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Stand By Me

リコリス・リコイルの二次小説。
たきなが千束を失いたくない気持ちに気付く話。
※若干の流血表現あり。

1


都内某所、雑居ビル。
その一室でたきなはクルミの指示を待っていた。

夜は既に帳が下り、月は雲に隠れてぼんやりと照っている。月明りが届かないためか周囲は絵具で塗りつぶしたかのように真っ暗で、建物の輪郭のみが縁どられたように光っていた。
たきなは外の様子を眺めながら、どこか遠い異世界に迷い込んでしまったのかと得体の知れない薄気味悪さを感じていた。

今回の任務は過激派組織の検挙が目的だった。
監視を続けてきた組織の会合が今夜この建物で行われるとの情報が入り、喫茶リコリコに依頼が舞い込んできたのだ。
作戦では会合の隙を見てクルミの動かすドローンが現場をかき乱し、次に千束が突入。対象が逃げ出したタイミングで出口で待ち受けるたきなが捕縛。その後は近くで待機するミカとミズキへ身柄を引き渡す予定だ。

同じような任務は幾度も経験してきたし、大して難しい内容でもない。

──なのに妙な胸騒ぎがするのは、一体なぜだろうか。

『ターゲットが到着したぞー。見張りを合わせて全部で四人。事前情報との人相も一致。さっさと準備しておけよー』

クルミからの一報で意識が現実に戻される。

今は任務中だ、集中しろ。

たきなは自分の頬を軽く叩き、余計な思考をシャットアウトした。

暫くすると、下階からバラついた足音と低い喋り声が聞こえてきた。ビルは反響しやすい構造なのか、やまびこのように音が響き重なって近づいてくる。彼らの足音が千束とたきなが待機する階層に到達すると、次いで扉を開ける音がした。

同時にクルミから連絡が入る。

『親玉の二人は早速談話室に入ったみたいだな。残る二人は正面と裏手の扉の前にいる。千束は正面の、たきなは裏手の見張りを排除して持ち場についてくれ』
『オーキードーキー』
「分かりました」

たきなは小声で返事をし呼吸を整えると、部屋の扉へ近づいて耳を傾けた。待つこと数秒後、静かに扉を開けて正面を見やると、千束が既に見張りをのしていた。こちらを振り向いた千束とアイコンタクトを取り、気配を消して通路の奥へと移動する。

たきなは曲がり角まで歩を進め、顔を覗かせてもう一人の見張りの様子を窺った。周囲を警戒しているが、仲間が倒されたことには気付いていないようだった。
見張りが顔を背けたのを見計らい、たきなは体勢を低くした。敵の死角へ入り込み、一気に距離を詰め、勢いを殺さぬまま首元に一撃を食らわせる。敵は切断された老木のように倒れたが、床に着く寸でのところで受け止められ静かに横たえられた。

準備は整った。

『それじゃあ、登場といこうか』

通信機からクルミの楽し気な声が聞こえると、暫くして遠くから騒々しいモーター音が近づいてきた。その音が一層近づいた瞬間、ガラスが吹き飛ぶ音と男の劈くような叫び声が目の前の扉から漏れ聞こえた。

たきなは拘束銃を構え、音を頼りにタイミングを探った。足音が二つこちらに近づくのを察し、勢いよく扉を開けて即座にトリガーを引く。射出されたロープは、目の前の敵にグルグルと巻きついて大蛇のようにキツく体を縛り上げた。あまりの苦しさに男達は汚らしい言葉を喚き散らしたが、ロープの勢いにつられて後ろに倒れ頭を強く打ちつけた。

この間、約一分。

先ほどまでの喧騒は幻か、部屋は一瞬で静寂に満たされた。

たきなは一息つくと、捕縛した二人の前に立って身をかがめた。意識があるか確認したが、どちらも気絶しているようだった。

「運んでも問題なさそうですね。後は店長とミズキさんにお願いしましょうか」
「……」
「千束?」

冗談どころか返事が一つも返ってこないことを疑問に思い、たきなは顔を上げた。

そして、その姿を見て目を見開く。

千束は、腹部から大量の血を流していた。

2


たきなは必死の形相で駆け寄り、バランスを崩して倒れる千束を全身で受け止めた。

「千束、しっかりしてください!!千束!!!」

泣き叫ぶように千束に話しかけるが、意識朦朧としていて返事は無い。生温い液体は傷口からとめどなく溢れ、モルタル製の床を赤く染めていく。千束を構成する全てが急激に崩れていく感覚がし、途端に手の震えが止まらなくなった。

