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ケア日記ー自然の時計 9月24日

父が好きだった庭の柿 去年はひとつもならなかった 「枯れたのかしら」何度母に聞かれただろう

おととしはびっくりするほど豊作だったので一年おやすみして栄養をたくわえているんじゃないかと思っていた そうはいっても柿に二年続いてやすまれたら、母の「枯れたの?」をもう一年余計に聞かねばならないのがやるせなく憂鬱だった

幸い柿の木は一年おやすみしただけで今年は甘い実をつけている 鳥たちもさっそく啄んでいる よかった万歳柿の木様ありがとう

それにしても何度「枯れたのかしら」と聞かれたことだろう なにせうまく答えられない

わたしはこういう問いかけに如才なく応じ、さらりと流す術に実に恵まれていない

父が好きだった柿が枯れたのかと聞かれるだけで胸がつまりそうになる 繊細なのか心配性なのかあたまで考える以前にからだが反応してしまう

何度も胸がつまりそうになりながら、ことしの春、ちいさな青柿をいくつか見つけたときは自然の営みに感動して胸をなでおろした

「たくさんじゃないけど青い実がついてるわ 大きくなるかわからないわねぇ」

そう母に伝えると、母はだまって聞いていた

沢山ならなくてもいいから実が色づく秋まで安心して過ごせるとわたしは心底安堵した

初柿をもいで居間のテーブルのうえに置いた 実はいつもよりやや小ぶりだ 

しばらくすると居間で母親の声がする

「柿とれたのね」

枯れたのかとさんざ心配したのはどこへやらさっそく皮をむいてくれた

ミニサイズだけれど甘い 父が好きないつもの甘い柿が戻ってくれた たまに鳥も食べない渋柿ができてがっかりするときがあるのでよかった ここでまた安堵

柿が渋いとき、父は渋いのがたまにあるよなと苦笑いしながらひとつは切って食べ、ひと切れくらい食べろとわたしにすすめるのだった 毎年お世話になっている柿の木様に父なりに礼を尽くしていたのだろうか

甘い柿がちゃんとなるかどうかも母親のメンタル世界に影響し、ひいては健康に響くのではと心配していた 甘い柿でよかったものの心配ばかりの一年を過ごした自分が哀れになってきた

もし今年も実がならなかったら、もし渋かったら、あと一年待つのは耐えがたかったろう

こんなことまで家族ケアに数えがちで心配しどおしなのは性格とはいえきっとケア過剰気味なのだろう

ささいなことでも家族に心配させないように生活の細部まで整えようとすると、一介の人間ごときにはわからない自然の摂理まで心配することになる さすがに無理な相談である

つねになく長引く夏バテの原因は自然の成り行きでどうにもならず、このうえさらにどうにもならない心配事まで抱えこんでいたのでは体がいくつあっても間に合わない

訪問看護師の方々から手ほどきをうけながらひとつづつやっていた父のケアと、四季折々どこまでも続く家庭の日々はずいぶんちがうようだと、考えてみればあたりまえのようなことを柿の実を齧りながらつらつら考えてみた

ほんとうにわたしはわかるのが遅い 鈍いのだ 母親はいつのまにか元気になっている 肩の故障すら忘れてしまったようだ わたしが身を挺してがんばるには及ばない 元気になったひとに対して余計なお世話を山ほどしてしまったかもしれない

いくつかもいだ柿のひとつがすっかり熟している 濃い飴のように熟し切って皮をむけないくらいだ

柿は何個なるのかわからない、甘いか渋いか、熟す順番だってわからない そんな柿の実を心配するようにわたしはこれまで家族を心配してきたのだろうか 

もうじゅうぶんだよこれからは無理せずまかせていけばいいと柿の木にいわれている気がする

キジバトだって柿の実を食べながらきっとそう思っているにちがいない キジバトとわたしはもう何年もおなじ柿を分け合うともだち同士だ

いつもの秋が約束どおりやってきた 元気になった家族の力を信じて家族のことは家族にまかせていこう それが自然の時計なのだ その先にまたケアを考えるときが来るならそれでいいとおもうようになった

ここまで読んでいただきありがとうございました☆






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