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牛若丸反省日記①

気づき

幼名牛若丸こと源義経は数々の戦での功績と伝説を残し、日本人なら誰でも知っているといっても過言ではない日本を代表する歴史上の人物である。
私が住む徳島県でも数多くの義経伝説が残っており、10年以上前(ちなみに今45歳)地元の歴史というものに初めて興味を持って調べてみることにしました。
すると興味深い事にあの滝沢秀明が演じた源義経や世間一般で語られている心優しくて「弱きを助け強きを挫く」いくさの天才義経とはあまりにもかけはなれた悪いエピソードが徳島だけではなく、屋島の合戦があった香川県、一の谷の戦いがあった兵庫県、壇ノ浦の戦いがあった山口県などの各名所で極悪エピソードが残っています。                    しかし「義経は男前でもなければ正義の味方でもない!」とか、数々の悪いエピソードを聞いても普通に「ふーん!あっそう!」「私達の大好きな義経が卑怯で悪い奴な訳ない!」と言ってスルーしてしまいます。
現に皆さんもそうではないでしょうか?歴史上の人物が一般的に語られている事と実は違うといっても子供の頃から聞かされてきた事が頭から離れないし、一度染みついたものはなかなか覆せないのです。          むかし話やNHK大河、伝記物が堂々と「極悪な平家を滅亡させた最大の功労者!強くて正義の味方でスーパーヒーローだ!」と言っているのだから間違いない、間違っているはずはない!と思い、なんとなくの「空気」を読んで私達は流されていくのです。                     そもそもなぜこんな事にひっかかり興味を持ったのかと言いますと、母が大河ドラマの『源義経』を観ていて、平清盛に源頼朝や牛若丸は命を救ってもらっておきながら「父の仇!」といって平家を滅亡させた事に純粋に疑問を
覚えたからです。                                 確かにそうです、敵の大将の子供たちはその時代殺されるのが当たり前なのに、なぜ平清盛は殺さなかったのでしょう?

源義朝(みなもとのよしとも)

テロリスト

そもそも源義朝(頼朝・牛若の父)と平清盛は友人同士なのになぜ戦うことになったのかというと、義朝が平家の方が朝廷に優遇されている事をやっかみ清盛の留守を狙って謀反を起こしました。しかし清盛にこれを阻止され失敗に終わりました。                         源氏はとにかく「殺るか殺られるか」という坂東武者特有の荒々しさや、卑怯な手を使っても勝てばいい、ルールなど無視「弱いものは死ね」という精神!武士のプライドなどかけらもない、身内同士ですら殺しあうような一族であります。                             源義朝は謀反に失敗し尾張国に落ち延びてたとき自分の家臣である鎌田政清(かまだまさきよ)の舅(しゅうと)長田忠致(おさだただむね)の屋敷で長田親子に、武器を持っていない入浴中に殺されたそうです。これこそ自業自得!「勝つ為には何をしてもいい」がブーメランとして返ってきたようです。 

平清盛(たいらのきよもり)

平清盛

一方、平清盛はといいますと                          捕らえられた子、頼朝は死刑が当然とされていましたが、
義理の母である池禅尼(いけのぜんに)が『亡き子息の家盛(清盛の異腹弟)に源頼朝の面差しが似ている。家盛は腹こそ違え六波羅殿(清盛)の弟でもございましょう。その弟の回向のためにも慈悲をお示しなされ』と言われ殺すのをやめたのです。                      清盛は義理の母のいう事を聞いて元服している一人前の頼朝(復讐される危険がある)や乳飲み子の牛若を救い、若い命を大切にしたいい人だったのですね!
え?平清盛は悪行三昧で横暴でやりたい放題で後白河法皇(ごしらかわほうおう)を幽閉したり、暴れん坊の独裁者じゃなかったんでしょうか?             「おごる平家は久しからず」、「人は調子に乗ると痛い目にあう!悪い奴の最後は悲惨な最期をとげる!」の代名詞みたいに言われている平清盛!地上波や有名な歴史研究家達が書いた本など世間一般ではそういわれていますよねえ!                                なにかがおかしい!                         でもいちいち疑うと脳が疲れるし、歴史の専門家が指摘しないのに素人の私達が疑問を持つのは間違いで偉い先生方のいう事を聞く事が正しいに決まっている。