たきなは冷静になれと自身に言い聞かせ、背負っていたバッグから救護用品を取り出した。腹を圧迫されて呻き声を上げる千束を心苦しく思いながらも、少しでも反応が返ってきたことに安堵する。

腹部を押さえ続けながら、たきなは救援を呼ぶためにクルミに連絡を取った。しかし、何度試してもノイズが聞こえるだけで繋がらない。近くに待機しているミカやミズキにも試したが、こちらも一向に繋がる気配がなかった。

敵のジャミングかと考えを巡らすが、何より千束の身が心配だ。まずは脱出だと思い直し、作戦前に頭に叩き込んだ図面を思い起こす。確か、近くに非常階段があったはずだ。一階へ降りて、ミカとミズキとの合流地点まで歩いた方が早いだろう。

千束を慎重に抱えて談話室を出ると、通路の奥にある非常扉を開けた。敵がいないことを確認して出て行くと、そこには螺旋状の階段が設置されていた。たきなが足元を探りながら階段を降りる度、呼応するようにカンカンカンと錆びついた金属音が鳴り響く。規則正しく紡がれるリズムは残り時間を刻んでいるようにも思え、ますます焦燥感に駆られた。

階段の中段に差し掛かった頃、一度呼吸を整えようと歩を止めた。額からは玉のような汗がぽろぽろと流れ落ち、首元を伝ってたきなの体中を這い回る。

あまりの気持ち悪さに袖で拭おうとしたその時、

突如、背後から突き刺すような殺気を感じた。

たきなは振り返らずに必死に階段を駆け下りた。何者かは分からないが、その場に居てはいけないと確信するほどの強い殺気だった。そして、ソレは速度を上げて近づいてくる。

たきなは手早く千束を横抱きにすると、足が悲鳴を上げるのも構わず階段を飛ばして降りて行った。

地上は既に見えている。
あと少し、もう少しだ。

しかし、あと数段というところでソレはたきなに追いついた。千束の足に自身の腕を巻きつけ、強く後ろに引く。たきなは反動で空中に投げ出され、地面に全身を打ち付けた。あまりの痛みに絶叫し気を失いそうになったが、歯を食いしばり何とか意識を繋ぎとめる。口の中は衝撃で切れたのか、唾液に鉄の味が混じっていた。

狭まる視界の中、力を振り絞って階段へ目を向けると、得体の知れない真っ黒な塊が千束をずぶずぶと飲み込んでいるのが見えた。

「やめろ!!!千束を離せ!!!」

たきなは傷だらけの体に鞭打って立ち上がり、塊に向かって勢いよく突進した。相手が静止した隙に千束の腕を思い切り引き、体を引き離そうとする。しかし、塊は臆することなく千束の体をさらに飲み込んでいった。

たきなも負けじと奮闘していたが、途中で体力が限界を迎えたのか、何かが切れたように全身からふっと力が抜けた。塊は今だとばかりに千束を一気に飲み込み、遂にはたきなの体もずるずると引きずるように飲み込んでいく。

たきなは千束を離すまいと手を強く握ったが、二人の手はやがて糸が解けるように自然と離れていった。

意識は遠のき、

そして、

落ちた。

3


「よーっし!掃除終わったーーー!」
「お疲れ様、千束。お店も閉めたし、コーヒーでも淹れようか」
「先生いいのー!?やったー!!」

営業時間はとうに過ぎ、賑やかだった店内はミカと千束だけを残して静まり返っている。クルミは休憩室にいるはずだが、猫型ロボットよろしく押入れで眠ってしまったのか姿を表さない。明るくハキハキとした千束の声だけが、やけに大きく響いていた。

