二人に対して日頃からストレスが溜まってしまうのも仕方ない。そうした状況の中での彼女のその一言は私をイライラさせるには十分だった。既にわかってもらう努力もして無駄だとわかった。彼女は私の生活や学業での成果に不満があるわけではない。私が趣味の楽器演奏を楽しんだり友達と遊んだり恋人と泊まりでどこかに行くことについては穏やかな反応で、「それも良い勉強だね、楽しんでおいで」と声をかける。派手な頭を見て「勉強一筋じゃない」と批判するのはおそらくそれが彼女の好みではないだとか、カラフルな頭が彼女の思っていた私らしさからはずれていてがっかりしたから言いがかりをつけているだけだ。

 以上のようなやりとりがこれまでにあった中での今朝の一言だったわけだ。多分彼女は奇抜な(別に私は奇抜でもないが彼女にとっては奇抜なんだと思う)ファッションを価値観的に文化的に受け入れられないのと同時に、彼女の思う猫ちゃんらしくない猫ちゃんの姿を受け入れられないのだと思う。これまでのやりとりと、「素の猫ちゃん」と言う言葉から、彼女が私に嫌みたらしいことを言うのは、私にこうあってほしいと言う願望や期待を寄せているからこそなのだと気づいた。

 少し怒りが落ち着いたところで、「素の私ってなんや?」と自分に問い、考えを整理してみた。多分「素の猫ちゃん」と言うのにはすっぴんの猫ちゃんと言う意味と、メイクも染髪も何もしない状態の私が私という人間として自然だとかありのままだとかそう言う意味も込められているが、何も体に手を加えない素の私と言うのは私にとっては素ではない。素でいてほしいとか言われても困っちゃうのだ。服を選んでメイクをして髪を切ったり染めたりして身体に加工や装飾を施すのは「私になる」ためなのだ。「私になる」ことは、人から見て可愛いとか、可愛くないとか、それよりももっと根源的で大事なことなのだ。それは自己表現と言う言葉で表されても違和感のある類のものだ。表現すべき自己が最初から内側に存在していてそれを表に出すと言うのではなく、表に出してみてしっくりくるまで試行錯誤してはじめて自己を見つける自己になる。あるいは統合される。メイクをして、服を着て、やっと私になるのだ。そしてそれが自分にしっくりくるものであることも必要だ。しっくりくると言うことで言えば、筋肉を鍛えて強い体になろうとしているのにも似た感覚がある。環境になるがままにまかせた体を私は私の体と思えるのだろうか。服を着る、メイクをする、髪を切るように、筋肉をつけることによって肉体を自己と統合したい。鍛えて筋肉をつけることで肉体を自分が所有していると言う実感を得られる。
 しかし手を加えることで私になるだけじゃなく、人から見ても美しくありたい気持ちもある。先ほど可愛いか可愛くないか以前に身体に加工、装飾を施すことで自分になると言うそれが根源的に大事なものとは言ったが、自分を統合する上で他者の目線も大事で、そのように私になった私が私として人に承認されることによって私になる部分もある。私のファッションが身体を装飾、加工したと言う自己満足で終わらずに社会的にもおしゃれで美であることを求めると言うこと、家族にファッションを否定されることに反感を覚えることは、承認を求めていると言うことなんだと思う。
整理すると、
ただただ自分の肉体を加工したり装飾すること
②それが自分にとって自分らしく、しっくりくるものであること
③それが他者から受け入れられること
の三つがファッションによって自己を統合するために必要な要素で、①から順に段階的に必要になる。ただ他者から受け入れられることは別要素と言うか、別の軸のような気もして、、また整理しつつまとめていきたい。


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