しかし一般的に語られている義経英雄説は子供心に面白いと思えなかった。
今考えるとなにかが腑に落ちないというか                                義経のエピソードに人間臭さがないと感じたからではないだろうか                                 古い時代なので資料不足だから仕方ないのだが・・・

ようするに「とってつけた」作り話くさい!

という訳で徳島市内にある文学書道館で『義経記』『平家物語』などを読み漁り、各時代においてどれほど歴史認識が違うのか本当の歴史はなんなのか?を調べることにしました。

源義経はダークヒーロー

世紀末

源義経が源平の合戦において三度も勝利しヒーローになった理由

古文書に残っている事が本当かどうかは検証しにくい面もありますが、TVドラマや漫画・アニメ、有名な作家さんの言い分だけを信じる訳にはいきませんので、ありきたりな事を書いていない書物、室町時代に書かれた『義経記』や司馬遼太郎さんの小説『義経』、GHQによって焚書(ふんしょ)にされていた書物、その他多数の文献なども見てみました。

有名な話では幼い牛若丸を母の常盤御前(ときわごぜん)が鞍馬寺にあずけ仏の道に進ませたと言われています。

しかしその後、天狗に戦い方を教わり、夜な夜な鍛錬を積み、強くなっていきました。

天狗

この天狗というのは
顔が赤くて凹凸が激しく鼻が高い事から外国人ではなかったのかとか
戦で落ち延びてきた武士や荒法師、ならず者が鞍馬寺の山奥に身を潜めていた事は有名だったそうでその者たちが天狗の正体であるとか

そこへ平家が栄華を誇る世の中に不満を抱いていた源義朝の家臣、鎌田政清の一子である鎌田政近(かまだまさちか)が密かに牛若丸→遮那王(しゃなおうに改名)に近づくのです。

悪魔の影

その鎌田政近は遮那王を鞍馬の奥、僧正ヶ谷という『日が暮れると誰も近づかない物の怪の呻き声する天狗の住みか』に呼び出し源家の系図を見せ、遮那王が高名な武人たちの子孫である事を教えました。

源氏歴代の武勇伝や鬼神をも恐れぬ勇猛な漢たちと同じ血が自分にも流れている事を知り、強い衝撃を受けた事でしょう。

そして恐ろしい事に父親が亡くなったのは平清盛のせいだと焚きつけ、復讐に生きるように復讐以外の快楽を求めるなと心と脳に刷り込んでいったのです。    

魔剣

この言葉の呪いとも呼べる洗脳にかかった遮那王はそれ以来、物の怪や天狗が乗り移ったと鞍馬寺でささやかれる程、目つきや人格、身のこなしが変わり、それまでの従順な少年はそこにはいなかったのです。

悲しい事に義経はみなしごで山奥の寺にあずけられ理不尽な苦行や坊主たちの悪い習わしに苦しめらた闇の少年時代に
突然現れた父親の家臣の子に目の前でひざまずかれ父親の武勇伝や死の原因などを聞かされれば心が揺れ、洗脳され人格が変わることは必然である。

その後義経は一心不乱に父の仇を打つことに純粋に頑張っただけで。そこに陰謀はありません。ただ兄頼朝に認めてもらいたい一心で平家を滅亡させる事に突き進んでいったのでしょう

そこに義経を悲劇のヒーローだと祭り上げる要素があるのかもしれません。

しかし頼朝はすでに14歳を迎え当時では成人で元服していた時に、平清盛に命を救ってもらい恩がある事は十分理解しているはずです。

頼朝

それなのに平家を滅亡させて、初めての武家政権を樹立したといってもあまり褒められたものではありません。


いよいよ次回、源義経の犯した罪についてみていきます。                      

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