千束は掃除用具を片付け、いそいそとカウンターに座った。対面にあるキッチンをちらりと覗くと、ミカがサイフォンを取り出して何やら準備をしている。科学実験のような道具達を前にして、千束は子供のように目をキラキラさせた。ミカが得意としているこの淹れ方は、彼女の大のお気に入りだった。

せっせと道具を組みながら二人で談笑していた時、ふと思い出したように千束が告げた。

「そういえば、最近たきなが変なんだよ」

ミカは手を動かしながら、たきなの様子を思い起こす。しかし、記憶をあれこれ辿ったが思い当たる節はなかった。

「そうか?いつもと変わらないように見えたが」
「だって最近、ずっと遅くまで射撃の練習してるよ」
「鍛錬に励むのは良いことだろう。勤勉じゃないか」
「それはそうなんだけどさー。あと、そうそうあの酷い隈。パンダみたいになってる」

千束は両手で輪を作り、目を囲む。

「怖い夢でも見たんじゃないか」
「もぉー先生、たきなは子供じゃないんだから」

ミカは千束の反論に顔をしかめたが、気を取り直すと手元のランプに火をつけた。フラスコの中が沸騰したタイミングで一度火を消し、挽いた豆が入ったロートを取り付ける。もう一度火をつけるとまるで魔法のように湯が上へと吸い込まれていった。

「任務続きで疲れていたのかもしれないな。明日は休ませようか」
「うんうん、それがいいと思う。あの子、頑張りすぎ屋さんだからさー」

千束は腕を組み、首を大きく縦に振って頷いている。ミカは子供のような彼女の仕草に微笑むと、目線を手元に戻して慎重にロートをかき混ぜた。頃合いを見てランプの火を消すと、出来上がったコーヒーがフラスコの中へ流れ込む。
ミカは棚から二つのマグカップを取り出し、フラスコを傾けてゆっくりと注いだ。芳醇で豊かな香りがふんわりと店内に充満し始める。

「ほら、できたぞ」
「わーい!先生ありがとう!」

千束は満面の笑みでカップを受け取り、香りを胸いっぱいに吸い込んだ。アロマのような華やかなそれに、思わずうっとりとした表情を浮かべる。

次いで、いそいそとカップに口を付け、少しだけ口に含みゆっくりと飲み込んだ。

温かいコーヒーが疲れた体にじんわりと染み渡った。

4


コーヒー片手に談笑していると、突然玄関の方からコンコンと音がした。誰かが扉を叩いているようだが、閉店の看板はとっくのとうに提げてある。不思議に思ったミカと千束は思わず顔を見合わせた。

「こんな時間に誰だろう?」
「私が出よう」
「いいよ、先生はそのまま座ってて」

千束ははーいと返事をすると、早足で玄関に近づいた。用心してゆっくりと扉を開け、隙間から片目を覗かせる。目を細めてじっと見つめると、そこには私服姿のたきなが立っていた。

「あれえ、たきなだ!」

正体が分かって安心したのか、千束は勢いよく扉を開け人懐っこい犬のようにぎゅっとたきなに抱きついた。頬をすりすりと擦り寄せ、幾時間ぶりかの再会を喜んでいる。
たきなは千束の行動を予期していたのか、彼女の細い体を両手でしっかりと受け止めた。

「危ないですよ、千束」

たきなは千束の体を勢いよく引き剝がし、悪気の一切なさそうな相棒の顔を睨みつけた。

「でへへーー、たきなだと思わなかったから嬉しくてさぁ」
「…体を支える側の身も考えて行動してくださいよ」
「ごめんごめん。で、何用?」
「遅くにすみません。忘れ物をしてしまって」
「あ、そうなの。ほれほれ、早く入りなさいな」

千束は扉を開き、たきなを店内に招き入れた。たきなは小走りで店の奥へと消えていき、暫くすると手に小さなバッグを持って戻ってきた。恐らく目当てのものだろう。

「忘れ物は見つかったか?」
「はい、見つかりました」
「おーよかったねえー、たきな」
「では、私はこれで。店長、遅くにすみませんでした」
「ちょいちょいちょい!!すぐに帰るなんて寂しいじゃんかあ。もう少しゆっくりしてきなよ」

たきなは怪訝な顔をしていたが、千束は気にせずに彼女を半ば強制的にカウンターに座らせた。せっかくだからお菓子でも出そうかと店内を見渡した時、ふとカウンターに置いていた飲みかけのカップが目に入った。引き込まれそうなほど黒い水面には、不思議そうに見つめる自分の顔が映っている。

──そうだ、たきなにも飲んでもらおう。

千束はカップを手に持つと、したり顔でたきなの方を振り向いた。

「さっきね、先生がコーヒーを淹れてくれたの。美味しいよー?飲んでみない?」

千束はカップをたきなに差し出すと、上目遣いで反応を窺った。その表情は自信に満ちていて、たきなが手を伸ばすのを今か今かと待ち侘びている。たきなは暫く逡巡していたが、その口から出た答えは千束の期待を裏切るものだった。

「いえ、気持ちは嬉しいのですが…。今はカフェインを控えていて」
「えぇーーそうなのーー…」

千束は耳の垂れた子犬のようにしゅんとうなだれた。しかし、それと同時に違う考えが頭に浮かんだ。
彼女はきっと不眠に悩まされている。
こんな夜更けにコーヒーを飲んでしまったら、また眠れなくなってしまうのではないか。

「眠れていないのか」

千束の心情を察してか、ずっと沈黙を貫いていたミカが優しい声色でたきなに声をかけた。きょとんとした表情の千束が彼を見やると、ミカは気付いて不器用なウインクを返してくれた。

「……はい」
「そうか。顔が疲れているぞ。明日は休んでゆっくりしてきなさい」
「そんな、店長。私は大丈夫ですから」
「そうだよ、たきな。うーーんと羽伸ばしてきなよ」
「でも…」

たきなはオドオドとしながら、二人の顔を交互に見た。彼女のドがつくほど真面目な性格は、いついかなる場合でも仕事に穴を開けるのを許さない。ミカも千束もそれを重々承知していた。

「休暇は誰にでも必要なものだ。気に病むことはない」
「お店のことは任せて大丈夫だからさ!」

二人に優しく言葉をかけられ、たきなは自分を責めるような思い詰めた表情を浮かべた。体調管理すらできない、不甲斐ない自分のせいでお店に迷惑をかけることになる。悪い考えがぐるぐると彼女の頭の中を巡っていった。
しかし、優しく接してくれるミカや千束に対して意地を張り続けても仕方がないと悟ったのか、ややあって顔をゆるりと上げた。

「…分かりました。店長、千束、ありがとうございます」

どこかほっとした表情を浮かべるたきなを見て、千束は思わず彼女を胸に抱き寄せた。たきなに巣くう苦しみの正体は分からないが、少しでも楽になるように優しく頭を撫でる。

たきなは最初体をこわばらせていたが、千束の温かな体温を感じて安心したのか、空気がもれた風船のように徐々に力が抜けていった。

千束の肩にしな垂れ、瞼を閉じ、身を委ねた。

5


「もうこんな時間だ。たきな、一緒に帰ろうよ。準備するからちょいと待ってて」

ふと見上げると、たきなが店を訪れた時から時計の針が1回転していた。千束はそろそろ帰ろうかと荷物を取りに店の奥へ走って行く。
たきなは暫く手持無沙汰にしていたが、カウンターにポツンと置かれた千束のカップを見つけるとキッチンへ行って洗い始めた。

「お待たせ~~~…って、言ったそばから仕事してる」
「すまないな、たきな」
「いえ、店長。これくらいやらないと私が落ち着きませんから」
「たきなはほんとーーに良い子に育ったねえ」
「本来はあなたが使ったものですよ」

たきながカップを洗い終えると、後はいいからとミカは帰りを急かした。たきなはミカに礼を言い、カウンターに置いていた荷物をまとめ千束の方へ歩み寄る。

「じゃあ、行こっか。せんせー、おやすみー」
「店長、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」

千束は開けた扉の隙間からミカに軽く手を振った。バタンと扉が閉まってミカが施錠したのを確認すると、たきなの歩調に合わせてゆっくりと歩き始める。

沈黙するたきなを心配して、千束は何か話題をと口を開いた。

「…くま、真っ黒だねえ」
「そんなに酷いですか」
「うん。ずっと眠れてないの?」

千束は顔を覗き込んだが、たきなはまじまじと見られたくなかったのか反射的に顔を背けた。

「……最近、夢見が悪くて」
「怖い夢みたの?先生、当たってたんだ!鋭いなぁー」
「なんのことですか?」
「ううん、こっちの話」

千束はミカの洞察力に感心し、さすが先生と頷いている。たきなは理由が分からず怪訝な表情を浮かべたが、千束はあっけらかんと笑って誤魔化した。

「私の方がすこーーしだけお姉さんなんだし、悩んでることあったら相談してよ」
「千束が良い答えを出せるとは思いませんが」
「そんなことないし!こう見えてもお悩み解決なら日常茶飯事、経験豊富だよーー?」
「それは仕事の話だけでしょう」
「もう、いけず~~。私に相談しにくいこと…。ま・さ・か…恋の悩みだったりする!?」
「生憎、そんな浮ついた話はないです」
「ちぇっ、つまんないのー」

千束は唇をとがらせ、悔しそうに地団駄を踏む。子供のような彼女の仕草にたきなは思わず苦笑した。

その後、千束の何気ない話にたきなは相槌だけ返していたが、段々と無言の間が続くようになった。気まずい雰囲気に痺れを切らした千束が新しい話題を投げようとした時、突然たきなが歩みを止めた。

「…本当に、何でも相談して良いですか?」

千束は後ろを振り返ると、目をパチリと瞬かせた。今日のところは聞き出せなさそうだと諦めていたが、意外と言う気になったらしい。珍しくたきなが自分を頼ってくれたのも相まって、思わず心が踊った。

「もちろんだよ!何でも言ってごらんなさい」
「じゃあ、一つだけ聞いても良いですか?」
「おうおう!カモンよ」

たきなは少し迷いを含んだ表情で千束の顔を見つめる。千束は期待に胸を弾ませていたが、上着の裾を掴むたきなの手が震えているのに気が付いた。辛いなら無理に言わなくても良いと声を掛けようとした時、たきなは震えながらも凛とした声で述べた。

「千束は、ずっとここにいてくれますか?」
「…へ?」

予測していなかった質問を投げかけられ、千束の思考回路はいきなり電源を抜かれたようにショートした。意図が分からずたきなを見やるが、彼女はいたって真剣で射貫くような目線をこちらに向けている。千束は軽口すら許されない空気を察し、おろおろと狼狽した。

「お店のこと大好きだし、ずっといるよ」
「そうなんですけど、そうじゃないというか…」
「どういうこと?」

千束は混乱する頭を落ち着かせようと、目を閉じて呼吸を整えた。再び瞼を開くと、こちらに向けられていた彼女の視線は足元に行ったまま帰ってこない。

──私、何か間違えたんだ。

「変なことを聞いてすみません。失礼します」
「え?ちょっと、たきな!?」

たきなは無言で千束の横を通り過ぎ、そのまま全速力で駆けて行った。千束は追いかけようとしたが、徐々に小さくなるたきなの姿を呆然と見つめることしかできなかった。

「んもーー、訳わかんないよぉーー…」

千束は混乱する頭を抱えながら、とぼとぼと帰路についた。

6


あなたといる世界が

美しいと知ってしまったから

この手を離さなかったらと

悔やんでばかりいるから

失うのが怖いんだ

眠れないほど臆病な私を

あなたは居場所にするはずないのに

7


次の日、ミズキは日本酒を嗜みながら、カウンターに突っ伏した千束の相手をしていた。

「ねえ、ミズキー」
「何よ」
「ミズキはさぁー…リコリコにいつまでいるの?」
「……なに?早く出て行って欲しいの?結婚相手が見つからない私への嫌味!!?」
「違わい!!」

ミズキはイジメだと叫び、近くにあった酒瓶を掴むと思い切りあおった。千束は大袈裟なほど手を横に振って否定し、弁解するように前日のたきなとの会話について話し始めた。

「お店のこと好きになってくれたかなーって思ってたけど、違かったのかなぁ…」
「常連さんとも仲良くしてるし、アンタの思い違いでしょ」
「だよねぇーー?」

千束はわんわんと喚きながら、再びカウンターに突っ伏した。ミズキは情緒不安定な彼女を哀れに思ったが、触らぬ神に祟りなしと気にせず猪口に酒を注ぐ。零れるギリギリを狙おうと慎重に酒瓶を傾けていたその時、千束が唐突に顔を上げた。

「あっぶねぇ!酒がこぼれるわ!!」
「そうか、どんな夢を見たのか聞けばいいんだ」
「はぁー?」
「悪夢を見てから様子がおかしかったでしょ?どんな夢を見たのか聞いてみようよ」

千束は手をぽんと叩き、納得したように頷く。
ミズキは途端に面倒くさそうな表情を浮かべた。

「えぇーー…わざわざ掘り返しに行く気?」
「だって考えても全然分かんないし」
「時間が経ったらしれっと解決してるわよ」
「でも今のたきな見てると可哀想でさぁ…」
「言いたくない夢でも見たんじゃない?」
「例えば?」

ミズキは顎に手を当て、思考を巡らせた。

「……誰かが死ぬ夢とか?」
「確かに不吉だけど、たきなだよ?あんなに取り乱すかなぁ…」
「まあ、ねぇ…」
「うーん」

二人でうんうんと頭を悩ませていると、軽食を探しに来たクルミが後ろを通りかかった。

「たきなが見た夢のことは分からないが、ミズキがずっと店にいるのは確実だろ。相手ができる気配がまるでしない」

ミズキはくるっとクルミの方を向き、威嚇する蛇のように鋭く睨みつける。

「んだと!?アンタだって毛ほどもしないじゃない!?」
「ボクはそれで構わないし。というか、店を辞める基準がそこにあるのはお前だけだろ。ははっ、必死だな」
「はぁーー!?ちょっと待てゴラ!!!!」

クルミがリスのようにちょこまかと店内を逃げ回ると、ミズキは酒瓶を掴んで追いかける。その様子は、かの有名な猫とネズミのアニメーションのようだった。

「ちょいちょいちょい、お二人さーん…。あーもう、誰も聞きやしないんだから」

千束はやれやれと首を振り、ため息をつく。

「こうなったら、たきなに直接聞きに行こう。うん、そうしよう」

ギャーギャーと囃し立てる二人を横目に、千束はいそいそと帰り支度をし始めた。

8


夜が更けた頃、たきなはコンビニの袋を手に提げて帰路をふらふらと歩いていた。

休暇をもらったものの、昨夜の千束との会話について一日中考え込んでしまい、気が付いた頃には日が沈んでいた。気分転換にと買い出しに来てみたが、食欲が湧かずゼリー飲料を一つだけ購入して店を出てきてしまった。

精神的に落ち込んだことはあまりなく、仕事に支障が出るほど参ったのはこれが初めての経験だった。弱るときは弱るのだなと自身の新しい一面を新鮮に思いつつ、哀れに思い自嘲する。ぐるぐると会話の内容を思い出しては自分を殴りたくなる衝動に駆られるが、どうにか抑えて頭の中を整理することにした。

たきなは最近、同じ悪夢を繰り返し見続けていた。悪夢を見たのは初めてでは無いし、夢だと区別して今までは気持ちを切り替えられていた。

しかし、今回だけは様子が違った。

悪夢を見ているうちに気が付いてしまったのだ。
自分が千束の死を酷く恐れていることに。

以来、彼女の姿を見る度に生きていて良かったと泣き出しそうになるほど安堵するようになった。そして、これからも彼女の隣にいられるように鍛錬の時間を意図的に増やしていった。彼女は太陽のように明るく誰にでも分け隔てなく優しいが、自分自身の将来については顧みない瞬間がある。自己犠牲を躊躇しない姿勢に感心しつつも、どこか儚さを感じていた。

昨夜は彼女の意思を試すような質問を投げかけてしまい、弱々しい惨めな自分の姿に吐き気がするほど絶句した。唯一、千束がお店のことだと勘違いしてくれたのが不幸中の幸いだった。

「なんであんなこと…私…」

千束にどうやって経緯を説明しようか考えるが、優秀な彼女の頭脳はここ数日働くのを拒んでいて良いアイディアは浮かびそうにない。
たきなは睡眠不足で疲れた眼をこすりながら、とぼとぼと歩みを進めた。

遠くに自分の住まいが見えてきた頃、たきなは入口に人影があるのを見つけた。職業柄、身元が分からない人間にはむやみに近づかないようにしているため、反射的に電信柱に身を隠す。目を凝らして見てみると、見慣れた赤い制服が目に入った。

千束だ。

任務の連絡は来ていないので、気を遣って自分に会いに来てくれたのかもしれない。しかし、今のたきなには彼女と顔を合わせて言葉を交わす勇気が無かった。

暫く観察していると、千束は駆け出してどこかへ去ってしまった。帰るなら今がチャンスだと一瞬考えたが、どうにも千束の様子が気になってしょうがない。やることもないしと理由をこじ付け、たきなは彼女を尾行することにした。

春になると満開の桜が咲き乱れる公園。
皆で散歩した隅田川沿いの緩やかな小径。
任務の後に肉まんを頬張った近所のコンビニ。

千束に思惑があるのか分からないが、たきなと共に過ごした場所をひとつひとつ巡るように歩いていく。頭の中に眠っていた思い出が蘇り、思わず懐かしさが込み上げてきた。

暫くそうして千束の尾行を続けていたが、ふと彼女の背が段々と遠くなっていることに気が付いた。恐らく、こちらの動きを察して距離を少しずつ離しているのだろう。

──置いていかないで。

突然、心の中に抑えていた感情が堰をきったように溢れ出した。
たきなは尾行をやめ、千束の背に向かって勢いよく走り出す。目からは涙がとめどなく流れ、風に乗った小さな滴が彼女の黒髪を濡らしていった。

段々と近づいてくる足音に気付いた千束は、素早く後ろを振り向いた。

「たきな…ってどうしたの!?」

たきなは千束に追いつくと、彼女に縋りつき嗚咽を漏らしながら幼子のように泣いた。胸にぐりぐりと頭を押し付けるので、千束の制服は涙でぐっしょりと濡れて深い皺ができている。ここまで取り乱したたきなの姿を千束は見たことがなく、動揺して彼女を抱きしめることしかできなかった。

「ごめん、気付かなかっただけだから。落ち着いて、ね?」

千束はたきなの頭をゆっくりと撫でた。
そして、泣き止まないたきなを安心させようと優しく言葉をかけた。

「もう置いていかないよ。私はここにいるよ」

たきなは千束の声を頭の中で繰り返す。

──私はここにいるよ

それは、あの時、たきなが一番聞きたかった言葉だった。

千束は決して他人に真意を言わない。しかし、それは彼女の優しさ故であることをたきなは十分に理解していた。泣き喚く自分は卑怯かもしれないが、千束が自分のためにその言葉を紡いでくれた事実が無性に嬉しくてしょうがなかった。

たきなは声をしゃくり上げながらも、千束からゆっくりと体を離していった。そして、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を制服の袖で乱暴に拭く。自分が何に悩んでいたのか分からなくなって、おかしさから笑いがこみ上げてきた。

「ふっ…ふふっ…」

突然何かに取り憑かれたように笑い出したたきなを不気味に思い、千束は思わず後ずさりする。

「うお、笑い出した!!!」
「ふふっ…すみません、見苦しいところを見せました」
「…大丈夫なの?」
「もう大丈夫です」
「いや、でも」
「大丈夫です」

たきなは真っ赤に腫れた瞳で千束を真剣に見つめた。彼女に気持ちを伝えるにはこれで十分だった。

「まあーーー…よく分からないけど何かさっぱりしたね?」
「お陰様で。元々こうなった原因は千束ですけど」
「え!?そうなの!?なんで!?ねえ!?」
「絶対に教えません」
「そんなぁ~~~!!」
「ほら、帰りますよ」

たきなはくすくすと笑うと、千束の手を取って強く握りしめた。

──私はここにいるよ

もう決して離さないと心に誓って。


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